2004年04月16日

仕事の話。

4月から仕事の受け持つ範囲がちょっと変わって、何というか、校正係(?)のような仕事もしている。

大きいとか小さいとか、新しいとか古いとか関係なく、どんな会社でもあることで、書類とか企画とか外部もしくは第三者に見せる必要のある文書などをチェックする業務。

もちろん直接出すわけではないから、この作業工程によってリスクの回避になる。僕の就いている業務では、これが文書ではなく・・・、って、まあ、会社のことだからあんまり書くわけにはいかないけれど。

とにかくチェックをする、誤字脱字がないかとか文章構成は正しいのかって。
誤字脱字が多い人間がこのような業務に就いていいのかという問題は差し置いて、これがまた、けっこうタフで深い仕事であったりする。

ところで、そもそも一人の人間がその作業をする以上、人によっては尺度が違うわけだから、スミマセンデッス、チェックお願いしまっす、ウッス!!(ってこんな風にいう人なんていないけど)、と頼まれたところで、Aという人がOKを出しても、Bという人は、「これは、ちょっとなぁ」って話が生じる。

例え我々が2バイトの文字で世界を構築したとしても(あ、言ってしまった)そこには絶対に文体というものが出てくる。

文体という言い回しが少々古臭いのであれば、その人の「カラー」といってもいい。

かならず、何かしらの方法で世の中の森羅万象を表現すれば、
そこには、その表現者のカラーがある筈だ。

それは上手いとか下手などといった線引きを超えた範疇の中で成立し、きっと誰もが持っている。
そして、それは誰かと似ていることはあっても、やはりオリジナル性というものに繋がるのだろう。

僕は、その校正係の仕事で、当初はビシバシと自分の文体や表現方法に近い形で修正を出してきた。

もちろん業務上だから使いまわされている言葉も限りがある。

それでもけっこうその人の「カラー」を損なった結果になったに違いない。それは言うまでもないけれど、ちょっと品性に欠けたやり方だった。

何度かその作業を行うにつれて、僕は、自分の金型に無理にはめようとする方法ではなく、その人の文体なりカラーを損なわずにして、必要があるのであれば修正を手掛けるという方法がベストなのでは、と考えるようになった。

*

ところで話が飛躍してしまうけれど、僕は無宗教に限りになく近い。

神の存在自体は信じていないわけではないが、僕らが神だと思っているのは「ある意識の集合体」ではないだろうかと考えている。

偶像崇拝にはいささか懐疑的で前史社会の地域性との結びつきが強いぐらいしか考えていない。

でも、なぜか大学はカソリックでキリスト教に関していえば専門課程まで授業があった。
神をも畏れずひたすら爆睡していたので何一つ憶えていないわけだが、唯一聖書(not性書)で感動した台詞がある。

「求めよ、さらば与えられん」

まぁ話せば長くなるし、いろいろと解釈があってそれだけで4時間は潰せる内容なので割愛したい。
僕としては、本当はこれって「与えよ、さらば与えられん」が本質なのかなって思う。

つまり、あなたが愛されたいと思う前に愛しなさい、そうすれば愛されるでしょう、と。
あるいはあなたが誰かを憎むこともあれば、あなたは憎まれるでしょう、も然り。

なんだか話が脱線してきた。

ようするに愛は愛で還ってくるし、憎悪は憎悪で還ってくる。
そんな風にこの言葉を個人的に認識している。

じゃあ、愛とか憎悪とか言うけれども、いったい全体なんなの?となれば、これもまた「最大に微分化されたエネルギー」と僕は答える。

その放射されるエネルギーは、目に見えないとしても、いろいろなカタチで届く事だろう。
昔の人はそれを愛と言ったり、悲しみといったりしたんじゃないかと思う。
そして、2バイトの「0と1とで構築された世界」にも愛はあると信じたい。

話を元に戻せば、僕は少なからず日本語教師を目指す者として(なれるのかな)この作業に携わった事に感謝する。

だから、作業をする以上、その人の文体を損なわずに修正となるもの手掛けていきたい。
たぶん、僕はそういうやり方が好きだ。

blank_space
投稿者 ko : 2004年04月16日 13:32 | トラックバック(0)
コメント
blank_space
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?






blank_space
Trackback
blank_space
Powered by
blank_space