夕刻特有の、赤銅色に輝く空が島全体を包み始めると、黄昏の影を縫ってサーファー達はホンダのバイクにサーフボードを乗せてゲストハウスにいっせいに戻る。
きっと上空から眺めたら、海の馨りを身体全体に放つ彼らは母なる河に還ってきた鮭のように映るだろう。
我先に急がんとばかりに喧しくスロットを全開にし道をすり抜ける。ちょっとでも道が混雑すれば旅行者であろうとバリニーズであろうと、容赦なくクラクションを鳴らす。バリ島の交通渋滞は実にカオスだ。
一方通行が複雑に絡み、旅行者にはまずお手上げだ。それでいながら、歪んだ道路事情であるのになかなか均衡を保っている。
そんなやり取りを横目に、バリニーズがお祈りを捧げ、表通りに面したお店の入口にお香を添える。この島に不釣合いなクラブですら、入口では香が炊かれているので、彼らの信心にはほとほと頭が下がる思いである。
1999年12月、僕と友人Kはバリ島に滞在していた。
1999年のカウントダウンは、世界各国でパーティが開催され、バリ島でも大きなパーティがあると聞きつけたので島までやってきたのだ。
僕らの周りでは南アかゴアかパンガンという選択肢で行く先が異なったけれど、僕らは最終的にバリ島にした。
97年98年にゴアで一緒だったM君とスミニャックで合流し、12月30日には、JunとかHとかIもこっちに来るらしい。ベイホールで何度か見かけたカナダ人ともクタのクラブで再会した。
祭りの後にはレギャンというビーチ沿いのゲストハウスを引き払い、山あいに位置するウブドという村に宿を移動してチルするつもりだ。
*
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クタビーチに続く繁華街を歩いていると、ニューデリーほどではないにしろ物乞いやら売人やら物売りが耳元で囁いてくる。アジアならではの光景であり、鬱陶しくも心の中で「こうでなくちゃな」と呟く場面である。
彼らの何人かは巧みに日本語を操り、「両替ドウデスカ」とか「キノコ食ベタイデショ」など怪しい単語を並べて旅行者の足を止める。
もちろん無視を決め込むしかない。僕とKは物売りの勧誘を振り払ってベモと呼ばれる三輪タクシーに跨りタナロット岬に向かった。
噂が本当であれば、岬で今夜ケチャダンスが見られるはずなのである。
*
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今夜タナロット岬に行くよと、僕は隣のコテージに滞在しているオーストラリア人カップルに告げた。彼らも関心を示しているようで、岬で待ち合わせしようということになった。
大抵のオーストラリア人がそうであるように、彼らは日本人には好意的である。毎晩12時を過ぎると雄たけびを放って延々と交尾をし続けるカップルではあったけれど、それを除けば僕らに親切な二人だった。
ある晩、テラスにある籐椅子に座り蝋燭に灯りを燈して人気の居ないプールを眺めながらKが呟いた。
「ありゃセックスというよりはプロレスだよな」
僕は呑んでいたビンタンの瓶を転がしそうになり、ゲラゲラ笑った。
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複雑な裏道を曲がり抜けると、そこは岬だった。夕闇があたりを包み、昼の太陽の余熱がそこかしこで放射している。意外にも岬には幾人かの旅行者が既に到着していて、オーストラリア人カップルもその中に含まれていた。僕らは合流し見晴らしのよさそうな場所に腰をすえた。
いよいよ茶褐色のバリニーズが酩酊した様子顕れ始めた。
我々部外者を一瞥もせずに黙々と列を成してゆく。腰みの以外は身を纏っていない。
「チャッ、チャッ。ケチャケチャケチャケチャ・・・・」
蛙が憑依したかのような動作で身体を揺らす。
僕はあっという間に心を奪われ、半ば陶酔した様子でカメラを手にした。鳥肌が止まない。
フイルムを交換し、またシャッターを切りまくった。Kが掛け声に同調して足でリズムを刻み始めた。
ふと足元に視線を移すと、日本には棲息していない小豆の粒ほどの巨大な赤蟻が米粒を運んでいた。何処から運んでいるんだろう? あたりを見回しても米粒らしき食物を見つけられなかった。
蟻の一群は地面から流れ出す血液のように生々しく残酷に感じた。
「ケチャケチャケチャ・・・・」
トランスが果てしなく続く。
オーストラリア人カップルの女が、その蟻の流れに気つき、指で一匹摘んだ。蟻が抵抗して彼女の指を噛む。その一部始終を僕は眺めていた。
オーストラリア人の女は小さく「痛い」と呟き、完全に欲情した表情で蟻の首を千切って、薄笑いを浮かべた。他の蟻はそんな様子に気づくことなく、一心に米粒を運び続けていた。
カメラを持った僕の手は汗でべっとりと湿り、からからに渇いた喉の奥で唾液が音を鳴らした。

海外に輸出されていないローカルなテキーラや蛇を漬けたテキーラなど、トルティーヤを売っているボロボロの屋台ですらボトルを並べていたのには驚かされた。
さっぱりした飲み口のソルというビールにライムと塩を入れて飲みつつ身振り手振りでタコスを注文する。ソンブレロとよばれる幅広い帽子をかぶった屋台のおっちゃんが「テキーラもどうだ?」と目配せしつつそぞろと瓶をかざす。きっと全部試していたら今頃メキシコに沈没していただろうと思う。日本における日本酒と同じ扱いで、銘柄があり、テイストがあり、歴史があるのだろう。
その旅で唯一残念だったのは、帰りのロス発の飛行機が決まってしまっていたことだ。メキシコの国境からそれほど離れていないエリアまでしか足を伸ばすことができなかったのである。
少しでも南へと思い、できるだけ国境を離れる努力をした。
ティハナと呼ばれる国境の町からおんぼろの相乗りバスに揺られると、やがてロサリートというビーチに着く。幾つかホテルが並んでいるうち、一番ネーミングが気に入ったホテルに泊まった。Los Pelicanos、日本語でペリカンホテル。愛嬌のある名前が好印象だった。
ペリカンホテルは中級クラスのホテルで(専用のプライベートビーチがあって、プール並のスパがある)、値段はけっこう高かったが、オフシーズンだったので、インド仕込の交渉で大幅に値引きして拠点にした。メキシコは乾燥しているから海沿いでも湿ったりベトついたりしない。気温が35度に達しても朝晩は冷え込むのだ。
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朝目覚めると、屋上レストランではストーブの薪に火をくべて暖を取っていた。実際にそれぐらい寒い。ストーブの上には何年も使い込まれているといった様子の、煤けた薬缶に入った炭火焼珈琲が常に温めてあり、ピリ辛のナチョスと豆料理の朝食の後に飲む黒砂糖とシナモンが溶かしていある風味豊かな一杯は、格別だった。メキシコ人はみんなカフェ・デ・オージャと呼んでいた。大鍋で煮出すメキシコならではの珈琲らしい。
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プライベートビーチから少し離れた浜辺では、宿に泊まらないキャンパー達が焚き火をしながらテキーラを飲み、夜を明かしていた。あまりにもざっくばらんなスタイルでテントを張っているので、初老のキャンパーにふと尋ねてみた。
「こんなところでテントを張って夜を過ごしたら危険じゃないのかい」と。
彼はそんな心配なんてしたこともないという仕草で目を細めてしゃがれた声で答えた。
「危険かどうかって?ここには心配な出来事は何もないだろう。夜中に酔っ払った誰かが騒ぐことはあってもその程度じゃ。流木に火をくべてテキーラを飲み、朝を迎える。それだけじゃ。だってここはメキシコだからな」
彼はもう一度繰り返した。
「だってここはメキシコだからな」
日が暮れてペリカンホテルの屋上レストランでマリアッチの演奏を聴きながら眺めていると、まるでそれは遠い母国で見たかがり火のようで、何とも不思議な気分だった。

ニューデリーを基点とする多くのバックパッカーが、この街(というよりはメインバザール)に滞在するので、これから西に向かう者、東に向かう者の交差点や旅の情報の交換のエリアになっている。
そして、5月から7月にかけて、ニューデリーでは日中の気温が摂氏50度近くにまで上昇して、夜の最低気温でも35度ぐらいになるという、地獄の釜でも覗いたような猛暑に見舞われる。
僕は運悪くタフな時期のニューデリーに滞在していたことがあって─ちなみにニューデリーという街は、旅人にとって、2日も滞在すれば十分な場所だ─、そのときは文字通り蜃気楼が見えかけた。
しかもネパールからの帰路。存在するもの全てが鬱陶しいニューデリーに僕は帰ってきた。
後にも先にも当時のニューデリーを超える暑い日というのは、僕の中では見当たらない。
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その日の気温は53度だった。
猛暑という表現を用いたが、果たして猛暑という言葉が適切なのか訝しいほどの暑さである。
いや、暑いのではない。正直、熱いのだ。炎熱地獄という感じ。
実際に、地獄だか天国に誘われちゃう輩もいて、まずこの時間に歩くのは自殺行為に等しい。
インド人ですら熱中症でパタパタと死んでいったりしている。
僕はクソ重たいバックパックを背負って歩いたわけだけれども、やはり瞬時に眩暈が訪れて、軽く死に掛けた。
歩く際、最初にしたことは、時計とピアスと指輪を外すことであった。
そうしないと必ず金属の部分で火傷をするからだ。
そして足元に気をつけること。
足元の地面がアスファルトである場合は、太陽光線で溶け始めている。
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目当ての安宿に辿り着くまでに、ニューデリー駅の目の前がメインバザールであるのも関わらず、2回ほどチャイ屋で休憩をした。
太陽が一番真上にある昼ごろは、さすがのインド人も道を歩かないようにしている。
牛も木陰を見つけてしゃがんでしまっている。
駅を降りた瞬間に吹きつける熱風。
あまりのも熱風に包まれると人間という生き物は鳥肌が立つんだと知った。
チャイを飲んで日陰で休んでも頭がガンガンする。熱射で痛いのである。
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さて、目当ての宿に着き、荷物を置くと、隣接している水シャワーの蛇口を捻ってお湯を出し切った。
温泉のようなお湯が出てきた。
もちろん給湯器ではない。本来なら水が出るはずである。
そしてそのあとにバケツに水を汲んでベットに掛けた。
水が気化するので、その冷却効果を狙って行動をするのだ。
夜に寝る時も同じだ。
寝る前に水浴びし、必ず拭かないで寝る。
そうしないと一生睡眠にはありつけない。
水でびしょ濡れになったベッドからはシュウシュウと不気味な音が鳴っている。
部屋は薄い霧に包まれて、快適に程遠いとはいえ、少しは落ち着ける。
気温にして40度くらいだ。
翌日にはベッドがカラカラに乾いている。ベランダに干したタオルも半夜で乾く。
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50度を超えるニューデリーで旅をするには、昼間はなるべくじっとしてゲストハウスに居ることを心掛けることだ。
存在しているだけで体力を消耗する。
だからどれだけ暑かろうが、気を失うように夜は眠ることになる。
たまに無謀にも外に出ようとしたら「無茶するな」と宿の親父に制止された。
宿の親父も困ったように笑うだけだ。
日没になり、真っ赤な太陽が沈みかけた時に、ようやく動ける。
インド人も牛も、夜になってから、モソモソと何処かに向かうのだ。
こんな風にして僕はバンコクに向かう飛行機を待つ数日間、幾度目とも分からない(でも今回が一番タフな)ニューデリーの日々を過ごした。

当初は10日ぐらいの期間だけ滞在し、その後は北上するつもりだったのが、結局ずるずると40日以上の滞在となり、僕の学生時代のうちの5番目ぐらいに酷い退廃的な日々を過ごすこととなった。
40日のあいだに、僕の体重は47キロに落ちて、意識不明で病院に数回運ばれて、家宅捜査を2回受けて、年上の知り合いが3人自殺して、1人は精神病院に運ばれた。
滞在した場所はサウスアンンジュナと呼ばれるビーチから少し離れた森の中で、道路も舗装されていないエリアに位置する家に住んだ。
井戸水と蝋燭で生活し、椰子の木と椰子の木の間をバイクで潜り抜けないと辿り着けない場所だ。
日本で囀っているのを聞いた覚えのない音色をハミングする野鳥の声で囲まれた家は、2階建てで、夜になると闇に包まれて、オーナーはルーシーというインド人だった。
ルーシーは熱心なクリスチャンだったから、行動ひとつとっても自愛に満ち溢れていて、いま思い起こしても、まさに聖女に相応しい女性だった。
摂氏35度以上のあるのに「寒い」と錯乱して訴える僕を数え切れないくらい介抱してくれた。
で、僕が住んでいたのはルーシー宅の2階なのだが、これが腰の高さぐらいまでしか塀がないので、半分ベランダみたいな家だった。
「時々、猿が遊びに来ちゃうから大事なものは鍵を掛けてちょうだいね」とルーシーは事あることに僕に言った。
それに、ルーシー宅では、時々出没する猿だけではなく、犬と猫と豚がいた。
犬は何匹かいて、全部ジョビと呼ばれていて、隙を見て家に入ろうとする犬を「ジョビアウト!」と怒ってルーシーは追い出していた。
猫はプッシーという雑種の猫だった。
豚は何て呼ばれていたのか知らない。
このあたりでは、豚はトイレの裏にいるもので、つまりはトイレといっても穴があるだけで、そこで用を足すと、外にボチャンとなって、そのボチャンとなったアレを豚が食べる仕組みになっている。
この豚については面白い話が幾つもあるのだけれど、話すたびに寒い空気が漂うので、最近は控えている。
でも、ちょこっとだけ。
どんな様子か想像してほしい。。
用を足そうという時に、ズボンを脱いでケツをだす。穴からブツを急かしている豚の鼻息は、最新式トイレの温風装置の比なんてもんではない。小汚い穴倉から覗く大きな黒い豚の鼻。ブヒョウ、ブヒョウと鼻息が当たる。周りでは蝿がたくさん飛んでいる。ビチャビチャと下のほうで豚が啜る音。なんともいえない感触。
さて、こんな風に動物と人間がごっちゃになっているゴアの住まいには、やはり恐ろしいぐらい害虫がいた。
ルーシーに追い出されるジョビは、いつも2階に隠れて我が家でゴロゴロしていたし、プッシーもニャアニャア鳴いて2階で涼んでいた。
そういうわけだから2階の部屋は、この動物達が運ぶ蚤だらけで、潰しても潰してもわらわらと沸いてくる始末だった。
手も足も蚤に刺されて毎日を過ごした。あまりにも痒くて気が狂いそうになったので、バイクで街にある薬局を訊ねた。
「家に蚤がたくさん発生してしまって、退治ができないので、薬をもらえませんか。あとそれと、痒み止めの薬も」
インドの薬局は薬事基準が日本と異なるから、日本で売られていないような薬品がたくさん置いてある。
薬局のおじさんは、いかにも薬品を取り扱うという風情の顎鬚を生やしていて、フムと言うと、ピンク色の液体入っている瓶と、粗雑な紙で仕上がっている箱に入った粉末を出した。
ピンク色の液体は痒み止めだという。
タイにも似たような薬品があったので、なんとなく使い方がわかった。
蓋を開けて匂いを嗅ぐとツンと酸味の帯びた匂いがした。
「朝晩にこれを塗りなさい」とおじさんは言った。
「で、これで蚤を退治しなさい。これはDDTだ」と言った。
DDT?いまDDTって言ったよね。
僕は一緒に薬局を訪れた連中に言った。
DDTは、たしか社会の教科書で読んだことがある。
戦後間もない頃に、頭に虱がたかった学童にマスクをして白衣を着た医者が粉を吹き付けているモノクロ写真だ。たしか僕の記憶によれば日本では禁止されていたはずだ。
「DDTって使ってもいいんですか?」
僕がそう尋ねるとおじさんは質問の意味が分からないという仕草でYesとインド風に頭を揺すって答えた。
*
*
最近、僕はDDTについてWebで調べた。
DDTは安価に合成できて少量で殺虫作用を持つ薬品で、蚊や虱といった黄熱病、チフス、マラリア等の病原体を感染させる昆虫を殺虫するのに効果を発揮すると書いてあった。
発癌性が疑われたのだが、最近の研究では発癌性そのものに否定があるらしい。それがDDTだ。
当時、インドに居た時はインターネットもあるわけではないので、DDTをまるで呼び戻された悪夢を見るような目つきで見てしまった。
小麦粉と片栗粉の中間みたいな白い無臭の粉で、床にバラバラとばら撒くだけで、
このDDTは想像を凌駕する効果を発揮した。
床に撒いて放置すること1時間。
たったの1時間で、大量の蚤と見た事のない昆虫の死骸が地面に山盛りになった。
そしてしばらく僕らは、咳が止まらない独特の薄気味悪い症状に見舞われ続けた。

日系人が住んでいたり日本食レストランがあるエリアで、2ブロック離れるだけでスラム街だから、夜中に銃声が響くといったなかなか物騒な場所でもある。
それでも、街の中心には寺院もあり、火の見やぐらもあるので、物騒とはいいつつも壮観な景色で、日本に居るのとかわりのない街並みが続く。
90年代中頃には日本の大手スーパー「ヤオハン」も進出していたので、買い物にも不自由しない立地だった。
そのリトルトーキョーに「ダイマルホテル」という台湾人のお婆さんが経営する安宿があって、長期滞在者や日雇い労働者、ハリウッドで夢を見る役者希望など、さまざまな日本人が寝ぐらにして生活していた。
宿自体は大した建物ではなくて、長い階段を上ると小さなカウンタースペースがあって、小さく区切られた部屋とボロボロで光沢を失ったリノリウムの床が空寒い雰囲気を醸し出している、そんな感じの安宿だ。
宿は一泊20ドル前後。
赤井英和がアメリカに武者修行した際に、ここを常宿にしたのでも有名で、色紙が置いてあったりする。
僕はアメリカにまでわざわざ来たんだから、もっと違うところに宿を借りたかったのだが、一緒に旅をしていた友人が、旅先での想像しうる限りのさまざまな不安等を打ち明けてきたので、渋々リトルトーキョーに向かい、ここにしばらく滞在していた。
「ダイマルホテル」に滞在して恩恵が受けられる一番の利点は、日本食が食べられる、これに尽きた。
以前アメリカを旅行していた時に、散々食事で苦しんだので、食事に恵まれたのは、本当に助かった。
朝からパンを食べて、夜にはジャガイモを炒めたのと分厚いステーキ。
こんなのは文化的な人間が食べる代物じゃないぐらいの考えだったので、3つ軒先が離れた日本食レストランで食べられる〝焼き魚定食〟なんてのは、涙が出るぐらい有り難かったのだ。
でも旅の本質は異文化に触れることにあるというのが僕の考えでもだったので、旨い旨いと言いつつも、なるべく早くリトルトーキョーを離れたかった。
だって、〝焼き魚定食〟だったら、日本で食べたほうが旨いし、わざわざ飛行機を乗り継いでロサンゼルスで食べなくてもいい。
だから、リトルトーキョーで日本食を口にするたびに、うんうん、美味しい!、はっ、でもこれで満足したダメだ、みたいな厄介な心情の狭間に自分ひとりで勝手に苦しんでしまった。
ヴェニスビーチに移動した後に、サンフランシスコに行くというプランを非常に待ちわびた日々であった。
事実、リトルトーキョーでは何もすることがなかったのだ。
裏とか表の境界線のない国には、逆輸入したアダルトビデオがたくさん売られていたから、ノー・モザイクな映像にちょっとは興味を持ったというのは嘘じゃないけど、おっぱいがユサユサ揺れるアダルトビデオ観てアメリカで時間を潰したくない。
もっと有益なことをしたいのだ。
古着屋も日本人プライスだし、見る価値がなかった。
*
*
仕方なしにボンヤリと「ダイマルホテル」のカウンタースペースで、日ながチェリーコークを飲んでいたら、ある日の午後、台湾人のオーナーが何やら言ってきた。
その頃は、からっきし英語の会話がダメだったので、四苦八苦ヒアリングしてみると「アンタ、暇そうだから、裏の駐車場の草刈りやってよ」とのことだった。
俺が暇そう?余計なお世話だっつうのと思いつつも、本気でやることがなかったので、「ああ、いいよ」と、快諾した。
「ちゃんと刈ってくれたら、ご飯ご馳走してあげる」というご褒美に思い切りそそられたからである。
そんなわけで、手渡された緑色のプラスチックのバケツとやたらと重たい桑を担いで、外に出た。
気温は摂氏34度くらいあったけど、土方や解体現場でアルバイトをして旅行費を稼いだぐらいのコウ選手にしてみれば、チロっと生えた雑草を刈るのなんて朝飯前の月形半平太だ。
口笛吹いてのんきに桑をかざしたら、あっという間に終わった。
巨大な牛が横たわったみたいなゴミ箱に雑草をぶちまけると、勢いよく階段を駆け上がり、「終わったぞ、ババァ、飯出来たか?」と怒鳴りつけた、というのは嘘で、「あのーすみません、終わりました」と、しどろもどろに拙い英語で告げた。
台湾人のお婆さんは、「アイヤー、もう済んじゃったかい」とビックリしていた。
中国人が本当に「アイヤー」と言うのを今日まで知らなかったのだから、その言葉を耳にしただけでも、ロスにまで来て草を刈る意味があったというものだ。
旅というのは何が起きるのか分からない。
水シャワーを浴びて短パンに着替えた。
充実した気分で、足取り軽く、清清した顔をして戻ると、なにやら香ばしいチーズの香りが漂った。
目の前のテーブルに、グツグツに焦げたチーズの乗っかったマカロニ。
簡単な食事が数多くあるアメリカ料理の中で、ナンバーワンに人気のある「マカロニチーズ」だ。
茹でたマカロニにチーズを絡めてオーブンで焦がしたシンプルな食事で、「この野郎、手ぇ抜きやがったな」という気持ちがチラッと霞めたけど、強欲っぷりでは4ブロックぐらい先まで、その名を轟かせているオーナーだったわけだから、きっと貴重なもてなしだったのだろう。しかも汗を掻いた後だったので、塩気が程よく、あっという間に平らげた。
モチモチしたマカロニに香り豊かなチーズが湯気を立てて巻かれている。
カリカリに焦げたチーズの周辺に少しタバスコを垂らしたり、ケチャップを掛けて食べた。
一気に食べた僕を見て、お婆さんは満足そうに微笑んで、「みんなには内緒だよ」と口に指を当てて、冷蔵庫からよく冷えたバドワイザーを持ってきた。
リトルトーキョーもそう悪くない、そんな風に思ったロサンゼルスの夏の午後だった。

日常語の常套句においても同国は出てきて、インド人が話す会話に耳を澄ますと「チェロ、パキスタン!」と呟いているか、怒鳴っている光景を目にすることだと思う。
インド亜大陸を旅するバックパッカーの間で、省略して「チェロパキ」と交わされている台詞だ。
「チェロ」はヒンディ語で「出てけ」とか「あっち行け」といった、ぞんざいな扱われ方をする言葉で、インド人は野良犬に向かって「チェロチェロ」と追い払ったりしている。
外国人が、インド人からこの言葉を浴びせられるといったら、商品を買うときに、大幅に値下げを試みた場合だろうかと思う。
インドの買い物というか商品には、値札が貼ってなく、極端に言うと〝買い物をするときには値段交渉が必要〟な国である。
もちろん、ボンベイにあるマクドナルドで買うマックフライポテトが、買う人によって30Rpだったり、55Rpだったりする、というわけではなく、値札がある然るべきところには、ちゃんとあるけれど、ないところには、そんなもの最初からありはしないのだ。
だから買い物をする人は、その人が持つ経験や度胸、ブラフ(はったりや駆け引き)、さまざまな能力を引き合いにして、安く買わなくてはならない。
「別に私は値下げなんかしなくていいもの」と開き直って、言い値で買う輩がいるけれど、殆どが他の旅行者から蔑まされたり、馬鹿にされたりする。
そんな値段交渉がある国で、インド人もびっくりな値下げを試みてしまうと、「チェロ パキスタン」と冷めた口調で言われて、追い払われるのだ。
インドに滞在して一度も「チェロパキ」の洗礼を受けてない輩は残念ながらボラれていたと思ったほうがいい。そうでなければ毎回ギリギリの適正価格で買っていたか。
*
*
ところで、旅人が提示される価格には3種類があり、よく「ジャパニーズプライス、ヨーロピアンプライス、イスラエリプライス」と囁かれたりしていて、ジャパニーズプライスが一番高く、イスラエリプライスが一番安いというのが世間一般の見解のようだ。
イスラエリは、外国に行くと、いたるところにいる旅行者で、タフな具合に金銭交渉に長けているというのが特徴だ。
インドにおいて、インド人VSイスラエリの値段交渉を見るのほど、暇な旅行者にとって楽しいエンターテイメントはなく、さすがイスラエリ、インド人から「チェロ パキスタン」となじられても、顔色ひとつ変えずに笑顔で「OK、Let's go with you(よし、お前と一緒に行こうぜ)」とすぐに切り返し、なかなか引き下がらずまた交渉を再開していたりする。
インド人も舌を巻く旅行者だ。
僕ら日本人旅行者の間では、「チェロパキ」という言葉そのものが一人歩きして、その語呂や語感が感覚的に遊ばれ、インド亜大陸を旅する旅人達の言葉として溶け込み、だんだんと形容動詞化して、高頻度で使われていくようになっていた。
日本人らしい特徴である。
お腹が痛いとか、朝が起きれないとか、そのほかここでは書けないヤバイことに対して「チェロパキってんじゃねえぞ」とか、「チェロパキっちゃった?」という風に、「チェロパキ」が頻繁に日常会話に登場した。
僕自身も何度かチェロパキすぎちゃって、その最たるものはガンジス川のほとりにあるゲストハウスで18時間気を失ったという体験だ。
こんときばかしは、脳も身体も人生も総てがチェロパキ状態だった。
では、パキスタンで。

西日本の、とりわけ北九州地方一帯からの海外へのアクセスとしては、非常に馴染み深いこのルートも東日本出身の自分にとっては新鮮そのもので、沖縄から船で台湾に行くのと同じくらい、かつてから夢見た旅のルートだった。
仕事の関係で北九州地方に長らく滞在していたので、仕事を除けば、その滞在自体が旅のようなものだったわけだけれども、鹿児島本線で数十分で到着できる下関から韓国に行くことを達成するというのは魅力的すぎるプランだったのだ。
船は毎日出港しているし、19時に下関を出発する関釜フェリーだったら翌朝の8時過ぎには釜山に到着する。
船の中には大浴場も設備としてある。
往路で9,000円、復路で8,100円。合計金額17,100円。
こういうのをロマンと呼ばずして何をロマンとするのだろう?
フェリー乗り場は下関駅から徒歩5分程度のところにある。
煌びやかとまでは言い難いけれども、さすがに外国と結ばれている船着場だ。
収容力もそれなりで、バングラディッシュのダッカにある一番の高級ホテルぐらいの赴きと威厳を持って聳え立ってる。その日は平日にも関わらずフェリーを待つ人はたくさんいたので驚いた。大量の荷物を背負っている韓国人のお婆ちゃんや中年のおばさんがほとんどで、そこらじゅうからキムチの匂いが溢れていて、もうすでに韓国のような雰囲気である。
船は品川から伊豆七島にむけて乗る東海汽船とほとんど変わりがない。
前述したように、この船には大浴場がある。どうもこれは日本と韓国の血塗られた渋い歴史を垢といっしょに流してしまおうという政府側の魂胆をフェリー会社が受諾したことに始まるらしい。
というのは冗談だけれども、とにかく日韓両方の旅人が巨大なフェリーでお湯に浸かってのんびりできるうれしいサービスだ。
隣の国の見かけは殆ど同じ種族なのに、入浴という習慣をひとつとっても似ているところもあればまるで似ていないところもあるのが面白い。
まあ、もっとも、僕が韓国に行った日は時化の強い日だったようで、波乗りをしているかのようにお湯がザッパンザッパンと揺さぶっていたので、のんびりするどころじゃなかったわけだが。
ついでながら船の施設について触れると、船の中には食堂やカラオケ施設もある。
食堂のメニューは日本食と韓国食の両方があって、カツ丼定食1,000円とかキムチチゲ定食900円とかである。
最後の晩餐的な日本食を堪能するのもいいだろうし、早速韓国料理に舌鼓を打つのも良いってわけだ。味はそれなり。この食事が食べたいためにわざわざフェリーで韓国までに行くんですよっていう人はたぶん10億人に1人もいないだろうが、無かったら不便極まりない、そんな食堂だ。
そうこうしているうちに船はゆっくりと韓国に向けて出発する。
周りでは無料サービスのお湯を使って韓国の激辛ラーメン〝辛ラーメン〟を食べている連中もいる。鼾を掻いているのもいれば、カードゲームで賭博をしているのもいる。
とにかく船は無事に出航する。
さて、突然だけれども、皆さんは<船酔い>たるものを経験したことはあるだろうか。
僕は何度か船旅を少ないながらもしたことがあるんだけれども、船酔いだけはどんだけ体調が悪くても患うことはなかったし、ましてや、この俺が船酔いなんてするわけないじゃないかぐらいまでタカをくくってきていた。僕を船旅に向ける何事にも変えがたい原動力だったし、案ずることはないという旅の開放感にも繋がっていた。
それがなによりも船旅における絶対的神話だったのだ。
釜山へフェリーで行く前までは。
船酔いというのは無間地獄のスパイラルだ。
決して逃げることはできない。
一度三半規管が狂ったら降りるまで狂ったままだ。
頭がグルグルして、もはや吐くものが無いとしても許されない。僕自身は元々の体質なのかお酒を飲みすぎて気持ち悪くなっても吐けないので、ただひたすら苦しみを味わうだけだった。
トンカツをたらふく食べた後に、マーガリン一箱とオリーブオイル一瓶をミキサーに掛けて攪拌したリッターのジュースを一気して、富士急ハイランドでジェットコースターを梯子したあとに、ボディブローを食らい、鼻から豆乳を吸い込むような気分を想像してほしい。
しかも船の中はキムチくさい。
ニンニクと唐辛子を混ぜ合わせた香りが次から次へと鼻を通じて自分の中で充満していく。
もし俺が差別主義者だったらいまごろ心もとない台詞でコイツらを罵倒しているだろうなと思うほどに。
幸か不幸か僕は差別主義者ではなく、寧ろその対極にありたいと日々願う人間だったので、呪詛をぶちまけることはなかったが、そのかわりに朝の8時までのたうちまわる事になった。
船酔いの洗礼はあまりにも容赦の無い施しだったのだ。
さて、朝の8時。
釜山に着いた僕は魚介類の屋台が豊富なチャガルチ市場の近くにある安宿に飛び込んだ。
道一杯に茣蓙を引いた韓国人がその日獲れた魚を並べて売っていたり、市場の中には食堂とかもある。見ごたえのある活気がいい市場の端にある安宿だ。
しかし、この日の僕はどうやら船酔いだけではなく熱もあるようだった。
船の中で湯冷めして完全に体調を崩したらしい。
レセプションだけが英語が通じるのが救いで(韓国語はアニョハセヨぐらいしか分からない)、しかもオンドルという韓国の伝統的な床暖房がある宿だったので、フラフラな姿で荷物を紐解いて、宿の従業員に体温計を借りて倒れた。
熱は39度あった。辺りでは賑やかにハングル語で何かを言っている。市場の喧騒がここまで伝わってくる。
「・・・・ハセヨ?」
部屋でひっくり返っている僕を見て、従業員が心配して訊ねてくるけれども、僕には彼のハングル語が分からない。
レセプション以外は英語が通じないのだ。
記憶が朦朧としている。でもたしか宿の目の前は薬局だったはずだ。
何とかそこで解熱剤を手に入れなければならない。
食事もとらなくてはならない。
キムチの匂いはもうたくさんだ。
でもその前に僕の身体は睡眠を求めている。
僕にはそれがはっきりと感じられる。
優しい従業員にもお礼をいわなくちゃいけない。
「体温計、ありがとう。ちょっと熱があるみたいだけれど、寝れば大丈夫だよ」と。
身体がいうことをきかなくて動けない。
突然、人気の無い公園で猫が一匹だけ毛繕いしている映像が頭の中を流れた。
意識が混濁している。
猫はニャァニャアと鳴いていて、なぜか僕はその猫に怯えている。
口をあけた猫の顔が笑っているように見えるのだ。
そして毛繕いを繰り返すごとに猫がどんどんと小さくなっていく。
キムチの匂いはもうたくさんだ。
「ありがとう」
もう一度猫が「ニャー」と鳴いて映像が途切れた。
サダルストリートは、20年以上前は〝地獄に一番近いストリート〟と呼ばれていたらしい。
インドのカルカッタにある路地だ。
20年前ぐらいだと、道ばたのいたるところに乞食と野たれ死んだ乞食が溢れていて、うっかり足を踏んでしまい「oh!sorry」と謝ったら、その男はとっくに死んでいたと、まるで冗談のような本当の話が毎日起きていたと当時を知る旅人は言う。
道ばたで死ぬ人間もいれば生まれる人間もいて、オギャーと、たらいの中で生まれたかと思えば、その1メートル先で野良牛がボタボタと糞をしている。
そしてこの一帯は安宿が集中していたので、パスポートを売り飛ばした旅人も同じく道ばたで倒れていた・・・、とまあ、とにかくすさまじい状況だったと古いアルバムを眺めるように懐かしむ諸先輩方もいらっしゃる。
しかし、今日のサダルストリートは、そんな様相はまるで感じられず、何年か前に政府が打ち出した浄化政策の効果で実に小奇麗に落ち着いている。
噂によると乞食と野良牛をまとめてデカン高原に放り出してきたと囁かれているぐらいだから、その徹底ぶりな浄化政策にはうなだれるばかりだ。
牛もほとんど見かけないし、サダルストリートに限っては乞食の数がそれほど多くない。
それでも突然の雨に降られるだけで、ダムが決壊したかのように膝ぐらいまで水に浸かってしまう街の光景は相変わらずだし、夜になると、このあたりをねぐらにするインド人の麻薬常習者や詐欺師がぞろぞろと道に現れてくる奇々怪々な油断のならない街角は、サダルストリートらしい雰囲気だ。
さて、パラゴンホテルという安宿の斜め前には、一杯が1Rs(約3円)のチャイ屋が店を構えていた。
何が欲しい?そう言わんばかりに首を斜めに上げて合図するインド人にヒンディ語で「エク チャイ(チャイを1杯)」と告げる。
素焼きの手のひらに乗るほどの大きさのカップに注がれるチャイは、舌にザラッと何かがこびりついてドキリとさせられるけれども、シナモンやカルダモンの湯気がたつ安息の効果を与えてくれる一杯だ。
飲み終わった素焼きのカップは回収されることもなく、そのまま地面に投げつけて捨てる。
そうすればやがては地球にリサイクルされるのだ。
インド人もヒッピーもバックパッカーも分け隔てなく地面に座ってこのチャイを飲んで時間をうっちゃっていた。
ブリキで出来た灯油ランプの乏しい灯りだけが頼りなので、灯りの周りにコソコソと集まる彼らの後ろ姿は蛾のように刹那的な寂しさだ。
お腹が空いたら近所の安食堂に潜り込むか、そうでなければ屋台で食事を済ませるのが大半で、どうしてかカルカッタに限ってはチョウメンと呼ばれるチベット風焼きソバのレベルが高いようで、他の主要都市では味わえない貴重なものだった。
日本人にとって故郷の懐かしい香りがする10Rs(30円)の焼きソバはバナナの葉のお皿になっていて持ち帰りもできる。
体重が減ってすっかり痩せ細った僕らは、不吉な咳をコホコホとしながら殆ど手掴みに近いような状態でこれを食べたものだった。
果物ひとつ食べる行為を見ても、文化や国によって違いがあるようで、例えば葡萄を食べる時に、ヨーロッパ人のほとんどが皮を剥かずに、若しくは吐き出さないで、そのまま食べるのが普段の習慣になっている。
意外にも亜大陸インドにおいて、葡萄はポピュラーな果物で、ロザリオ・ロッソに近い赤葡萄やマスカットが、2月くらいからしょっちゅう屋台で顔を出していた。
小粒だけれど甘みがあり、それでいて、日本で買うより安価だったため、見かけるたびに買っていた。
喧騒的なカルカッタのサダルストリートにある老舗のゲストハウス、そう、あのパラゴンホテルの重々しい鋼鉄の玄関の横に毎日同じ夕刻になると並ぶ籠を持った果物売りも同様で、その日の収入を得ている彼らの主力な商品は、バナナと並んで葡萄が圧倒的だった。
水道から直接汲み取るローカルウォーターで洗い、インクの滲んだ新聞紙に並べて、まだ肌寒いカルカッタの夜を蝋燭の灯りで過ごしつつ、毎晩テラスで食べたものだ。
2月のカルカッタの夜は日本の5月くらいの季節で、バティックに包まり、気持ちのよい夜風にあたってノンビリできた。
テラスで思い出したが、カルカッタにはなぜかチョウメン(チベットの焼そば)の旨い屋台が多く、懐かしい故郷の味に近かったので、テイクアウトに持って帰って、チョウメンと果物で食事を賄った。
パラゴンホテルは日本人以外のヨーロッパ人の旅人も常宿にしていたから、彼らも夕刻になるとぞろぞろとテラスに現れた。
僕らが葡萄の皮を吐き出しているのをみると心底驚きの表情を見せ、、キョトンと僕らが皮を吐き出している姿に「日本はマジで贅沢だなぁ」としきりに感心していた。
*
*
一箇所のゲストハウスで一番長く生活したのはポカラのレイクサイドにあるゲストハウスで、3ヶ月ほどひとつのゲストハウスに滞在していた。
ゲストハウス以外となると、サウスアンジュナのルーシーズハウスになるが、ルーシーの家は行くところではなく、帰る場所だから、意味合いが異なる。
3ヶ月のゲストハウス生活となると、それは宿での生活というよりはアパートに近い生活なのだけれど、旅人の中にはゲストハウスに3年住んでいるようなツワモノがごろごろしているのだから、それはそれでキリがない。
ポカラのゲストハウスは庭にある台所が使えたので、たまに気が向くとそこで食事を作った。
簡単な料理ばかりで、パンにヤクのチーズを挟んだサンドウィッチや、スクランブルエッグなどを作っては気の向くままに食べた。
果物はインドほどではないが、とりあえず食べられて、バナナやオレンジ、林檎が一般的だったと記憶している。
林檎を食べるスタイルとなると、これまたお国柄が出て、僕らが包丁で全部カットして、お皿に並べてから食べるのに対して、ヨーロッパ人はぺティナイフを使ってちょっとずつ切ってナイフに乗っけてそのまま食べていた。
もちろん包丁やペティナイフがヴィクトリノクスのナイフであることは往々としてあったわけだけど。
ぺティナイフはヨーロッパで包丁以上に頻繁に使われているアイテムで、ちょっとしたハムや肉やチーズを切ったり、果物を切ったりするのに重宝する小型のナイフのようなものだ。
ぺティナイフで林檎を剥くときは全部を向かないで、片手で持つところだけ皮を残す。
皮のむいた実の部分は一口サイズに切ってナイフに乗っけたまま口に運ぶか他の食べる相手にあげる。
ちょっとずつ果物を食べる時間はゆったりとしていて至福だった。
贅沢な過ごし方のひとつだ。
そして、ペティナイフを上手に使いこなす人が食べる林檎ほどなぜか美味しそうに優雅に見えたものだった。
さっと手元にあるサフィーと呼ばれる布でナイフを拭くと布袋にしまう姿に惚れ惚れした。
日本でペティナイフとして有名なのはヘンケルスだろう。
ステンレス製だから錆びることもないし、手入れがラクである。
ペティナイフを買う条件は、なんといっても持ちやすさと切れやすさに尽きるわけだが、どちらを考慮してもヘンケルスは見事だ。
スパっと切れる正確さはさすがとしかいいようがない。
値段も手ごろで探せば2千円代からあり、それなりのモノが買える。
前にも何処かで書いたけれども、00年1月1日~1月3日まで、僕の記憶は丸々ブラックアウトしてしまっていて、いまだに思い出すことが出来ない状態である。
でもまぁ、それは半分以上は自業自得が招いた結果だから、しょうがないんだけれども、いささかの不気味さは、やはり、残る。
その数日前の12月30日に、バリ島のスミニャック近くの道路で、バイク事故を起こして30メートルぐらい吹っ飛び、緊急で病院に運ばれ、医者に入院を勧められるも、一番強力な痛み止めやら抗生物質やらを貰って何とか断った。
というのも、翌日の12月31日にバリ島のとある場所でカウントダウンのオープンエアのパーティが待っていたからである。
僕はそのためにバリ島に来たようなものだったのだ。
ますますと病院のベッドの上でカウントダウンなんてできやしない。
足なんて怪我でボロボロだったから、もちろん踊れやしないんだけれど、何処で大晦日を過ごすかというのが一番の重要なポイントなのである。
そういうわけで、無理やり友達と2人で、大晦日の午後一番にパーティ会場まで行った。
本当はエントランスが数百ドル掛かるそのパーティは、オーガナイズが適当で、会場を開ける前に現地に行けばなんとかなるらしいという噂は当たっていたようで、僕らはとりあえず金も払わずに芝生の上でゴロゴロとした。
その後、なんとなく覚えているのは、23時59分ぐらいからのカウントダウンぐらい、というわけだ。
午後の大半の記憶も何処かに飛んでしまった。パーティが始まった瞬間の記憶もおぼろげだし、その後数時間の記憶もセピア色の写真のように現実感を見失っている。
僕は1日に1個しか飲んじゃいけないような強力な痛み止めを数錠呑んだ上に、アルコールを大量に摂取して、しかも・・・・、まあそれはいいか。とにかくまるでジョニーデップの店で倒れたリバーフェニックスのような状態だった。
明け方、泡を吹いてぶっ倒れているのを発見された僕は、なんとか会場内にあるテラスのcafeに行って、コーヒーを飲んだようだ。
〝飲んだようだ〟というのは可笑しな表現だけれども、このあたりになるとイマイチ自信がない。そう言われれば確かにそうかもしれないなぁとしか言えない。
その時に、ジロちゃんという日本の友達に会ったような気もするし、会ったというのは僕の想像のような気もする。これもどうなのかは分からない。
まあ、これには後日談があって、帰国後の代々木公園のパーティで、そういえば、バリ島でジロちゃんに会ったような気がするんだけれども、ちょっとよく憶えてないんだよねと言ったら、ジロちゃんも「あぁ、やっぱしあの時会ったのって、koちゃんだったのかぁ、俺も完璧にFucked upしてたからさぁ。会ったのって本当なのかいままで不安だったんだよ」と笑っていた。
ジロちゃんはシルバーアクセサリーを作る職人で、僕よりも5つぐらいの年上の完全なヒッピーだ。パーティの時は必ずFucked upしているジロちゃんもきっと記憶が曖昧だったのだろう。
さて、1月1日の午前10時ごろ、帰りのタクシーの中でガタガタと震える僕は、ロスメンに着くと同時に医者を呼んで貰った。すぐさま駆けつけた女医さんは、脊髄へ直接、睡眠薬と弛緩剤を打った。
そして数日間、暖かい肥沃な泥沼のような眠りにコンコンと就いたのである。
2日めぐらいに何かを喋ったりしたらしいが、もはや記憶の領域から遠い出来事となる。
僕は何度かぶっ倒れているので、わりとその辺のことには実体験から詳しいつもりなんだけれども、さすがにこの時ばかりはキツかった。
97年のサウスアンジュナのフルムーンパーティの後に2日間昏睡したのといい勝負だった。
ご存知・・・、かどうかは知らないが、バリ島はバリヒンドゥーと言って、インドネシアに伝播したヒンドゥー教が独特に発展した島独自の宗教があり、その宗教の中で規律とモットーを重んじて人々は生活している。
実際にインドにおける不可触賎民(ハリジャン)の位置を示す身分制度は無いにせよ、緩やかにカースト制度が存在する島だ。
たしかプダンダと呼ばれる祭司がいて、多くの庶民はシュードラというカーストであったと記憶している。
そして、庶民の生活の実にさまざまな到る所に、このバリヒンドゥー的な宗教習慣が実際に見られる。
ウブドゥはもとより、クタビーチやスミニャックのどんなサイケデリックな店ですらも、朝になれば必ず店の入り口に葉っぱで包まれた花の乗ったお供え物が置いてあるし、山の方では獅子舞とルーツが同じであろう被り物をした動物が練り歩いている。この島を訪れる多くの旅人がまずは驚く事実だ。
日本の、とりわけ東京のクリスマスは、シュプレヒコールの如くクリスマスソングが鳴り響くので、否応がなしに12月24日がクリスマスであると強制的自覚を強いられ、豪華絢爛な装飾のデパートとその徹底としたシーズンイベントに、日本人はキリスト教を信じるのか?と、外国人に錯覚させるほどの勢いがあるという。
しかも、その数日後には神社にお参りをするものだから、更なるその豹変振りに、外国人がケムに巻かれるのは有名すぎる話だ。日本の特徴的な嗜好の一面である。
これがバリ島となると、まるで逆の立場に追いやられ、自分が否応ナシにキリスト教圏外に、今居るのだ、と気付かされるわけである。
でもこれはもっともな話で、国民的に無宗教感が蔓延する日本だからこそ、クリスマスをひとつの年行事として成立させてしまう傾向がある、
つまり日本人にとっては、7月7日の七夕も12月24日のクリスマスイブも同列なのである。どちらも年行事として捉えて、同じ性質で、或る意味、宗教が立ち入る隙がない。
だから、少なくとも信仰心からしてみれば、バリ島の感覚のほうが正しいと言わざるを得ない。
さてバリに腰を据えて旅をしていた頃、ビーチで日焼けして、夕方までロスメン(バリの安宿)でナシゴレン(インドネシアの焼き飯)やサテー(焼き鳥)を頬張り、ビンタンビアやバリハイを呑んでは寝るという自堕落な生活をしていた。
そんな日々でも、朝食の時間だけは毎日ちゃんと起床して食べるように心がけていた。
心がけていたといっても朝の10時に起床するのすら、呪詛を呟くほどだったから大した早起きじゃないんだけれど、どうしてそこまでして早く起きるのかというと、バリ島のロスメンはアジアの他の国々のゲストハウスと違って、朝食が出るのである。
これは節約生活をするバックパッカーにはありがたいことだ。
だいたいがフルーツとパンと卵とバリコーヒー、コーヒーの粉がたっぷりと沈んだバリコピである。
網を編んだテーブルに置かれた朝食を、バリニーズのふくよかな微笑に囲まれて食べる。
木陰の竹製のしっくりとしたテーブルで、軽くシャワーを浴びた後に食べる朝食は格別だ。
12月24日、その日も例外ではなく、いつも座る少し段を登ったプールのよく見えるテラスで新聞を読みつつ、朝食を食べていた。
何気なく目にやった英字新聞のその日付で、僕らはようやくその日がクリスマスイブだってことを知った。
半袖と短パンで迎えるクリスマスはまるで実感が湧かなかった。
特にクリスマスソングが流れるわけでもないし、もみの木があるわけでもないし(椰子の木ならあるけれど)、街のどこもが昨日と同じであった。
新聞さえ読まなければきっと永遠に気が付かなかったに違いない。
「やれやれ、今日はクリスマスだぜ」僕と僕の友人は揃って言うと、わけもなくテラスでゲラゲラ笑ってしまった。
今日がクリスマス!そう思うだけで笑いが吹き出た。
それはとてつもなく僕らにもバリ島にも関係ない行事に思えたのだ。
僕らの周りにあるのはキラキラと水面が輝くプールとお香の漂うテラスと、コパトーンのサンオイルの甘い香りにビーチサンダルだった。
僕らがあまりにも大笑いしているので、ロスメンのスタッフが、おいおい、一体どうしたんだと様子を見にきた。
目に涙を浮かべてヒィーヒィーと呼吸をする僕らは何とか笑いを堪えて、「メリークリスマス!」と大きな声で言った。
突然なにを言っているんだ?、こいつらは、と言うかのようにキョトンとした顔つきでスタッフが首を傾げていた。
こんなクリスマスもたまには。
ざっけな街角のオヤツはまだまだある。
カオサンの真ん中にある〝カオサンでは〟上等クラスのホテル、D&Dの付近によく出没するのが、10Bのパッタイの屋台とバナナパンケーキの屋台だ。
パッタイというのは、お米の麺を炒めたタイの焼そばで、ニラや厚あげ、もやしや卵が具に入っている。
砕いたピーナッツが上に散らしてあるのが正統的だという。
アツアツの麺にシャキシャキしたニラとモヤシが新鮮な食感で日本の焼そばに近い。
お好みでナンプラー(魚醤)を振りかける。
このパッタイが10B(30円)で、しかも山盛りに食べられる屋台がこの辺りによく出没している。
3日もカオサンに滞在すれば、片手に氷で冷やしたシンハービールを持ちつつ、器用に麺を啜る姿が板についてくるってものだ。
西欧人を意識してなのか、屋台の看板には慣れない手つきで「vegetable only!」なんてペンキで書きなぐってあったりする。
バナナパンケーキは、クレープのようなオヤツで、バナナを練りこんだパンケーキ生地を鉄板でふんわりと焼き上げて、ココナッツミルクかコンデンスミルクを垂らした甘いお菓子である。
出来たてのそれは、アツアツでしかもサックリと香ばしい甘い匂いを放ち、亜熱帯のタイに相応しいバナナの味が立ち込める、しばし旅の疲れも忘れる味であった。
こちらも10B。
一度ハマると、バナナパンケーキ屋の前を買わずに通り過ぎることが出来ないほどの、中毒性があり、旅人の心を魅了するものであった。
カオサンロードにはバックパッカー達ご用達の有名無名の屋台や格安レストランがゴロゴロしていて、そのうちの何店かはカオサンの顔ともいえる名店である。
その通りの端にあるセブンイレブンの前に、夜中から朝方だけにかけて営業する粥屋があって、この店の粥は絶品だった。
サラサラしたスープの雑炊(タイ語でカオトン)ではなく、ねっとりとトロトロに煮込んで米がとろけているお粥の屋台だ。
お粥はタイ語でジョークとたしか発音する。
カオサンに潜んでいる貧乏なバックパッカーは勿論のこと、タイ人もオート三輪タクシー(トゥクトゥク)に乗って、わざわざ訪れるほどの好評ぶりであった。
よく煮込んである薫り高いタイ米に、コクのある味付けがしてあり、刻んだ葱や生姜、香菜が浮かんでいて、卵が落としてある。
すっと蓮華を入れると、豚の臓物や鶏の臓物が匙の先にあたり、思わず顔がほころぶ。
そして、臓物と刻んだ生姜の相性が絶妙で、噛むと滋味と青臭さが拡がる。
なかなか他では食べられない味だ。
1杯20B(60円)。
亜熱帯の常夏の国でじっとりと汗をかきつつ深夜に食べるお粥というのは、意外と懐かしい味であり、ナイトライフをエンジョイした帰りに啜る一杯は、胃に優しい、故郷の味に近いものがあった。
特にRCAやスクンビットで踊って呑んだ、アルコールが抜けるか抜けないかの状態で食べるのが、なんと言ってもナンバーワンで、僕らも例外ではなく、バンコックで遊んだ毎夜、ゲストハウスがランブトリーstにあるにも関わらず、わざわざ手前のセブンイレブンでトゥクトゥクから降りて、この粥屋を目指したものだった。
あの店は、まだあるのだろうか。
半袖と短パンにボロボロのゴム草履をひっさげ彷徨う深夜のバックパッカーを迎えて、温かい粥の一杯を提供していて欲しいものである。
1時間か2時間程度のドライブで周遊する。
島の観光センターでは島の名物である〝光るキノコ〟を鑑賞することができる。
元気が幾分減少しているエノキみたいなそのキノコは、真っ黒なフェルト布に覆われたプラスチックボックスに入っている。
人目を避けるように闇の世界に住んでいるそのキノコを僕ら鑑賞人は布に顔を突っ込むように近づいて、見るのだ。
「うっわぁ、すっげぇ。マジでピカピカに光っているよ」
ジメっとした焦げ茶色の腐敗土に聳え立つキノコはなんだか不思議だ。
どうして植物が蛍光色で輝くのだろうという疑問。
植物と言うよりは蛍光ゴムのようにも思える。僕らは思わず唾を呑む。
小さい頃に布団に入ったあと、ポケットに忍び込ませていつまでも覗き込んだ蛍光塗料が塗られたおもちゃを思い出した。まるで宝物をみつけたみたいな気分だった。
でもこのキノコは塗料が塗られているってわけじゃない。あるがままに光るのだ。
種の本能なのだろうか。だとしたら夜にもなお輝かんとするその菌類はいったい何から護ろうとしているのだろうか。
パーティ会場のデコレーションのようなので思わず20分間ぐらい見とれてしまった。「そろそろ行くよ~」という声でハッと目が覚める。
*
*
次に訪れたのは島の頂上でもある八丈富士だ。よく晴れた日だったら、山の頂きから島が一望できる。で、そのよく晴れた日が今日ってこと。
ちなみに八丈富士の頂上には「八丈富士ふれあい牧場」があって、八丈島で愛飲されている新鮮な牛乳を生産している。
そしてここで有名なのがその牛乳で酪した「八丈バター」である。
豊かなコクがいっぱいの「八丈バター」は島民以外からの人気も高い。パスタに絡めても最高だし、鉄板焼きで包み焼きも素晴らしい。香り高いバターのコクが広がる。
でも残念なことに乳牛やバターの生産工程のコスト高の煽りを受けて、品質保持が難しく、もう生産を打ち切ったという話だ。
島独特の牧草を食べる乳牛から取れる独立したバターであるだけに、誠に惜しい話である。
実際に島内のスーパーでもチラホラ見掛ける程度でもあった。
*
*
辿り着いた牧場では、ピューゴヒュゥゥと右へ左へ容赦なく強風が叩き付けて、まるで怒りを抑えられない竜神のようだ。
遠くのほうで風車が倒れていた。
足腰に力を込めないと吹き飛ばされそうだ。息をするのも苦しい。
飛行場と大自然が共存している風景。濃いブルーの海面がどこまでも続いている。
なんとかして駐車場から山小屋まで到着すると、数人の外国人バックパッカーが所在なさそうに牧場に散らばる乳牛の群れをぼんやり眺めていた。
珍しいのか、暇なのか、まるで表情からは読み取れない。
疲れているようでもあるし、充電しているようでもあった。
旅人というのは時々そんな顔をすることがある。
ふと思ったのが、どうやってこの人たちはここまでやってきたのだろう疑問だった。
車で来たような雰囲気じゃなかった。
「あいつらさ、もしかして徒歩でここまで来たのかな」僕がウシオに耳打ちする。
「いや、まさか。いくらなんでも、それはできないよ。だって、相当の坂だよ。」
その通りだった。車で登っても結構な急勾配だったのだ。
「でも、車がないよ。顔に生気がないぜ。あれきっと歩いてみたんだよ」
「そうなのかなぁ・・。」
不思議だった。それから僕は外国人バックパッカーは信じられないぐらい徒歩で何処までも歩くという話題に花を咲かせた。
事実、帰りがけに僕らがノンキに車を転がしていたら、彼らがとぼとぼ歩いているのが見えた。
やっぱしコイツら歩いてきたんだ。すげぇ。
ここから野営場まで行くのは夕方近くになるだろう。
大きなワゴンじゃないから乗せられないのが残念で仕方ない。
でも、僕らもそうやって旅先で歩いたものだ。ガンバレ。異国の人たちよ。
※TOPページの写真について少なくとも説明しなくてはいけない気がした。何故その写真を撮ったかということではない。僕がその写真を撮ったことに付随するインドで何が起きたか、ということについてだ。
朝6時半に目がさめるものの、いまだに頭痛が激しくて、まるでこめかみにネジを打ち込まれているような気分だった。
前の晩にゴアで買ったズボンを燃やしてしまって火事になりかけたからかもしれない。
20時ぐらいから酩酊して、火の附いている蚊取り線香に脱いだままのズボンを被せてしまったのだ。
トータルリコールのような真っ赤な惑星に辿りついて、はしゃいているところを揺さぶられ、夢から目が覚めたのは12時を回るところだった。
パチパチと景気良く燃えているパンツは僕を一気に現実まで呼び戻した。
「ま、まずいぞ。火事だ。火事!」
「ねぇ、水よ、水!!凄い煙じゃないの、なんなの一体!?」
なんなのかだって?こちらが聞きたいぐらいだ。夢の中の真っ赤な大地はこの燃え盛る炎だったのだ。
こういう時、意外と効を成すのがマンガの情報だったりするわけで、なんかの作品のシーンにあった〝水を直接掛けるより、ビショビショに濡れた布で火を覆うと火事は消える〟という情報が僕の頭を過ぎった。
そして、まさにここインドはバラナシで役にたったわけだ。
人間、マンガと言えどもなにかしら役に立つものである。
僕は急いでバケツに汲んである水(これはシャワーで使う水だ。もちろんまともなシャワーがないからこそバケツが置いてある)に兎みたいに跳ねて近寄ると、つい先日買ったばかりのバティックに何の躊躇いもなしに水をドップリと浸けて燃え盛る炎をめがけて一気に被せた。
ジュゥ。
断末魔の最後の叫びみたいに視界から赤い色彩が消え去ると、布が燃えた独特の匂いと煙が勢いよく飛び散り、なんとか火は消し止めることができた。
「ハハハ…」
なぜだか笑い声が出てきてヘニャヘニャと腰が抜けた。
「危なかったよ、マジで」
それだけ言うとゲッソリと疲れが出た。
危うくインドのガンジス河のほとりで、消し炭みたいに黒焦げになって発見された挙句、ゲストハウスを全焼させてしまうところだったのだ。
完全に火が消えたのを確認すると、玄関の扉をこっそりと開けて、お香を焚いて近隣のバックパッカーやゲストハウスのインド人を実際にケムに巻く為に準備をした。
ボヤを起こした事実に対するカモフラージュである。
それから僕らはとりあえず片付けを明日に回すことだけを決めて、原因も結果もそれにまつわる煩わしい言い争いを全部避けて眠りに就いた。
*
*
ベナレスの朝は早い。
現地での読みはVaranashi(バラナシ)。
悠々としたガンジス河のあるインドのヒンズー教の聖地だ。
現世の行いで来世が決定されるとするこの宗教では、ガンジス河で沐浴することにより現世の罪が洗い流されて、来世に繋がる・・・と信じられている。
聖地と聞くと厳粛で緊張のある風景を想像しがちだが、そんな考えは沐浴場(ガート)に到着して1秒で粉々に吹き飛ばされることになるだろう。
物売り、何を言っているんだかサッパリ分からない拡声器で怒鳴り散らされるヒンズー語(全世界の憤りを背負った不運な斑模様の鳥がギャオスギャオスと叫んでいるようなシロモノ)、ボートに乗らないかと耳打ちするインド人、輪になって野糞をしているインド人(平均して4人、多いときになると8人ぐらいの大所帯)、糞尿を撒き散らす牛の集団、迷子になった羊や山羊、河で洗濯する人、飯を焚く人、歯磨きする人、石鹸で身体を洗う人…。
それがガンジス河だ。
なるほど、人間の渾然とした生から死の総てのドラマがここで繰り広げられるわけだ、と多かれ少なかれ旅人は気付くことになる。
それでも朝6時から7時くらいの時間のガンジス河は ─こういう表現は変だけれども─ 営業時間前のパブのような雰囲気で静かで気持ちがいいものである。
人の数もそんなに多くはないし、いくらなんでもインド人だって、寝てる人だっているのだから。
何人かの早起きの連中が歯を磨いたりシャンプーをしたりしているだけである。
ヴィシュヌゲストハウスのテラスからはこの悠久のガンジスを眺めることができた。
レストランもあるので食事をすることだって出来る。
僕はケロシンコンロで湯を沸かして自分でチャイを作ってボンヤリと何も考えずに朝からガンジス河を見詰めるのが大好きなのである。
まだ霧に包まれているガンガーは僕の心を落ち着かせた。
手元にある文庫本(開高健のエッセイ。開高健のエッセイは海外で読むのに適した本の一つだ。僕が大好きなのは「地球はグラスのふちを回る」である。)をぺらぺらと捲って、眠たい眼をこすり、河と向き合う。
かけがいのない時間だ。
しばらくして7時も過ぎる頃になると、僕らは食事に出かける。
ゲストハウスの食堂で済ましてしまうこともあるけれど、たいていの場合は外まで出かけて食べるようにする。
ホンダのバイクにキィを差し込むと…っと、それはここじゃなかったゴアの話だ。
ゲストハウスの部屋に南京錠を掛けると、牛が道をふさいでいる石畳の裏路地を抜けてアリババレストランまで行く。
ベジフライドライスとコーラ。
決して美味しいとは言い難い味だ。
でも不味くても食べないと体調をおかしくするから仕方なしにポソポソの細長い米をコーラで流し込んで腹に詰める。
コーラなんて・・、と言う人はバラナシの衛生状態を知らない人だけが無責任に放てる言葉だ。
しっかりとビン詰めされたコーラが一番安全というのは常識にも近い。
いたるところで牛がぼたぼたと糞を垂らして、蝿が飛び交うこの街を訪れる機会があるようだったら覚えておいて損はない。
*
*
さて、その日は、ゲストハウスに戻らずにフレンズゲストハウスに泊まっているドイツ人カップルの部屋まで行った。
同じくそこのゲストハウスに泊まっているスペイン人のカップルとボートを借りてガンガーの向こう岸まで渡る約束をしていたのだ。
さすが世界に名高い几帳面なドイツ人、準備もすっかりと終えて何時でも出かけられる風に用意が整っている。
一方、スペイン人カップルはまだ眠たそうに布団に絡まって半分夢の中のようだった。
「やれやれ、この人たちまだ寝てるよ」
なんとなく日本人とドイツ人だけが分かり合えるような時間厳守の宿命を背負う人種同士、顔を互いに見合わせ、ガートで先に待っていると彼らに言い残して、ゲストハウスを背に向かった。
ガートに腰掛けてボート屋と交渉を終え、しばらく待っていると、絵葉書を買わないか、ドルをチェンジしないかと囁くインド人の後ろからスペイン人カップルが現れたので僕らは舟に乗り込んだ。
向かい側に行くには必ず昼間ではないと危険だ。
それと一人で行くのも危ない。
少なくともこうやって複数の人数でパーティを組んで行くのが最善である。
ゲストハウスの壁には何枚もの行方不明者のリストが貼られている。
夜中にガートを歩く旅人や河の向こう岸まで行こうと試みた者はみんな行方不明になっているのだ。
舟がガートから離れる。
しばらくすると ─舟が河の中央に達する頃になると─ 、この河の巨大さに気付くこととなる。
まるで海原のようである。事実、海豚や鰐だっているぐらいだし。
*
*
あと数十メートルで岸に辿り着くという距離だった。
それは明らかに異質な臭いだった。
誰彼もなくボートが岸に近づくにつれ、その「臭い」に気がついたことだと思う。
圧倒的な激臭が鼻についた。
それでも数分は誰もそのことについて指摘をしなかった。
最初に話したのはステファンだった。
「クソっ、なんだこの臭いは?鼻どころか目に染みるじゃねぇか。」
僕もたまらなく彼に続けた「ゴミじゃないぜ、これは」
みんなが一斉に布や袖で鼻を塞ぐ。
ボートを漕いでいるインド人だけが何事もなかったように詰まらない顔をして仕事に従事している。
到着したその岸は、不思議な場所だった。荒涼とした何も無い土地。
地平線の果てのような場所。たしかにここでは何が起きようとも不思議じゃないようだ。人を一人消すぐらいなんて簡単なことのように思えた。
地面を見たことのないカマドウマにそっくりな蟲がワサワサと跳ねている。白骨化した骨があたりに散らばっている。
「凄・・・。」僕らは完璧に絶句した。
臭いが充満する理由も無い荒涼地帯にも関わらず一層に強くなってくる。
どうやって渡ってきたのか、野良犬がたくさん居る。酷く虚ろな眼で涎を垂らして人間を伺っている。
その先に溶けた犬の死体。犬の死体を生きている犬がガツガツと食べている。
そして…、さらに先にあるのは人間の死体だった。
包帯でぐるぐる巻きにされた足のない人間の死体。その死体を犬が食べていた。
ゴリゴリと不吉な音を立てて、内臓を食べている。可笑しなことだけれど動物が屍骸の内臓から食べるというのは本当だった。
蝿が何千匹と飛び回っている。死臭で息が詰まりそうになる。
まさに言葉を失うとはこのことだ。
僕はその光景を表現する手段をもってない。
これからももてない予感がその時感じた。
埋め尽くされない底の深い溝が死体と僕の間に横たわっていた。
不慮の死を遂げた者や子供はガンジス河に流されると耳にしていたし、浮いている死体はよく見かけた。
でもあまりにもリアルティに欠けたその映像は何かマネキンのような余裕すらもあったのだ。
けど今回は違う。
腐敗してるし犬が死体を喰らっているのだ。
犬が人間を食べる!? ジョークなんかじゃない。
いままさにゴリゴリと音を立てて目の前の2匹は食事を愉しんでいる最中なのである。
邪魔でもしたらお前らも食べるからなと、まるで敵対するように我々を見詰める野犬は、僕らの知っている〝犬〟じゃなかった。
それは何かの拍子で間違えて生まれてしまった悪魔の申し子みたいな表情をした動物だった。
結局僕は躊躇しつつも何枚かシャッターを切った。
写真に残したらバチが当たるとか怨念が残るとかは不思議と考えなかった。
ただこれは撮らなくてはいけない出来事だと僕は感じた。
これから先僕はこの写真について説明することがあるかもしれない。
その時はそう感じた。
ドイツ人は「もの凄いグレイトなエナジーを感じる」といって死体の前でディープキスをしている。
スペイン人は死体のある水に浸かって何か叫んでる。
僕らはクラクラして秋の空に近い透き通った青空をただ眺めていた。
これが、98年4月10日の出来事である。
八丈島で旅人達の障害ともなるのが移動の手段である。
島であるため、もちろん電車は走っていないし、島内を細々と網の目を縫うようにノンビリ動いているバスの数も極端に少ない。
我々も僅かな滞在期間ではあったが、それでもバスの姿を見なかったほどなので、よほどの少なさなのだろう。
野営場から一番近い食料品が売られているスーパーまで行くのに徒歩で30分ぐらいかかる。
移動手段として思いつくのが、この徒歩での移動。
徒歩だから足とサンダルと暇さえあればどうにかなるわけで、これが一番手っ取り早い。
でも、僕らは限られた時間で島ライフをエンジョイしようとしているわけだから、徒歩での移動は避ける(いや、実際に僕らは最初は歩いてみたのだ。そして一つの結論を導いた ─少しでもお金が掛かろうと、足以外の移動手段を考えようと─ )。
島での移動は我々にはいささかヘビーなようである。
次に思い付くのがバイク。
手練の旅人は50ccのカブを船に持ち込んで、そのバイクで移動をしているらしい、なるほど車の往来がほとんど見掛けない島だったら、それはさぞや気持ちよいだろう。風に吹かれながらバイクで疾走する。
ゴアやバリみたいだ。
でも残念ながら(そう実に日本に居ると〝残念ながら〟という言葉を使うようになる)、日本でバイクを運転するには、あの忌まわしき国土交通省だかなんだかが発行している運転免許証がないとダメなのだ。
ゴアやバリでも必要なのかもしれないけれど、そんなの所持して運転をしているアホは居ないし(特にゴア)、僕は持っていないにも関わらず、涼しい顔して運転をしていた。だから、バイク案も却下。
となれば残るは自転車か車かということになるわけだ。
自転車は免許が必要ないかわりに脚力と忍耐力と、徒歩ほどではないにしろ幾ばくかの時間を必要とする。コストパフォーマンスも車に比べたら安い筈だ、というのが僕らの最初の認識で、島に到着してから僅か数時間で、そのか弱い認識力は塗り替えられた。
レンタルサイクル1日:2100円/台
レンタカー3日:8000円/台
なのである。レンタルサイクルを必要としたら、人数も考慮して少なくとも3日間で16000円掛かることになる。雨が降らないとも限らない。
それに比べてレンタカーは3日で8000円だ。もちろん普通のセダンである。
我々がクラクラしたのは、さっき飲み干したビールと空腹のせいではないのは確かなようだ。
で、僕らの移動手段の最終決定に鎚を打ったのが、島民の決定的な、そして貴重な証言だった。
前述したように僕らは最初、徒歩で食料品が売られているスーパーまで移動した。いくらキャンプ生活だって、空から食事が降ってくるわけではないのだ。
「すみません、こんにちわ」
僕らが声を掛けると中から笑顔の気持ちのよいお姉さんが出てきた。
「はーい、いらっしゃい」
店の中に竈があるらしく、焼きたてたばかりの香ばしいパンの香りがする。お腹がギュルギュルと減ってくる。
「あの、ちょっとお伺いしたいんですけど、僕らいま底土野営場にテントを張っているんですが、夜に島の温泉に行こうとしていて、その、自転車を借りて移動しようと思っているです。で、もし自転車で移動したらどれくらい掛かりますか?」
僕らがそういうや否やお姉さんがケラケラ笑った。随分と明るい人である。なんか凄い楽しそうだ。ヒャッヒャッヒャーと店の中に笑い声がこだました。
「アッハハ。ありえないってぇ、お客さん、温泉には自転車でいけないわよ。もし行ったとしたら3時間以上かかるんじゃないかしら。せっかく汗を流したのに、またシャワーを浴びなくちゃいけなくなるわよー。」
「えぇ、そうなんですか?」
島の反対側に温泉が集中しているのは、WEBで検索したりしたから予備知識で知っていたけど、まさかそんな3時間以上かかるなんて。
「え、じゃあ、車で行かないと無理ですよねぇ」。
僕らはまるでよく訓練された文鳥のように口と目をパチクリさせて質問をした。
「そうねぇ。うーん、温泉に行くのであれば、やっぱレンタカーかねぇ。レンタカーあったら、島巡りも楽しいし、ラクだからね」
お姉さんはケラケラ笑ってそう言った。
ということで、僕らは「あそこ寿司」(なんて名前だ)という痺れるネーミングのお寿司屋さんの先にあるレンタカー屋さんに向かい車を借りた。
3日間で8000円。
ちなみに「あそこ寿司」では島の魚だけを料理した島寿司がある。ワサビではなく洋芥子で食べる八丈島独特の漬け寿司。これを食べないで島を語ることは許されない。
ピカピカの銀シャリに乗った小ぶりのネタ。ほんの少し醤油をつけて口に運ぶ。
完璧な寿司である。
閑話休題。
とにかく僕らは車を借りた。
レンタカー屋のオヤジさんはたしかにこう言った。
「帰る直前に返しにくりゃいいよ。そしたら港まで送ってやらサァ~」と。
僕らはなんとなく怖じ気つくような尻込みするような態度で面食らい会釈する。
島の生活。僕らの常識がかなわない。でもまるで悪くない。
島を降りて、まだ3時間も経っていない日の出来事である。
これから八丈島に向かおうっていうのに、さっきからメリーゴーランドの映像が頭から離れないったらありゃしない。
東海汽船─という名の恰幅のいいシロナガスクジラ─は気持ちよく滑り出したし、2等席無しのわりには、自動販売機の真ん前に場所も確保できたっていうのに。
船全体の雰囲気だって大型連休の素敵な始まりを予感している。
メキシコのバティックも敷いて、占領地のアピールもオーケー、100円の毛布もたくさん借りた。
それでも、頭の中の映像はビカビカと月夜もおびやかす照明が発情した牝牛のように照らしまくる姿と、ツルツルのプラスチック製の木馬が摂氏100度の熱で溶ろけたキャンディのように渦巻いている姿で、埋め尽くされている。
木馬が上下に揺れながら回る姿が見えて、剥き出しの歯と瞬きの無い目が光跡のように伸びていく。
そんな映像。
メリーゴーランドのほかにはなにも存在していない。漆黒の闇だ。
たまにあることだが僕はうっかりするとそんな遊園地に紛れ込んで、ちょっと抜け出せなくなる。僕が産み出した世界に過ぎないとはいえ、一度踏み入れてしまうと大変なんだ、とにかく僕を支配していく。
木馬は全部で12頭。これはいつも決まっている。
11頭でもないし、13頭でもない。必ず12頭だ。木馬以外は見たことがない。
あまりにも毎回同じなので、一度どうにかして順番に名前を附けてやろうと考えてみたことがあったけれど、どうもピッタシの名前が浮かばない。
仕方ないので僕は思い切り空気を吸って叫んでみる。
そうなんだよね、実は僕は知っているんだよね。こうすればとりあえず木馬の回転だけでもとりあえず止まるってのを。
深夜の遊園地に迷い込んじゃったら、ありったけの空気を吸え。これが僕のローカルルールと処方箋。
すぅ~、。
でも木馬はどんどんスピードを高めて、溶ろけた飴みたいにもっと横に延び、煙を吐いて空高く飛び立って、赤い飛沫と黄色い息を吐いて粉々に砕けちゃった、で、変わりにチンパンジーの楽団が歯を剥き出しにしながら演奏を始めやがった。ウッシャッシャウッシャシャ。
ふぅ、うまくいかないものだ。
それにしてもさっきからどうしてそんな映像ばかりが目に付くのだろう。
パーティでもないっていうのに。
そう、今回僕らはレイブじゃない旅にでている。八丈島でキャンプするのだ。
東京品川の竹芝桟橋から18時間。伊豆七島と云う名の島々の先端。島の路面には真っ赤なハイビスカスが咲いているという。晴れていれば八丈富士の頂が見え、牧場では牛がモウモウと鳴いているとか。
その島に唯一ある底土野営場ってところにテントを建てる予定。島でのテントは我々としては初めての試み。
島に行くのに民宿も予約しないでテントだけで行くって話をしたら方々から目を丸くされたけれど、きっとどうにかなるものだ。
何度パーティでテントを張ってきたのか分からないぐらいだし。むしろそっちのほうがしっくりとくる。
少なくとも僕らにとって。
もちろん、台風さえ来なければね。
それにさ、野営場って響きがいいじゃないの。そりゃロマンやファンタジーからは程遠いかもしれないけれど、なんだか、一昔前の放浪者にでもなった気分がする。
一昔の放浪者?チンパンジー?、どうかしている。
*
*
旅の予感は大切だ。うまくいくだろうという気持ちと、少し混ざる不安。
高まる気持ちと期待感を這わせて東海汽船がどんどんと推進を高めてゆく。
細かく散らばったガラス片のような摩天楼が揺れる。当たり前だけれど、灯りの数だけ見ず知らずの人の人生がある。
でもなんだか不思議だ。
幾千万の都民のそれぞれの夜。彼らはどんな連休を過ごしているのだろうか。
*
*
群馬の前橋に仕事で飛ばされていた友人が、ひさびさに東京の本社に戻ってきた。出身が三宅島で、帰島するというので、その高校の友人も一緒に船に乗っている。
高1の時からの親友。予備校・大学も一緒で、かれこれ15年の付き合いになる。
そう思うと随分と時が過ぎたのだなとしみじみとした気分になる。
放課後にいつまでも日が暮れるまで遊んだりした。
彼は大学の推薦入学を狙ってたから、すべての授業に出席し、遅刻も早退もしていなかった。(それに比べ、僕らは全科目をそれぞれ割り出し、この科目ならいくつまで落とせるかと綿密に計算し、ひたすら授業をサボって、学校の隣にある喫茶店でゲームをしたり、居眠りをしたりの日々だった。)。
でも、彼は高3の受験の時期になると、同級生の兄貴が発した「男なら二浪しても早稲田を目指せ!」にまんまと僕らと揃って感化され、某大学の推薦入学を蹴って、桜を散らした。あげく、一浪したけれど、僕と同様、早稲田に入学できず、雁首揃えて入学式で肩を並べたわけだが。
とにかく15年だ。長いのか?長いのだろう。
当時は、今は無き渋谷の「なんじゃもんじゃ」で合コンするのが楽しみだったな。嗚呼、わが青春。
その彼がデッキで煙草をくゆらしている。大きく吸う煙草が蛍のように赤く灯っている。
三宅島出身である彼は毒ガスがまだ大量に残っている島に帰島するのだ。
そこまでして帰るという故郷に対する気持ちは僕には分からない。
もし僕がバンクーバーにでもいて、東京がガスにやられたとしたら、それでも帰るだろうか。
マスクを着用しないと生活できないというその故郷をひとめ見たいと思うのだろうか。
少し塩味のする海風にあたって、そんなことを考えた。
かわりばんこにビールを回す。
遠くで白波が荒々しく深海生物の鋭角な歯牙みたいに船に噛み付いているが見える。
*
*
深夜。
ハッとして目を覚ましたら午前2時だった。
自動販売機の前にバティックを敷いただけのお粗末な寝場所だけれど、しこたまビールを呑んだせいか気がついたら眠りに就いたらしい。
毛布の周りにポテトチップスやら薫製のイカやらが散在している。
チンパンジーの楽団も何処かに消えてしまった。いい兆候だ。
他のメンバーも深い夢の世界にいっているようだ。ウシオが寝息を立てている。大学時代からの仲間。ゴアのチャポラで3月3日3時33分33秒に待ち合わせをしたんだけど、僕が48時間以上遅刻して迷惑を掛けた。
三宅島の友人とは面識がある。校内で紹介した記憶がある。
エンジン音と被る寝息が深夜を想わせる。
話し掛けようとも誰も起きちゃいないしビールも空ばかりなのでもう一度眠りに入る。
きっと次に眼が覚めるのは三宅島到着だろう。
*
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アナウンス。「・・・・へ到着の方は・・・」
硫黄の匂い