台湾諸行千年紀。


台湾のミレニアムパーティに行ったのは2000年の2月だった。一時帰国の為にバンコクから日本に向けてルートを検討していた時、たしかに手元にオープンチケットの片道分、すなわちバンコク-成田の航空券を所持していたけれど、それを使って戻るだけじゃ少し味気ない感じがした。

もう少し冒険と刺激が欲しかった。旅の延長に寄せる期待と胸騒ぎはまだ冷めていなかった。あとひとつ何処かに寄って帰国したい気持ち。

カオサンに戻ってくる前は─タイのバックパッカーは遅かれ早かれ、いずれカオサンに戻るという法則─プーケットをぷらぷらしつつ過ごしていた。プーケットでは、連休で出掛けているグループや卒業旅行らしき大学生が、賑やかにビーチを歩いている。それは本当に大した数で、近くでタイ語さえ聞こえてこなければ、湘南で日焼けしているじゃないだろうかと思えるぐらい日本の夏そのものだった。

彼らの多くはツアー客だから、お泊まりしているホテルはきっと一泊・・ドルはする筈だ。ふかふかのベッドにきちんとお湯の出るシャワー。でも生憎僕はそんな所持金もないので、裏目通りにある売春婦と怪しいビーチボーイが棲家にしている一画のゲストハウスで寝泊まりしていた。やれやれ、ベニヤ板のほうがまだマシなんじゃないかと思いたくなるほどのゴツゴツした二段ベッドと、象が放尿するみたいに噴出するジェット流水シャワー。

それが僕のプーケットライフにおける基本スペックで、そして、拠点だ。

時期的なせいか、プーケットにいるバックパッカーは自分だけだったようで、そのクソ溜めみたいなマンションの一室のゲストハウスは貸し切りだった。つまりこれは、非常にありがたいことだ。

おかげでリラックスした生活を余儀なく送れた。バトンビーチで友達になった日本人の女の子達とバナナディスコ≠竍シャークス≠ノ繰り出し、夜を謳歌、どういうことか彼女たちの多くはご飯も奢ってくれ(もしかしたら憐れみのひとつでも感じ取ったのかもしれない)、しかもゲストハウスに遊びにも来てくれたので旅としては上々だった。

で、そのクソ溜めハウスもご多分に漏れず、かつてここを通過していった旅人が置いていく何冊かのガイドブックが無造作に転がっていた。その中の一冊が台湾で、なぜか僕の目を引いた。

僕は暇を見ると(といっても用事なんて何一つないのだけれど)、気ままにビーチパラソルの下で寝転び、ツナサンドを齧り、眠くなったら寝て、ビールと一緒に屋台の青パパイヤサラダを食べ、そしてお腹がいっぱいになれば、また寝て、うつらうつらと灼熱の太陽と蒼い海に囲まれた開放感たっぷりの空の下、そのガイドブックを読み、次第にその悠久と微笑みの国、台湾に心を奪われたってわけだ。

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バンコクから成田までのオープンチケットを捨てただけの価値は台湾にあった。さすがにタイよりもずーっと北に位置する台湾、日本より暖かいとはいってもなにぶん2月だったので肌寒く、手持ちの洋服だけでは街を歩きようもない。しかも運が悪いことに旧暦の正月に当り、街は閑散としていた。 僕は台湾の若者達がダウンジャケットを着ている姿を見て、その都度自分がどれだけ薄着で街を闊歩しているのか痛感せざるを得なかった。

さて、僕が見た台湾というのはひとことで言うとパラレルワールド。パラレルワールドは異次元に存在する我々の世界とは若干異なる世界のようなものだ。けど、現実レベルとして台湾は存在する。だから実際のパラレルワールドとは食い違うので、説明が難しい。

なんていえばいいかな、日本という土地に物心ついた時から生活をした身としては、きっと意識しないまでも、自分の肉体の随所に、おでん屋のはんぺんの味付けのように日本が染み込んでいるだろう、それは幼き頃からの記憶と経験の集合体だ。そんな僕の日本に対する記憶の集合体と照らし合わせると、台湾と言うのは限りなく日本のように思えるのだけれど、目を凝らして見渡すと、やっぱり違う世界で違う国。

どういう事かというと、つまり、台湾にはドトールコーヒー≠烽るし、ロッテリア≠烽るし、ファミリーマート≠烽るし、伊勢丹≠セってある。ファミリーマート≠ノは台北ウォーカー≠セって売っていて、おにぎりも並んでいる。

僕はひょいっと気軽に自動ドアを開けて、店内をうろつき、バックミュージックで流れている宇多田ヒカル≠ノ耳を傾ける。だんだんと体の細胞が旅モードからシフトチェンジを起こして、東京にある自宅の状態にと変わっていく。もちろんそんな変化に僕は気が付いていない。

正味10分、すっかり僕は日本の自分°C分だ。意識してないとはいえ、財布の中には日本銀行が発見する福沢諭吉があるとすら思っている。そして僕は、レジに適当に商品を持っていって、日本語で話す「すみません、これください」と。

レジの店員は「不明白??」と驚きを表して僕に返答する。たぶん僕はそこらへんに住んでいる台湾人と思われているだろうから、「へ?何を言ったんだ、この人は」という具合に彼もしくは彼女は顔を曇らす。

僕はそんなレジの店員の動きにようやく反応を示し、ハッと思い直して「そうか、ここは日本じゃなかったんだ。僕はまだ旅の途中なんだ」と再び旅モードにチェンジする。これが僕の言うパラレルワールドだ。

そういった街の景観も一因となるんだけど、これがまた台湾人と日本人というのはファッションも表情や仕種ひとつの観点から観察しても限りなく似ている。それが僕をより一層にパラレルワールドへと誘い、僕は何度か「きっとここは鏡の世界か何かなのだろう」とおかしな想像と期待を膨らました。

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ところで台北の中心地にはタワーレコードがあった。敷地自体はさほど大きくないわりには、トランスのCDの充実性は高く、当時の日本にまだ輸入されていなかったイスラエルのレーベルや、ヨーロッパのレーベルからのアルバムが沢山あるのが嬉しかった。僕は旅先の国のレコード屋に立ち寄るのがわりと好きで、それは、日本での未発売CDが良心的な金額で購入できる、という利点以上に、レコード屋を覗くというのは、朝起きて市場に出掛けるのや、屋台でご飯を食べるのと同じくらいその土地とじかに触れ合えるものだと信じているからだ。

日本にいたらけっして知ることのない地元アーティストのアルバムとか、トラディショナルミュージックなど、時ならぬ掘り出し物がゴロゴロしている。

その点、台湾はトランスに関して言うと実にアタリ≠セった。

これはイケるぞと確信できた。ただ残念なのがCD自体それほど安くない。結局、その旅で僕はDNAレコードのアルバムとMikoのアルバム(これは日本で買い損ねたのだ)とサイハーモニクスのコンピレーションを購入するに至った。そして店内には、渋谷や新宿のタワレコにもあるような各種フライヤーの束があった。もしかしたら・・・と僕は思った。 と同時に、海外のフライヤーは日本に持ち帰るとお土産として喜ばれる機会も多いので、何枚か持って帰ろうと考えた。でもだいたいがヒップホップかロックのイベントばっかりでハウスのフライヤーがちらほらあるだけ。さすがに野外のイベントなんてないだろうなぁとタカをくくっていたところ、

驚いたことに1枚のフライヤーがどでんとその束の真ん中で鎮座していたのだ。
僕はそのフライヤーを、それはもう、産まれたばかりのひよこでも抱くかのように優しく摘み上げるとともに、折れないようにしっかりと手にして自分の旅社まで戻った。その時は全くパーティの情報もまともに持ち合わせてない、しかもテントや寝袋など野外グッズも持ってない、おまけに僕が着ている長袖は唯一ロングスリーブ一枚だけという悲惨な状況も考えるまでもなく、このパーティに行こう!と決心していた。ガイドブックで調べさえすれば辿り着ける予感がした。僕の足取りは軽い。それはまるで真新しい黄色い羽毛のようにふわっと舞った。

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旅社には何枚かの誰も着ていない、いかにも安そうなジャンバーがあったので、ちょいとばかり拝借することにした。それとTシャツをありったけ着て防寒にあてた。

ついでに今日の夜はとりあえず帰らないと、居間のテーブルに一日中座ることを生きがいとする日本人のアルバイトに伝えた。彼女は別にそんなことはどうでもよさそうで「あら、そう」とか「はい、わかりました」みたいな適当な返事をした。

彼女が考えたいことは目の前にある台湾語のテキストであり、台湾語の勉強に勤しむ点にあった。どこの誰がどうしようと知ったこっちゃないのだ。

でも僕には語学が勉強したいのに日本人しか客が来ないこんな旅社で働く彼女の思考回路がこれっぽちも理解できなかった。何がしたいのか意味がわからない。こんなところで働くよりは少なくとも屋台でもコンビニでもなんでもいいからナマの台湾語に触れたほうがいいんじゃないか、と。

でも、いい。それは他人の事だ。あれこれ僕が口を挟む内容じゃない。

台湾語が勉強したくてしょうがないのに日本人がたくさんいる旅社で働く彼女を見て、僕がキライな通勤電車とか名刺の交換とか親睦会のようなジメジメしたものを感じ取っただけなのだから。

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パーティ会場は台中の山奥だったので、台北から電車を乗り継ぎ、そこからフライヤーに書いてある通り、バスで向かおうと思った。台北から高雄まで2時間ばかり。そこからバス。きっとうまくゆくだろう。

さて、到着した高雄は日本の地方都市の駅前のようで郷愁たっぷりだった。千葉の保田とかそんな感じ。うっすら肌寒いのに、人いきれがあって車の往来と商店街がごった返している。昔、「三丁目の夕日」というマンガを読んだことがあるけれど、台中という土地は、まさにその世界そのものだった。たっぷり空気を吸うと遠い日本の田舎を感じることができた。赤とんぼの一匹でも飛んでいたらきっと僕は涙を流す。

夕方に着いたので、それなりにお腹も空くだろうから、適当な商店でチョコレートやジュースなどの非常食を購入し、あとはガイドブックにしたがってワンタンが超旨いと絶賛されている椀陳飯店に寄ることにした。

それまでの旅の中で電車のチケットやバスのチケットの為に並ぶことはあっても食べ物の為に列に身を寄せた記憶は備えていないから、その店にできている長蛇の列にぎょっとした。屋台にかろうじて屋根がくっついてます程度のお店で、大丈夫かな、ここ?と心配もあったけれど、ワンタン一筋ということもあって評判が評判を呼び、連日賑わっているようでもあるので、またとないこの機会に食べることとした。

店先の入り口にも大きな鉄製の鍋があって、そこでも持ち帰りのお客用のワンタンを湯がいているので、湯気がいたるところに立ち込めて活気に漲っている。聞こえてくる言葉も全部台湾語。クックドゥのコマーシャル。あれだ。

次第にお腹も音を立て空きっ腹状態となり、「台湾人は食うのがおせぇなぁ」と僕が呪詛をぶつぶつと繰り返す頃、ようやく席があいた。

エプロンを掛けた店員が「☆△※◇・・・☆?」と何か言っている。意味がさっぱり分からない。僕は覚えたての言葉で「我是日本人(僕は日本人です)」と言ってニッコリ笑って返した。

店員は目を丸くして「☆△※☆◇!!」と何か驚いてるようだ。どうも台湾人に間違えられたらしい。

どうすればいいのかなとあぐねている僕を尻目に店員は袖を引っ張って店内の奥まで誘導して「OK?ok?」と席を指して聞いてきた。たぶん「相席でも宜しいですか」みたいなものなんだろう。よくわかんないけど「うん、うん」と大きく頷いてみせた。店員はほっとしたような表情を見せ、まだ食べることのありつけない長蛇の列の彼方へ消えていった。

丸テーブルには8つの席。外国人はたぶん僕一人。相席になった人達はまるで予期しなかったプチイベントを面白がって、しきりになにか聞いてくるのだけれど、相変わらず「☆△※◇・・・☆?」か「☆△※☆◇!!」なので一向に進展がない。埒もあかないので台湾の旅の必須アイテムであるノートとボールペンをザックから取り出して筆談を始めた。

僕「何美味、此処?」(ここは何が美味しいのですか)と聞いているつもり。
台「是美味 好!!」とメニューを指す。
僕「謝々。味、激辛?」(ありがとう。ねぇ、味は辛い?)
台「没有」(辛くないよ)

と、まぁ、書いている漢字は適当なので、伝わっているのか疑わしいとはいえ、漢字の民として生まれた自分に感謝したくなるのはこんな時だ。小学校時代には漢字のkoちゃんと言われたぐらい自信たっぷりの僕が訳してみるとこうだ。

どうやらワンタンを頑固一徹で出しているレストランのようで(ほんとかね)、メニューには、つまりワンタン≠オかない。味はそんなに辛くない。ただし、このテーブルにある豆板醤を垂らすのがポイントだ。ナンバワンだぞ。

そうか、と僕は気を取り直して、メニューを差して、頼んだ。真向かいの小学校に上がる前ぐらいの男の子が興味深そうにフフフと笑っている。

ワンタンを待つ間、しきりに色々なことを訊かれた。「一人で来ているのか?」と隣りに座っている王さんは僕に訊ねた。

僕は「そうだよ。途中まで友達も一緒だったけれど仕事があるから先に帰ったんだ。台湾は一人で来たんだ」みたいなことを言った。王さんは「そうか、ひとりで旅をしているのか」と何か苦行でも想像しているかのようにあるいは、どうして君はそんな淋しいことをしているんだい?といった表情で僕を見詰めてきた。

台湾のどこでもそうだけれど、彼らは大抵、「一人で旅をしているのかい」と僕に聞いてくる。それは台湾でしかされなかった質問だ。何事にもかけて貪欲な興味を持て余しているインド人も聞かない。タイやネパールでも聞かれたことはなかった。

同時に彼らにその質問をされることによって何かしらの居心地の悪い気分にもなった。なんか一人旅は悪いことのように。どうしてそんなことしているの?と純真爛漫に大きな黒い瞳で訊ねる彼らに対して。

彼らからしてみれば一人旅というスタイルは想像の遥か彼方の銀河に浮かぶ星雲のような存在で、奇しくも求める必要のない旅のスタイルなのかもしれない。それは僕がちらっと見た台湾の人達の良い意味でのお気楽さと明るさを象徴している一面でもあった。おおよその台湾人は旅と言えば友達やあるいは家族や恋人とワイワイガヤガヤと楽しく過ごす行楽のひとつなのだろう。

僕らは別に一人旅を苦行とも修行とも唱えていないし、それが良いとか悪いとかの判別を下されるシロモノでもないと確信している筈だ。それはどの旅人にもいえることだと思う。ただそういったスタイルもありえるとして心静かに受け止め、人生の一歩を踏んでいるだけなのだ。だから王さん何も心配しなくていいよ。僕は楽しい。世界には一人で旅をすることに対して鷹揚な人達もいるんだよ。

そうこうしているうちにワンタンが運ばれてきた。丸いお盆に載っている。香ばしい胡麻油の香りと湯気をもくもくと立ち込めさせて。白い茶碗にスープと一緒に浮かんでいるワンタン。

まずはスープを蓮華で抄くって口に運ぶ。う〜ん、なんかワンタンの旨みが溢れている淡白なスープだ。周りをキョロキョロしてみるとどうもみんながスープに醤油とか酢とか入れてそれぞれお好みの味付けに夢中になっている。なるほど、僕も右に習い、適当に醤油やら酢やらを入れてみた。

そして、もう一口。ズッズ〜、う、旨い。旨すぎるよ、これ。なんで醤油と酢を入れただけなのにこんなに味が変わるの?中華は奥が深いぞ。僕が「好!!!」とグッと親指を突き出して微笑むと王さんはさも満足げに頷いて、早くワンタンを食べてみろとしきりに誘う。

僕はこれもまた右に習って豆板醤をたっぷりつけワンタンを齧った。「・・・・」もう言葉にならない。驚きである。本当に美味しいものを食べると人は無言になるんだろう。僕はしばし放心状態でお椀をただ凝視するだけであった。

豆板醤の複雑な味噌と適度な辛さが共鳴するかのごとく薄い芸術的な生地に隠れている具と踊り合わせる。キャベツや椎茸や何やらがぎっしりと詰まっていてそのスープが一気に口中で弾けて大演奏をする。これはきっと奇跡だ。ねぇ、王さん、台湾は本当に凄いところだよ、僕はありったけの喜びと感謝を王さんに伝えた。話す言葉も違うけれど、きっと僕の想いは通じたことだろう。

固い握手をして飯店を出る。

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パーティは19時にスタートなので、そろそろバスに乗らないといけない。
きっとバス停にはパーティフリーク達がわんさんか溢れているに違いない、、、というのは僕の目測間違いで、バス停は実に閑散として、侘しさがさっきのワンタンの湯気のように漲っていた。

おい、僕は思わず自分に突っ込んだ。おい、これはもしかしてヤバくないか。だって目の前にいらっしゃるのは、どう控えめに見てもパーティに行く方とは思えない連中ばかりじゃないか。大きな荷物を風呂敷で背負っている推定70歳のご老人と、肉体労働者風の中年男性。妙齢(同じく中年)の夫婦らしき男女。色が全体的に地味で言っちゃ悪いけど活気がない。そりゃまぁ、バスに乗るのに活気が必要なのかって聞かれたら困るけれど。

とにかくバス停を間違えたか何かの原因で良くない出来事が起きているかのどっちか。 で、たぶん後者。もし、ここで、ねぇ、そうは言っても彼らがパーティの参加者かもしれないという可能性があるのではないの?という輩がいたら、きっと僕は北斗神拳の伝承者の如くソイツの経絡秘孔を「ホワッタァァー」と秘儀・北斗壊骨拳で骨まで断つことであろう。 だって彼らがパーティピープルである可能性は1ミリもないからだ。それは絶対ありえない。200%ありえない話だ。

だから僕はとたんに心細くなった。何もそれはバス停の灯りがジッジッジーと切れ掛かっているのや、夕暮れに名も知らない街に一人でいることや、やはり着込んでいる洋服じゃ肌寒いといいうのが理由ではない。本当にパーティやっているの?まさに焦点はそこだ。

そしてこれが僕の最大の心配事だ。だって、ほら、山の中にわざわざ行って、それで辺りはもぬけの空。音ひとつ鳴ってなくて遠くの山じゃ不気味な声で鴉がギャッギャと鳴いていたらあまりにも間抜けだし、その頃にはもう終バスもないっていうのなら辛すぎるじゃないか。

日本だったら携帯電話のひとつでもあればパーティがやっているのかキャンセルになったのか確認できるし、インドやバリじゃ移動はバイクだから、音が鳴ってないならないで、すたこらさーと帰れる始末だ。だけど、ここ台湾じゃ。。。

そう、フライヤーを信じて行くしかない。僕はバスの列に並んで、そしてバスに乗った。運転手にフライヤーを見せて、ここについたら降ろしてと身振り手振り漢字振りでアプローチもした。

席に着く。車窓から見えるのは何処の国でも見掛ける夕暮れのひととき。買い物客が忙しそうに荷物を持って歩いていたり、子供がはしゃいでいたり、車がプップーとクラクションを鳴らしたり。彼らの誰一人としてこの何処に向かうと知れないバスに乗っている若かりし日本人の旅人がしょぼくれているなんて絶対気がつかないだろう。

ぼくはうんざりして溜息をこぼした。

仕方ないので夕暮れラッシュアワー≠ニ自分で称して僕らはみんな生きているをバックミュージックにしつつ、買い物する人=A歩く人=A自転車乗っている人≠ネんて当てずっぽうに数えてみた。結構買い物する人≠ェリードするので自転車ガンバレと行く末の無い応援をして、そんな風景を見ていたら、何となく「まっ、どおでもなるのかな」と軽い気持ちにもなってきた。

良い傾向だ。

いくら山の中だっていてもそんなに寒くないし、まさか死ぬことはないだろう。天性とも言えるお気楽モードが僕を救った。その時だ、後ろから若者達の声が聞こえたのは。

「☆△※、頗頗笑ー」漢字は僕の適当な造語である。それくらいのなんて言うかバスの中を明るく2000ルクスで照らす声が響いたのだ。後ろを振り向くと20代前半の若者が2人。手にはフライヤー。ビンゴ。僕は思わず手を打った。このバスに間違いない。

そして行く先にはパーティが待っているのだ。僕は彼らに話しかける。日本語と英語と筆談で。もちろん手にはフライヤーを持っている。それで十分なことも僕は知っている。

彼らは僕に笑顔を向ける。僕も彼らに笑顔を返す。yes!台湾のパーティだ。サイケデリックトランスは国境を越える。僕らはいま国も言葉も関係なく、ひとつの共通意識として、これから起こるであろう、さまざまなドラマに胸を震わす。

車掌が出発する笛を鳴らす。扉が閉まる。カバのイビキみたいにプッシューと音を立てる。彼らが何かを言ってくる。片耳にピアスをしている若者。渋谷あたりにいたって不思議じゃない。何を言っているのか分からない。全部、台湾語だ。でもどうにかなるだろう。いままでだって何とかやってきたじゃないか。

僕が僕自身を励ます。そう、どうにかなるのさ。

*
*

大地。

僕はいま夜空を見上げている。オリオン座がキラキラヒ輝いている。
そう、ここは台湾のパーティ会場。盆地のような森のなかで行われているサイケデリックトランスの会場だ。

DJがさっき交代した。台湾のDJ。とってもアグレッシブに攻めてくる。ブースの前には大きな焚き火。まるで94年頃の大滝ランドのパーティみたいだ。黎明期という言葉が僕の中でこだまする。

外国人は僕一人。台湾のパーティーピープルは、えっと、1・2・3・・・、とにかく数十人。でも全然平気。だって、僕らはあまりにも近い民族で、パーティーピープルだから。
踊りあかしているコの多くがスペーストライブのゴアパンツを履いている。すごいシャンティでパワフルだ。背の高い男の子が僕の肩をたたき、僕にビールを渡す。彼の踊る姿はクールで見ていて飽きない。

屋台も一つ出ていて、やっぱり中華で、とっても美味しかった。僕はそんな台湾が大好きだ。
日本人だと告げるとファイヤパターンの大きなシルクハットを被った兄ちゃんはウィンクをして、「サービス」と言ってくれた。

だから僕は、大きく握手して、もう一度寝転ぶ。

さっきジャクソンと言う名の男と話した。ジャクソンは英語が得意で、ミレニアムの時、バリにいたんだと僕に言った。そうか、その時僕もいたんだよと教えると「ワォ、そいつは奇遇だ。」と目を大きく見開いた。うん、、バリ島にはたくさん台湾から来たコがいたね。僕はついこないだだった眩しいほどの夏の季節を思い出す。彼ともどこかですれ違っただろう。島のパーティはだいたいが一ヶ所で行われたから。

ジャクソンはこのパーティはどうだ?としきりに僕に尋ねてくる。どうやら日本のパーティ事情も合わせて気になるらしい。僕らは焚き火の前の芝生に寝転び、各国のパーティ事情について語った。

僕はパーティシーンが日を追うごとに変化していること、そしてその変化が実際のところ、良い方向に向かっていないんじゃないかという危惧を、想うままに彼に正直に話した。

「ねぇ、ジャクソン、僕としてみれば、それは当たり前だけど、パーティというのはさまざまな要素が複雑に絡まりあって、ぎゅっと凝縮されて完成するモノだと思うんだ。時代と共に変わる部分だってあるだろうし、シーン自体の取り巻く環境だっていまと違うようになるかもしれないけど、核となる部分がしっかしていれば、パーティ自体の本質はけっして変わることもないだろう。現に2000年のいまだって世界的規模でシーンが拡大して、パーティによってはコマーシャリズムに染まったものもあるけれど、長い目でみればきっとそういう分子は淘汰され、元のというか、あくまでもオリジナリティックにシーンとして歩んでいくだろうよ。だから日本のパーティが今派手だからと言って昔を偲んでもはじまらないし、無理矢理に過去に囚われるのはナンセンスだ。僕は台湾のパーティはこれが初めてだけれどさ」

僕は続けた。

「僕は台湾に着いてまだ一週間ばかりで今日のこの場所に来ているよ。それはとても素晴らしい出来事であり、最高のイベントだ。そうしたちょっとした加減と何かの計らいで巡り合うものなんだよ。パーティは。だから・・・」

「だから?」

ジャクソンの瞳に焚き火の炎が映っている。彼が僕に煙草を勧める。僕は煙草を吸わないんだと言って、代わりにこれがあるからと酒瓶を突き出して、呑む仕種をする。彼の笑顔がほころぶ。

「うん、だから、上手く言えないけれど、僕は台湾のそんな未来に向けるパワーに熱い期待を持っているよ。それは日本には残念だけれど無い部分だし、これから日本のパーティシーンが考えるべき問題はどうやって未来を恐れず過去に囚われないで道を歩むか≠ニいうことだと思うんだ」

ジャクソンは僕のそんな言葉をどうやら考えているようだった。彼と会話するほんの小さな時間に、彼の台湾のパーティシーンに対する熱い想いの丈が伝わる場面がしばしばあった。
彼の生真面目さからと、台湾のシーンの未来に向けての情熱はなぜだか羨ましい気がした。それは僕ら日本人が決して戻ることの無い可能性を秘めた宇宙に散らばる星々のようなものだ。

「コウの言いたいことは分かる」とジャクソンは言った。

「僕は本当にこのトランスのシーンが大好きなんだ。だからこそしっかりと損なわれないように大きくしていきたいんだ。コウの言う東京の事情については、実際に見たわけじゃないから僕には分からないけれど、それはきっとトランスだけに限ったことじゃないんだろうね。僕らはまだ始ったばかりなだけに東京の先駆者に多く学びたい。」

まだ出遭ってから数時間なのに、彼の人柄がすごく好きになった。

決して意見を押し付けないけれど、しっかりと自分の意見を伝え、相手を尊重するジャクソン。ウマが合う予感がした。

「そうだよ、ジャクソン、君の言う通りだ。何もそれはトランスシーンだけに起こりうる問題じゃないんだ。」

ジャクソンの夢は壮大だった。彼はやがて日本と台湾、韓国や香港、東アジア近隣の国が集まって大きなパーティがあったらきっと楽しいだろうから、そういうのもオーガナイズしてみたいと言った。僕には想像もつかないほど、それは大きな夢だった。もし実現したら比類なきブッチ切りのイベントだ。彼はそれについての計画や運営、これから自分たちに何ができるかをもっと熱く語った。僕も喉が枯れるまで、会話に没頭した。

「コウ、とにかくそん時は世界の何処でほっつき歩いていようが、俺が呼んだら来いよ」

「あぁ、地球の裏側のビーチで、どれだけ可愛いビキニギャルと遊んでいようが、すっ飛んできてやるよ」

そこで僕らの会話は終わった。

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明け方、僕らは踊り明かした。僕の網膜に映るバティックは蛍光色にユラユラ揺れている。
ジャクソンの仲間内の女の子が僕にガムをくれた。ブランケットに一緒にくるまるように僕を誘う。僕は少しだけ踊るとブランケットに寝転ぶ。

行きがけに一緒に来た若者2人が「どうするか?」と僕に聞いてきた。つまりまだパーティを楽しむのかい?という意味だ。ここまで辿り着けたのは彼らのおかげだ。彼らは台北まで戻るという。僕とおんなじルートだ。一緒に戻るよと僕は伝える。

満足げにパーティの様子を見詰めているジャクソンに別れを告げる。

「ジャクソン、また会おう。そろそろ行くよ。今日は楽しかった」

「そうか。行っちまうのか。こっちこそありがとう。今度は日本のパーティだ。それまで元気でいろよ」

「うん。俺のことを忘れるなよ」

僕はジャクソンの肩を叩いた。

「忘れるもんか。次にあった時は驚かしてやるぜ」

それから僕は台北に向かった。

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ジャクソンがオーヴァードーズで死んだと知らされたのは一通の見慣れないメールからだった。

それは台湾のパーティで僕にガムをくれたウェイウェイからで、He was dead.と衝撃的な一文から始るメールだった。

ウェイウェイが言うには、彼が亡くなったのは台北にあるクラブで、死因は麻薬のやり過ぎとアルコールの大量摂取による心停止だった。救急で病院に運ばれた時は既に意識が無く手後れで冷たくなっていたという。

ウェイウェイはその長いメールの最後にこう綴った。

「ジャクソンは、あなたのことを話す時、ほんっと楽しそうだったわ。まるでおもちゃを与えられた子供のように年甲斐もなく生き生きしているの。彼はしきりにコウは何をやっているのかなぁ。いまごろ日本でも踊っているのかなぁと話していたわ。不思議なもので私たちとコウが過ごしたのは、あのたった一日だけなのに、まるでずーっと昔からの知り合いのようにジャクソンは話すの。アナタにはそんな雰囲気があるのでしょうね。もし、東京でこのメールを読んでいるようでしたら、遠い台湾の空の下にいる私たちのことを想ってください。私たちもアナタの無事を祈ります。ジャクソンは最後までアナタの良き親友だったわ」

ウェイウェイより愛を込めて。

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僕はそのメールを読み終えると必死に泣くのを堪えて、テレビを観ている彼女に、ちょっと散歩に出掛けてくるとすぐに言った。

季節は4月の中旬でこれから初夏を迎える前の暖かい夜風が吹いた。そして言うまでもないけれど、それは台湾の風にそっくりで僕はもっと泣きそうになった。

我慢するのが精一杯だった。僕は誰もいない夜の公園に向かい、ベンチに座った。そしてたくさん泣いた。涙が枯れるくらいという言葉がピッタリなくらい僕は泣いた。それからしばらく僕はまどろみの中で佇むように過ごした。日本の南にある台湾に僕はそれから行くことはない。

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