ノック、ノック。
「ミスター・カミングス。お食事をお持ちいたしました」
ノック、ノック。

「あぁ、起きているよ。ジョウンズ。心配ない。もう十分前から起きている。食事の時間かい? 分かっているんだ。今日は素晴らしい朝だ。一緒に祝福しようではないか。 ただ、ちょっとな・・・」
「ご主人様、どうかされましたか。何か問題でもありましたでしょうか」
「いや、いいんだ。少し悪い夢を見たのかもしれない。そんな気がするんだ」
「なんていうか、その、枕が亀に変わっちまっているんだよ。私の愛用の枕がね」
「枕がですか?」
「あぁ、枕がね」
< < ピロートーク> >

「おにいちゃんっ」と、彼女は小さく叫んだ。


年末から正月にかけてテレビで放映されていた「男はつらいよ」を2回ほど観た。

今さら説明する必要もない、渥美清が扮するフーテンの寅次郎の─時としては性懲りもなく─繰り返されるマドンナ達との恋物語と、葛飾柴又の実家をコミカルに描いたロングランの映画だ。確かギネスブックにも載っている。

私は学生だった頃、この映画が鼻について仕方がなかった。いや、この映画に限った事ではなく、日本映画自体に対して嫌悪を示してきた。
日本人だったら分かるに違いないといった前提をもとにした日本映画が提示するコミュニケーションには興味が持てなかった。
別に欧米の映画が死ぬほど面白いわけではない。無論、日本映画よりはダントツに楽しめた。
私は嫌悪を示していたのは何よりもその愕然としたエンターテイメントの質の「差」だった。日本映画には到達できない何かがそこにあった。
そして残念ながら、その何かは映画を生業としない小僧にも分かってしまった。

上手くいえないけどそんなに簡単なものじゃない気がした。

「男はつらいよ」に関していえば、大体のシナリオというのはもう観る側の頭の中に準備されている。
毎回異なる点といえばマドンナが誰で、寅さんが何処に行ってどんな騒動を起こすのだろうかというところだけだ。
観客はこのマンネリともいえない物語を安心して観る。毎度おなじみのタコ社長と寅さんの喧嘩に安心して笑い、帝釈天の下町の風景が心を捉える。
そして最後、結局はマドンナと寅さんの恋が実らず、日本の遠い何処から届く一通の葉書を寅屋の軒先でさくらやヒロシと一緒に読み、寅さんは今ごろ何処かなぁと感慨に耽る。
この限りなくワンパターンの映画シリーズは若い私を魅了する事もなく、私とは別の世界で上映され、人々を楽しませていた。


それから十年後。
ひさしぶりに観た「男はつらいよ」はひどく私を虜にした。

昔だったら平坦に感じた一コマゝが新鮮に感じ、なによりもその寅さん的さ世界が懐かしく感じた。映画にとしての表現としては可笑しいかもしれないがその世界に「戻って」きたようだ。
若い私だったら見過ごしたであろう寅屋の役者たちのやり取りや、京成電鉄の風景も涙が出そうなくらい心を奪われた。恥ずかしいくらいノスタルジイに埋もれる事が出来た。

私が年を取って懐古主義になったからでは無い。
十年経たないと私はこの映画の良さが分からなかったのだ。
言い方を変えれば私は十年掛けてこの映画の楽しみ方をようやく学び、認めることのできるゆとりを手に入れた。

「男はつらいよ」は大人の映画だったのだ。

もし君が二十歳を過ぎたばかりの若者だったら
「ふんっ、アンタも丸くなったな」と侮蔑ともつかないセリフを言うかもしれない。
青年よ、それでいいのだ。
君の血は熱く燃えている。
私もそうやって天に向かって唾を吐いてきたのだ。


< < 2004.01.13> >



邂逅 開高。


開高 健という作家がいる。いや、故人であるから居たと言うべきか。
「パニック・裸の王様」という作品で芥川賞を受賞し、その後も精力的に数々の小説を世に送り出した。
酒と釣りと旅をこよなく愛した人物でもある。

今日もあるかどうか定かではないが、渋谷の道玄坂の途中に、狭い入り口に鬱蒼と古本 を山積にした書店があった。店の名前は忘れた。
109やセンター街から辿っていくと、あまりにも静かな為、時折、渋谷であることを忘れるような佇まいの古本屋であったと記 憶している。

高校二年生の夏休み、私はその店で生まれて初めて自分の金で小説を買った。
その作者が開高であった。

「輝ける闇」という、今思えば彼の作家人生の中でもターニングポイント としても非常に重要な位置にあるベトナム戦争を題材とした作品で、何気なく読み始めたこの小説に私はあっさりと翻弄され、その一字一句の研ぎ澄まされた、それとも芳醇な果 実のような言葉の虜になり、訪れた事もないはずのヴェトナムの風景を肌で感じ、遠く南の空の焼けるような夕焼けを楽しむ事ができた。

小説の世界から世界を見る。 これまでに味わった事のない体験であった。
後に私はタイやインドなど東南アジアを中心に幾度となく旅をすることになるのだが、開高の小説からの影響が非常に大きい。
本文のくだりにあるような南国独特のねっとりした朝にざっけな屋台で汁ソバを食べる事を夢見て、ついに床がびしょびしょに濡れている麺屋の店先で湯気の香りを嗅いだ時に 私は心の底から感動したものだ。

この「輝ける闇」では恐らく作者の分身だろうと思われる小説家の男が主人公であり、彼はベトナム滞在中、アメリカ側、すなわち南ベトナム軍と一緒に寝食を共にする。
だが南側の視点から小説を書くことなく彼は北も南もないに違いない“この戦争の正義”の在り方を思い、時代が経っても決して変わることのない「匂い」を表現の手がかりとして何とかき留めようとする。
中盤、主人公はベトナムを旅をする米国人に会う。
その米国人は戦争の当事国の国民であることを十分に承知しながら、主人公に向かって言う。こんな台詞だった。

「簡単な算術なんじゃ。誰でも知っておるわい。アメリカ人を引けばいいんじゃ」

世界には、ある一人の鋭い作家によって、すでに回答が小説の中で用意されていたのだ。
私が生まれるよりもずっと昔に起こった戦争で。
ベトナム戦争と呼ばれた舞台の中で。

そしてこのアメリカ人旅行者の痛切な台詞を全てのイラクの罪も無き死んでいった民に捧ぐ。

< < 2004.02.04> >



RIP(requiescat in pace)


彼が死んでからあと少しでニ年が経とうとしていた事に私はむしろ驚いた。
約ニ年前に私の同僚は、自宅の部屋でたった一人、亡くなった。
ある日、会社にも来ないで電話にも出ない同僚を心配して訪ねた家族が玄関 の扉を開けたら、血を吐いて倒れていた。

若干27歳の若さだった。

私はその頃−といってもまだそんなに経っていないのだけれども−シフト制の インターネットの会社に派遣会社から派遣されて勤務していた。
仕事自体は電話番みたいな内容だったから特になんの感動も無く退屈そのもの で、先週の続きが今週の続きで昨日と今日の区別なんてできなく、多分明日も同 じ様に過ぎていくんだろうな、と電車に揺られながら通勤していた。

そういうのは言うまでもない事だが、奇妙な生活だ。

さて、その死んだ彼は、私より一期後輩の同じ派遣会社を経由しての入社だった。 一期といっても二週間くらいしか違わないし、ましてや派遣社員同士。
上下関係なんてあるはずが無いのが常識だと思いきや、社内では明らかに私は一足早い 先輩派遣社員という位置付けだった。
私には訳が分からなかったが、どおやら会社という場所はそういった事は重要視されているよ うで独特の不可思議な法則が満ちていた。

実際のところ、私と彼は、特に一緒に昼食を食べたことも無く、業務上でも数度しか話した事があるかないかの 挨拶を交わす程度の間柄でそれほど親しいとは言い難い関係だった。

それでも亡くなる寸前には、どちらからもなく話を掛ける程度の仲には発展していた。
私としては、会社のスタッフとあまり付き合いがなかったので、とても珍しいことだ。
そういった意味で私には私なりの死んだ彼への回想がある。

─死者への回想─。
─私として死者に語る事─。

死者に親しかった者だけが語れて、親しくない者には語る資格がない、というのは嘘だし、また、 親しくない者が距離を保つがゆえに語れて、親しい者には近すぎて語れない、というのも嘘だ。

私は彼が死んだ時に泣きもしなかったし、事実、通夜にも葬儀にも出席しなかった。 冷たいと思われるかもしれないが、そういった行為は死んだ彼に対してフェアではない気がしたのだ。
泣いてしまえば彼に対してのルール違反になった。

もちろん、一人の、仮にも面識のある人物が死んだのだから底知れもなく、悲しんだ。
一体どこの世界に知り合いが死んで悲しまない者がいるのだろう?

けど、泣く為には死者との間に何かしらの決定的なストーリーが必要だった。
私には距離があったし、泣く為のストーリーを生前に持ち合わせるほどの間柄ではなかった。

加えて一つ予想できる事なのだが、もしかしたら私が彼について語る事に不愉快な方もいるか もしれない。もしかしたら憤りを感じる方がいるかもしれない。
なぜならある特定の人達から見れば私はそれほど彼と仲良くみえなかったからだ。
「おいおい、お前になにが分かるんだ?」と。
どうか理解して頂きたいのが、こんな私にも彼に対して絶対に侵せない領域があるということだ。

偶然にも年末の師走が差し迫る最終出勤日、私と彼ともう一人の同僚で三人で私達は帰宅した。 駅まで10分、駅からほんの5駅ほどの些細な時間の中だ。
私達は明日から休みだという開放感も重ねて、近日中に開催される忘年会の話題とそれぞれの正月の過ごし方を 話した。
彼は新作のアクションゲームに心を馳せていたし、私は年末のカウントダウンをどれだけ 粋に過ごそうか考えていた。
年末の何処にでも見られる風景だ。

私達はとりとめも無く、そういえば、こうやって一緒に帰った事ってなかったよね、とか あの映画観た?とか、熱心に話した。

友好のスタートだった。

そこには春の日差しのようなこれからに向けての温かい予感が確固としてあった。
私にはそれが感じられた。
そして、たぶんそれは世界の全ての友人達が持つ温かい何かだった。

*

私は、彼の死が確認された後の、会社の風景をいつまでも憶えている。
それは、普段と変わり無い、ごくありふれた朝の日常だった。
ビルの最上階の休憩室に差し込む色の褪せた冬独特の薄い日差しもいつも通りだった。

ただ違うのは何人かがおぼろげに外の風景を眺めてしゃくりをあげて泣いていた。
そこにいた誰もがその涙の意味を知っていた。
それぞれがお互いに話すこともなく、触れ合うこともなく。
同じ気持ちで涙が溢れていた。

いったい何が起きてしまったんだろう?と。

オフィスではおどけていることで有名な同僚も、人目をはばからず肩を揺らして泣き続けていた。

きっと私はその風景をいつまでも忘れない。


< < 2004.02.10> >



さあ、ゲームのはじまりです。


連続殺人事件の元少年なる加害者の21歳の青年が出所した。
少年犯罪としては最長の服役期間であるそうだ。

私は思うのだが、何故いまもっても、彼は「元少年」としてカテゴライズされるのだろうか。
あるいはそのような形式で表現されるのだろうか。

「元少年」という言葉には彼がまだ少年だったという、即ち、法的に未成年として名前を伏せたまま通用していたという部分を必要以上に露呈している。

彼はもう少年ではなく「加害者の青年」である。六年以上も経過したのだ。彼は一人の成人した男性であろう。

「元少年」という表現は問題を曖昧にし、甘えを生じさせる。
もう「元少年だからさ・・」では済まされない。認識する必要があると私は思う。

服役中、各方面から彼の心の闇を探る為に、そして、その闇の部分をどうにかケアしようと治療を受けたり、カウンセラーを受けたという記事が良く目に付く。
なるほど、終身刑に服する事が出来なければ、いずれ出所する為に、一般人として生活する為には重要な課題であろう。
けれども自分のかわいい愛娘を殺害された被害者、校門に首を置かれた被害者への社会的なケアやアフターフォローの情報が届いてこない。

私は人権というものがどのように保護されていくのかを知らないけれども、少なくとも 加害者と被害者は同列に語られるべきものではないと思う。たとえそれが14歳の犯罪であっても。
そこには境界線が必要だ。お互いが踏み越える事の出来ない立ちはだかるべき線が。
平等ではない「平等」というものもある、と私は信じている。

< < 2004.03.11> >