Everytime we say goodbye.


大学の空手部では毎年夏合宿を開催して、誰かがその幹事をしなくてはいけなかった。

週3回ある練習のうちの1回を常に参加しなくておまけに体育会の会議にも出席をしなかった僕にとうとうそのお鉢は回ってきた。

ゴミ置き場みたいに饐えた匂いがプンプンする部室で「ちぇっめんどくせえな」とぼやいたら、極真空手を本格的に習っている真面目だけが取り柄の2学年上の先輩が睨んだので情けないことに僕はその使命をすごすごと引き受けた。

その先輩の蹴りを食らうくらいだったらトラックに衝突したほうがマシなんじゃないかと思うぐらいの怪力の持ち主で、なにしろ空手の達人だったし、事実、数週間前の組み手でコテンパンにぶちのめされたばかりだったから、多少なり懲りていた。

しかもさすがにこれ以上断る材料がなかった。だって、土曜日の練習はまだ1回も出たことが無いんだから。

そんなことを言ってしまったら気合のこもった正拳突きを食らってしまう。

じゃあ、夏合宿の場所を選びたまえと仰々しく命令されても、インターネットもケータイもない当時、合宿所を探すのは今じゃ想像もできないような一苦労で、おまけに魅惑的な話も起こりそうもない孤独な仕事だから一秒もその為に時間を割きたくないのが健康的な男子の思考だったけれど、表富士にある合宿所(近い、安い、涼しい、道場があるが選んだ理由)に的を絞ったら、民宿の奥さんが「下見がてらに遊びに来なさい」というので、僕はその誘いを決して反故にせず、思う存分遊べるようにと、その前の週にセンター街でナンパした真美子と、真美子のお父さんが買ってくれたというセダンの新車で表富士に向かった。

合宿場は安いが取り柄のわりにはしっかりとした日本風の建物で、道場も近く、ご飯もまあまあだった。
しまいには真美子をマネージャーだと嘘をついて、2人で泊まることにした。その民宿のおばちゃんは「アラ、随分と派手なマネージャさんね」なんて呟いていたけれど、あたかも素知らぬ顔で僕らは一泊して、そのタダの旅行を楽しんだ。

さて、実際の合宿はというと、フィリピンの刑務所の懲罰施設のほうがマシなんじゃないだろうかと疑問を抱きかねないレベルのメニューが目白押しで何度も脱走を試みたくなるような内容で、炎天下だというのに身も凍えた。
おまけに暇そうなストレスの発散が目的でしかないOBのお相手とかで目が回りそうだった。

挙げ句の果て、僕はその合宿の幹事だったので酒の手配とか集金とかをしなくてはいけなく、まるで小間使いの丁稚のような状態だった。

「俺は旅行代理店のコンダクターじゃねえっつうの」OBにアサヒのビールがどうしても呑みたいから買ってこいと命令されたとき、僕は同学年の部員に愚痴をこぼした。

でも彼らは「まぁ、仕方ないじゃん」と言うだけで僕の手伝いをしてくれず ─僕も逆の立場だったらきっとしないだろう。ハンパじゃない練習のあとに買い物なんて行けない─ 、居心地が悪そうに僕をかばった。

アサヒのビールを獲得する為には、僕は30分以上歩かなくてはいけなかった。

もちろんそんなダルい指令は一人で引き受けるのはもったいなから、ちゃんとさらに後輩を手配して「OBのビールを購入するというのは大変光栄な任務だ。果たして完遂できるか不安もあるが、どうだひとつ君たちがやってみるか」と手なずけてリリースした。

そして最終日、後から金が足りないんじゃ余計な問題も発生するだろうから少し多めに集金してやろうと、大袈裟に徴収したら、予想を反してなんとどういうわけか手元に幾らかのお金が残った。

ほんとだ、ワザとじゃない。

誰に誓っていいかわかんないけど、僕はみんなの二度手間を省く∴ラに多めに集金しだけだ。

で、こんだけこき使われたんだからと僕はそのお金をお小遣いにあてて、建築現場で少しアルバイトをして涼介とマレーシアへと旅行することに決めた。

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色気やバカンスと何万光年も離れている空手部の合宿と比べたらマレーシアのランカウイ島は天国に一番近い島だった。死ぬほど旨い印僑が作るカレー。搾りたてのフルーツジュース。焼き飯。眩い水着ギャル。僕らは実にゴージャスに楽しんだ。

ただ、自国内なら問題ないが、海外に行くとビーチサイドで男が二人して日焼けを楽しんでいたり、水遊びをしていると同性愛好者と間違えられる。

当時はまだ20歳でしかも実年齢より若く見られるので(アルコールを求める度に年齢を尋ねられるのには閉口した)、さほど心配はしていなかったとはいえ、やっぱし誰かがそんな風に勘違いしているんじゃないかなと心の何処かでは考えていた。

ペルジャヤ・ランカウイホテルにはどういうことか女性の二人組ばかりで、しかも年齢で云うと23-27歳ぐらいのOLがゴロゴロしていたので、なるべくヘテロセクシャルであることをアピールして、僕らはビーチパラソルの影で鼻の下を伸ばし物色をしていた。

*
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先に話し掛けてきたのは知美たちからだった。

知美たちは鹿児島からやって来た銀行に勤めているOLで、二人とも25歳だった。

もう一人の子は由香という名前だった。

僕らはてっきりこのホテルに泊まっているのは東京から来た連中だけだとばかり思っていたので、九州からやってきた銀行に勤めている年上のOLという設定だけで、もうクラクラした。

知美はスラっとした細身のショートヘアーで25歳には見えなかった。

童顔のせいもあるのだろうか。同年代といっても通用しそうな雰囲気だ。

由香は大人しい感じのちょっとふっくらとした子で愛嬌があって、ケラケラ笑うのが特徴的だった。こんな風に笑ったらさぞや楽しいだろうなというのが由香の笑い方だった。

ホテル内にはクラブが一店だけあって、ユーロビートを垂れ流すようなお粗末なレベルで東京だったら決して入店したいと思わない店構えだった。

でもどうして僕らがそこまでしても視察しに訪れたかというと、当時既に国内の音楽に嫌気が差して海外の市場に傾いていたというのは嘘で、言うまでもなく、昼間のビーチサイドにたくさん居た女の子たちがここに集合して踊っていると打算したからだ。

僕らが満を持して店に入るとDJが海で遭難したイギリス紳士のような訝しい顔でターンテーブルを回していた。

お客さんより店員が多い。そしてテーブルの数が人より多い。誰も居ないくせにギンギンに冷房を効かせているので、鳥肌まで立ってきた。

「だめだ、こりゃ」涼介が呟いた。

こんなところに幾ら居たってステキなサムシングは死んでも起こらないだろうから、僕らはサッサと店を出ることにした。2人とも免許を持ってないので街まで出掛けることができないけれど、タクシーを飛ばせばダウンタウンまで運んでくれるだろう。

知らないアジアの街の夜に僕らの期待は高まった。

知美たちとはそのクラブの入り口近くで会った。

「あら、やってないの?ここ」

一瞬目が合った知美があけすけに僕に尋ねたので僕らは少し驚いた。

「ん、やってるよ。ただ誰も踊ってないけどね。客は僕らだけだった。なあ」

僕が笑いながら言って涼介が頷く。

こういう時の僕らの機転は東大生なみである。偏差値95ぐらいだ。

涼介の目が輝いているのが感じられた。

涼介も僕が身を乗り出したのを察したのだろう。

だってこの知美たちこそがプールサイドで一番目立っていた可愛い子だからだ。棚から宝箱が落ちてきた。あとはその宝箱の鍵はどこにあるのかだ。

「あら、そう。」
「じゃ、仕方ないわね。どうしようかしら」
2人が顔を合わせて苦笑した。

女の子たちが男子の目の前で「どうしよう」と言った時は、それは「私たちを誘って」というサインである。

これは僕と涼介が経験則から編み出したルールだ。
それは今も変わらない。いつだって乙女は僕らの誘いに胸を躍らせている。僕らは続けた。

「そうだ。ねぇ、クラブもやってないし、もしさ、ノリだったら、今から呑もうよ。なあ?」涼介が僕を促す。「そうだね。せっかくだから呑もうよ。マレーシアだし」。

なにがせっかく≠ナマレーシアだし≠ネのか分からない気もするけど、旅行の出会いときっかけなんてそんなものだ。

知美たちは少し考えてなんか相談していたけど「いいわ。呑みましょ」と僕らの誘いに応じた。

「せっかくだしね」知美がわざと僕にそう言ってからかった。

クラブを出るとスコールが降ってきた。

ペルジャヤ・ランカウイホテルは全ての部屋が一棟ずつの独立したコテージになっていて、つまり屋根のある廊下なんてものは用意されていないから、満天の星を眺めながらのんびりと部屋に戻るか、突然のスコールに見舞われて血相を変えて部屋まで疾走するのかどっちかなのだ。

スコールの音で僕らの声が掻き消されている。

日本では絶対に大雨注意報が流れる程の雨量だ。

旅のハプニングは愉快だ。びしょびしょに濡れた知美が僕に叫ぶ。

「ねぇ、これからどうするの?」

ドラマのワンシーンみたいだった。大雨の中で立ち尽くす男女。

「部屋に行こうよ」

僕はどっちのとまでは言わなかったけど明らかにその方向は僕らの部屋まで続く道なので、知美たちの部屋と僕らの部屋は坂を隔てて歩いて5分ばかりの距離だ、とりあえず僕らの部屋まで行くこととした。

僕はさりげなく知美の手を握った。軽い緊張が走る。

部屋についてバスタオルでびしょびしょになった髪を拭いた後、簡単な自己紹介をした。

知美が僕らに質問をした。

「もしかして君たちはゲイやないよね」

由香が堪えきれずに笑いをかみ殺している。

僕と涼介は呆気に取られて目を丸くした。

で、僕。

「ほらほら、だから言ったじゃん。絶対にゲイに間違われるって。つか俺らすんごい心配していたんだよね。プールサイドで」

「マジかよ。ほんとに間違えられるのか」少し半信半疑だった涼介が首を振った。

「いや、ほら言ってたんだよね、コイツに。プールサイドで普通に沈めっことかして遊んでいるときにさ、ふと思って。海外の、しかも東南アジアのリゾート地に男が2人で泊まっていてさ、しかもじゃれあってたら、もしかして危ないんじゃんって。」

「やばいな。もしかしたら他に居た女のコとかも勘ぐってるのかな。つか目が合ったのは気が在るんじゃなくて、ホラホラ、ゲイが遊んでいるわよってサインだったのか、あれ」涼介がわざとらしくうなだれた。

「じゃん≠セってー。」

「そんなん言い切らんよー。うち達」
知美と由香が顔を合わせて興味ありそうに僕らを見つめた。

僕らは自分達が大学生で、涼介とは学部が違うけど、たまたま僕の同級生と涼介が同じ学生寮なものだったから急速に仲良くなって今回の旅行に来たんだと話した。

僕の空手部資金調達事件を冒険談に仕立てて話すと2人ともケラケラと笑った。

「そうそう、それでさ、シャクだから領収書とか金額書かないで貰って、そのあと図書館で電卓叩きながら綿密に計算したんだ」

「いけん子やねぇ」と知美が言った。
なんだかその言い方がお姉さんっぽくて僕はドキドキしてしまった。

そのあと彼女たちの話を聞いてみると、どうやら知美には鹿児島に婚約者がいるそうだ。

その事実がウルトラマッハで僕を意気消沈させた。
婚約者のいる年上の女性。猥褻小説あたりには転がってそうな状況は現実に促してみればはなはだハードルの高い厳しい設定だ。

僕のラブアフェアは湿気った線香花火みたいにショボショボと下降した。一方、由香には彼氏はいなかった。

当初から由香を気に入っていた涼介はもっと鼻の下を伸ばして、勝負に出るところだった。

でも結局のところ、僕はなんとか適当な理由を見つけて ─ねぇ、お酒取りに行こうよ─ 2人っきりになるチャンスを作った。

9回裏の二死出塁無しでもバットを振らないわけにはいかないのだ。

涼介が顎をさすっている。上手くやるんだぜっていうサインだ。
突撃前のパイロットの気分だ。
親指を挙げるかわりに顎をさするわけだけど。

僕も顎をさりげなくさすって彼の顛末を祈った。

グッドラック、フレンド。

部屋を出て2人で肩を並べて歩くと知美のことをめちゃくちゃ意識している自分に気がついた。

知美はどうなんだろう。そもそも婚約者なんて言葉はテレビか映画の世界のみで自分の身の回りには存在しない言葉なんだから、どんなポジションなのか考えることも出来ない。

手を出したらひっぱたかれるかなとか余計な心配をした。

でも手を繋いだし・・・。あれは単なるノリにしか過ぎないのだろうか。

僕はただただ悩むだけだ。なんて女々しいんだ、俺は。

自嘲的に自分を笑い、勇気を振り絞って告げた。

「知美ちゃん、手を繋ごう」
「なんだか高校生みたいやね。ウチ達。夜に抜け出してお酒取りにいくなんて。でもウチこういうの好きやわ」。

「ウチこういうの好きやわ」が「ウチ、コウが好きやわ」に聞こえ間違えないようしっかり注意して、胸の高まりを抑え知美の手を握った。

途中、またスコールが降って来た。酔っ払っているうえに深夜なので転びそうになる。「そっちやないで」とどうにかしてバンガローに辿り着いた。

「あらいけんち。鍵忘れてしもうたわ。なかには入れんちゃ」知美が僕を見詰める。

「どうしよっか」僕はなんとか彼女の瞳の世界に吸い込まれないように言葉を絞り出す。

バンガローの玄関の軒下にいるのに雨滴が飛び跳ねる。「ねぇ、ここでうちを抱いて」知美が僕の首に手を回して寄りかかってきた。

こうして、つまり僕は知美を抱いた。

これはあとから聞いた話だが、知美は僕らがプールサイドに現われた時点で気になっていたそうだ。

婚約者がいるという状態にそれなりに引け目も感じたし、あたって砕けろ精神の僕にとって知美の婚約者のことを忘れてしまったという言い分は僕をラクにした。

「海外っていけん場所やね。うち、彼のこと忘れてしまいよったもん。今はコウと一緒に居たいんやね。きっと。ひどい話かもしれんち。でも仕方ないわ」

にもかかわらずプールサイドの男には話し掛けられなかった。なんとか話をするチャンスを窺っていたのに、男2人でパシャパシャと水遊びをしているもんだから、この連中はゲイなんだなと思っていたようだ。

今思うと知美が2歳年上であった部分を考慮しても、実に性に対してあけすけな子だった。

2日めの夜、一度でいいから砂浜でしてみたいと知美は僕に言った。

人が来るから止めようよと制止するにもかかわらず「平気っちゃ」と僕の手をぐんぐんと引っ張って、僕らは砂浜に向かった。小さなボートが打ち上げられている横で僕らは3時間ぐらいじゃれあってた。「砂が入らんようにしらんとね」耳元で囁く知美の声は僕を完全に捉えた。

知美たちのツアーは僕らより早めの帰国だった。

僕らはあと数日このランカウイ島に残る。

最後の最後で由香に「涼介君っていい人だから悪いこととかできないよね」と言われた涼介は、由香がどんな真意でその台詞を言ったのか確認するすべもなくまさに言う通りにして手を出さずにいい人で終わってしまった。

我が友人よ、どうするのだ、僕がからかうと「だってコウはいいじゃんよ、知美ちゃんとさ、ずーっとベタベタなんだもん。俺なんてマジで年下のいい子ちゃんみたいな立場になっちゃたんだぜ。まったく」すっかり日に焼けた腕をさすってぼやいた。

空港まで送迎するバス乗り場まで僕らは見送りに行った。

知美が何かを言いたそうだった。涼介の前じゃ決して腕に手を回さないのにくっついて離れようとしなかった。

意を決したように最初に触れたのは知美のほうだった。

「ねえ、私たちまた会える?」彼女が僕に尋ねた。

正直に言うと僕にはわからなかった。

鹿児島と東京じゃいくらなんでも遠すぎる。

でももう会えないかもしれないなんて言える状況じゃなかった。それに僕ももう一度日本で知美に会いたいと思っていた。いまにもバスが動き出しそうだ。

「会えるよ」。

知美が急いでバッグから手帳を出して連絡先を走り書きをして破る。彼女の目が潤んでいた。「電話して」知美が小さく囁く。

バスの運転手が「急げ!出発するぞ」と僕らに叫ぶ。あまりにもあっけない最後だった。

僕らはずーっとこのままなんだと勘違いするほど帰国のことなんか気にしなかった。

「ああ、帰ったら連絡するよ。必ずね」僕は少し動き出したバスに近づいて走って彼女の手をもう一度握る。

彼女は目に涙をためていたけど、僕のほうをずっと見ていた。そしてバスは出発した。

*
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帰国後、しばらくして彼女は婚約を解消した。

「コウのせいじゃないっちゃ」と彼女は僕に気を遣って説明したけれど、それは誰が指摘をするまでもなく僕のせいだった。

僕との出会いがなければ、マレーシアでの出来事がなければ彼女はおそらく結婚をしていただろう。

僕は別に彼女の結婚やら婚約に反対しなかったし、それが問題だとも障害だとも考えたことはなかった。

そもそも最初の出会いから彼女には婚約者がいたのだから、それは半ば最初から分かっていたことだった。
もちろん僕は彼女はきっとその婚約者と結婚するだろうと考えていた。
たとえ彼女が結婚したとしても僕らは変わらないと思っていた。

ただ彼女は違った。

「彼の顔を見ても何も感じることが出来なくなったんね」そう彼女は言った。

彼女が婚約を解消したあとも僕たちは何度か手紙と電話でやり取りをした。

彼女から手紙がくることがあったけれど、僕からは出さなかった。
何を書いたらいいのか分からないのだ。

彼女の婚約解消に責任を感じることはなかったし、彼女もその想いは同じだった。それは幾分僕をほっとさせたけど、根本的な解決にはなっていなかった。

そして僕の気持ちが覚めてしまったのは何かもっと別の理由があるような気がした。僕らはお互いをどうするべきか話し合う必要があった。

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夏の想いも過ぎ去った12月、彼女は東京にやってきた。

コートを着ている彼女の姿は凄く不思議だった。

僕らは銀座で食事をして、六本木に予約したホテルに泊まった。

ランカウイでは泊まるのにもドタバタしてたのに、東京じゃなにもハプニングが起きないねと僕が言うと彼女はクスクスと笑った。

それから僕らはもう一度抱き合ったけれど、たった数ヶ月しか経っていないのにマレーシアの時ほどの情熱はそこには無かった。

そして、だんだんと手紙も来なくなった。

*
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7年ぐらい前、ロクに手紙をよこさなかった僕に知美から連絡が来たことがある。

東京に行くから日程を空けといて欲しいと突然言った。

なぜいまごろ来るのか分からなかった。

「ねえ、うち結婚するんよ。」と彼女は電話の向こうで続けた。

「うち、本当はあなたと結婚したかったわ。いまだから言うけれど。でもあなたはうちのことを見てくれなかった。だから結婚するのよ。あなたよりもうちよりも年上の男の人よ。」

「でもね。コウにもう一度だけ会いたいの。もう一度コウと抱き合いたいのよ」

「そうか。」

僕はなんて応えたらいいのか分からなかった。

複雑な気持ちでもあったし、自分の知り合いが結婚をするというのは知美が初めてだった。

一瞬だけど、僕はどしゃ降りのスコールのなかにいた。熱い日中の太陽の香りをたっぷり含んだ地面に流れる雨の香りを嗅ぐことができた。夏の気持ちになったのは実に久しぶりのことだった。

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