2010年07月26日

バンコックラプソディーⅡ

バンコックにある東南アジア最大の歓楽街のパッポンで私が羽振りを利かせていたのは95年頃で、詳細については触れないことを前提に書くと、私は日本で用済みになった電子機器を日本より南の諸国に闇で流すことによって、学生では稼ぐことの出来ないであろう大量のドルを手に入れ、それを旅の資金にしていた。

もちろんその為に、私は複数の名前を持ち合わせ、生き永らえるためにその場その場で使い分けていた。

別に本名で通すことも可能だったが、そうしたいとは思ったことがなかった。

アジアという地域は魑魅魍魎がウヨウヨといて、混沌としているので、私は私ではない誰かとしてアジアでビジネスを営むことを強く望んだ。

生命の危機に曝されるような事態が起きるとは到底思えなかったけど、変名で通すことにより、私は安心を手に入れた。

安心というものには、カオサン通りの遺体安置所みたいなゲストハウスで、夜中に悪夢で目が覚め、嫌な汗を掻かずに済むという他の何物にも変えられない効能がある。

だから私は快楽の次ぐらいに安心という言葉が持つ独特の作用が大好きだ。

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パッポンとタニヤの中間地点にあるクラブでパーティがあった翌日に、「パスポートを取りに行くからパスポート局まで付き合って」と言ってきたのは、私のゲストハウスに泊まったウェイミーだった。

シンハビアとメコンウィスキを散々飲んだおかげで、脳味噌にダニでも沸いたかと思うぐらいの宿酔いに悩まされる羽目になった私を揺さぶり起こした地獄の番人である。

おまけにその夜はトランスのパーティがあったのだ。まだバンコックではトランス音楽は馴染みがなかった。

そう、パッポンに点在するクラブでは、トランス音楽がまだポピュラーじゃなくて、変わりにヒップホップ音楽が圧倒的に人気を博していた。

トランスは、ゴアやコ・パンガンで知り合いになった連中が、機材と音源を持ち込んで時たまパーティをする程度だ。

だからその夜はネジの緩まった扇風機みたいにはしゃいだ。

そんな朝の目覚めだ。想像ができるだろう。

そして信じられないかもしれないけれど、コ・パンガンはその頃まだそこそこ楽しめたのだ。

椰子の木と小さな小屋があって、満月になるとパーティをする島。

楽園だった。

私達は何も勘ぐることがなくビーチライフを楽しむことが出来た。

しかし、それから僅か2年足らずでコ・サムイと同じくらいに醜悪なリゾート地に変貌を遂げ、壊滅の道を辿る。まあ、それは今回の物語とはあまり関係のない部分だ。

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枕もとの時計を見るとまだ10時である。私がゲストハウスに戻ったのは明け方の4時だ。

どうしてそっとしておけないのだろうか。少なくとも3時間はそっとしておいてほしい。

眠たい上に頭が地割れを起こして砕けそうな私は思わず英語で悪態をついた。

ここではとても書きようがない不健全な言葉だ。

でも私のしたたかな努力は認められず、ウェイミーは大して英語が理解できない子だったために、自分の黒い髪の毛でも褒められたのねという素振りしか見せなかった。

私がどれだけ酷い悪態を突こうが突かなかろうが、蓮の上で戯れるブッダのように、ただ微笑むウェイミーを見て、私は次第に悪態を突くのを止めた。

きっと槍が降ろうが震災が起きようが、今日はパスポート局に行かなくてはならない。

そういえばおぼろげな記憶を探れば、そんな約束をしたような気さえする。

私はあまり有利ではない立場におかれているようだ。

たしかな予感がそこにあった。

やれやれ。

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ウェイミーに引き出しからアスピリンを出してくれるようお願いした。

「ウェイミー、今の俺の脳味噌は豚の王様が頭蓋骨の裏で屁をかましているみたいに頭痛がするんだ。カオサンで買った痛み止めがあるからそれを取ってくれないか」

そして、砕いて飲み、水シャワーを浴びることにした。

ウェイミーは私のタイパンツを脱いで何やらブツブツといっているようだったが、私には構ってられなかった。

ウェイミーの苦情を聞き入れるほどの余裕が今の私には無い。

きっと穏やかな寝起きを本日迎えられなかったからなのだろう。

いつもの私ならきっと耳を傾けてあげたはずだ。私はそういうタイプの性格である。

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さて、ウェイミーについて話すと、ウェイミーはバンコックに居住している20歳そこそこのタイの女の子だ。

私がベロベロになって手先も痺れて、嗚呼、いよいよこれまでか俺の人生とパッポンの路上で意識を失いかけた夜に、身も知らない日本人を解放してくれた慈悲深い天使でもある。

いつかバンコックで店を構えたいとかそんな夢を持ち合わせていた。

そして彼女にはシンガポール人のパトロンが居た。

そいつとシンガポールに行くからパスポートを取得するのだ。

大層なご身分である。一度だけ、そのパトロンはどういう奴なのか興味本位に聞いたことがある。

ウェイミーはちょっと考えて「銀行に勤めている35歳の中華系の男で、死ぬほど金持ちで、間抜けな山羊みたいな顔をしていてるくせに、私にぞっこん」と説明した。

私はどんな間抜けなのだろう?しばらく考えてみたけれど、いまだにいい答えが見つからない。

*
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パスポート局はタクシーで飛ばしても結構な場所にあった。

親切な私はタクシー代を出してやった。

私は何て優しい気心の知れた男なのだろう。

そこらへんの男が宿酔いだったら、こうもいかない。

彼女がタイ人だからではない。私のポリシーだ。

ウェイミーが何日も私の食事代を出す時があった。だからいいのだ。

私は自分自身に満足した。

タイ人の女性で、しかもパッポンの道ばたで知り合ったのだから、何かを要求された時点で私は手を引く覚悟を常にしていた。

だいたいはプライドの問題だ。

私が彼女にとって財布に見えるようであったら、それは潮時ってやつだろう。

お金を失うのは痛くはない。

しかしプライドというのは計り知れない。

そいつは目に見えないのだ。

でもたしかに存在する。

私はそういうものを失うことを恐れていた。

みんなはどうだろう?そういう風に考えたことはあるだろうか。

いずれにせよ、ウェイミーは私から何かを要求することはなかった。

良い関係だ。

そしてパスポートは無事に申請が出来た。

*
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シンガポールに行くという前夜、私達はもう一度会った。

ウェイミーは出来上がった真新しいパスポートを見せてくれて、パスポート局の帰りに、私がタクシーを無理やり止めさせてパイナップル畑の横で吐いたことを一年前の出来事のように懐かしく話した。

私もその出来事がなんだか懐かしかった。

私はバンコックを一度出て、コ・タオ、コ・チャンを周り、ホワヒンで静養していたので、ことさら昔の出来事のように思えたのだ。

ウェイミーは相変わらずブッダのように微笑んでいた。

シンガポールへ行ったウェイミーにはそれから一度も会っていない。

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2010年07月24日

バンコックラプソディーⅠ

私の知っているアンは、トマトを空中で弾いたような真っ赤な赤銅の東南アジア的な黄昏が過ぎる夕刻からのアンで、アンはバンコック最大のアジアの歓楽街パッポン、つまりニセモノのルイヴィトンや、精巧なロレックスが面妖にライトで照らされる露店が並び、耳元で「100バーツでどうだい?」と話し掛けるゲイが後をひかなくて、抜け目のないタイ人達が、今日もアホな貧乏旅行者をカモろうと、鶏の唐揚や汁ソバの屋台の啜りつつ、眼光鋭い目つきであたりを伺うエロスと欲望の街で、胸を露わに踊るダンサーだ。

アンと時間を共有したのは、6時間にも満たない僅かな時間で、記憶は忘却のかなたに埋もれてゆこうとも、私はなんとなく未だに彼女の部屋で過ごした夜と、その日の自分に降り注がれた特異な感情を思い出すことがある。

そして、この文章は、そんな夜のために書かれている。その夜の私とアンとバンコックの夜のために。

そうすることで賎しくも私の心の罪過は免罪を得ようとするのだ。

ちなみにアンは胸を剥き出しにして踊るぐらいなのだから、カラダを張って、つまり、客と寝ることによって収入を稼ぐ娼婦だ。

タイにはタイの事情があるのだから、私は彼女がどのような方法で外貨を稼ぐのかといった問題や、客と寝ることについて特別な感情を抱くことはない。言ってみれば私自身、女を買って行為をするといったこと自体に興味がないのだ。それは彼女の問題であって私の問題ではない。しかも私は、性格上、金銭を媒介して出逢いを求める性分ではない。だから、女を買うことに対して、私は異論を唱えたり口を挟むような野暮もしない。

特に発展途上の国では、その事実が如実になる。私は結論のない正論が非常に嫌いで、闇雲に売春行為を否定して、実際に何も手立てを浮かべなくて、買う人が悪いと単調に叫ぶのは、解決になっていないと信じている。それは当事者と同じなのだ。どうして買うのかというよりは、何故買わずにいられるのか、あるいは、いられないのか、そこまで掘り下げて問題提議するべき事柄であろう。

とにかく、私と、私とコンビを組んでいた友人は、安宿が軒を連ねているカオサンと呼ばれる通りからオート三輪に乗ってパッポンに繰り出して徘徊していた。何度目とも数えられないバンコックの夜遊びは、六本木で遊ぶのとなんら変わらなく、友人と2人で足元も覚束ない状態であらゆる店をハシゴしていた。

アンと会ったのは、ある晩の深夜2時を過ぎたころで、私はまともに歩くことができなく、友人は酩酊しすぎて呂律が回らなくなっていた。いつもどおりの夜、ということだ。

アンはタンクトップ姿の、タイの女性にしては珍しい身長の高い女の子、だった。数年経った今思い起こしても彼女は稀有な美人だったと思う。足が長く絹のように柔らかい肌を持っていた。おそらく天性の賜物なのだろう。テクノミュージックに身を任せてフラフラと踊っているところに話し掛けられて、流暢な英語を話した。クラブで話し掛けてくる女性のほとんどが売春行為を求めていたので、私は、ああ、またかと思いつつも適当に話題を探した。買う意思がないと伝えさえすれば彼女達と会話を楽しめるのも知っていた。

キラキラとした大きなまつげが目立つ黒い瞳を瞬きさせ、アンは、ドクトルファウストに賭けを持ちかけたメフィストのように、一緒にフロアに行きましょうと私達を誘った。効きが回って幻覚を見始めている友人は、ただニタニタと笑い、手をかざして音を愉しんでいるようだったが、私は1/2程度だったので、それほどの幻覚が作用しなかった。そのかわりアンの姿をきちんと捉えることができた。

南国独特の汗の匂いと、安煙草と娼婦の香水が、こん然と折り重なって淀んでいるクラブは私達にぴったしの空間で、我が家のように愛しい場所である。

内臓を揺さぶる低音と金属音を併せた電子音楽の洪水を浴びつつ、私は単刀直入に「もし君を買えっていうんだったら買うつもりはないよ」と焦点を懸命に合わせてアンに伝えた。

そう、そうなのだ、私は彼女を買うつもりは、ない。

「あら、そんなこと求めてないわ。貴方達イープン(日本人)でしょ。日本人がここにいるのは珍しいわ。踊りましょ」と、アンはどんな感情の種類でもない表情で、まるで何事もないようにあけすけに言った。なら、踊ろう。たとえ夜が明けなくてもこうして手を取り・・・、とまではいかなかったが、アンの柔らかい手を握って、私たちはまるで親しい友人のように気楽に踊った。

ただ唯一の悩みは、20歳になったばかりという瓜みたいに胸の大きいアンは、実際その店でかなり注目を浴びていて、私たちは否応なしに視線を浴びるハメとなったという点だ。

巨乳のくせにセクシュアルなほど腰が華奢なアンは、非常にエロティックだった。しかも私は感覚が鋭くなり過ぎていた状態だっただけに、まじまじと闇の奥底から煌く野獣のように店内から集まる熱い視線は、まるで私という存在そのものを査定しているようで、さすがに辛かった。

そうして欲望と蔑みと哀れみと憐憫と全ての感情と男達の滴る欲望を受け、しばらく無心になって踊っていると(それは1分だったかもしれないし、もしかしたら1時間だったのかもしれない。もうその時の私には判断ができなかった)、耳元でアンが「あなた、何かやっているでしょ」と囁くので、私は答えようかどうか迷い、「ああ、でもハーフだけだよ」とアンの腰に手をあてて返した。

自国の男たちが身を滅ぼしているのを頻繁に見ているから、特にタイ人の女性はそういった遊びに厳しいと私は思っていて躊躇したのだが、意外なことに、アンが不貞腐れた猫のように私もやりたかったなというので、私はまるで当たり前の挨拶のように、舌の裏に挟んだそれをガムと一緒にまとめてアンに渡した。

人目を気にする私が「飲み込んじゃだめだよ」が耳元で言うと、アンは目を大きく輝かせて「知ってるわよ」とベロを出してウィンクした。

まるで生き物のように動くアンのベロの映像が、しばらくの間、私の脳内を地球半周ほど駆け巡った。

「知ってるわよ」「知ってるわよ」「知ってるわよ」。アンの声とベロの映像がグルグルと回転して、音楽がテクノではなく葬式で漏らされる啜り声に聞こえかけた時、アンが私の頬に氷を当ててくれたので、なんとか正気を戻した。しっかりと幻覚を見た私は背中に流れる冷たい汗を感じて、自分の心拍音でパラノイアにならないように堪えた。私は自分の心拍音に集中しすぎて破綻することがあるので、ことさら、これは科学反応による症状なのだから心配することはない、と自分に言い聞かせた。

やがて、明け方になると、DJがテクノではなくヒップホップを流し始めたので、これじゃ踊れないという友人とアンを連れだして外に出ることにした。

4時を過ぎているというのにいっこうに人の波が途絶えることの無いパッポンは、キラキラとガラスを砕いたように眩しく、永遠の夜を演出している遊園地のようだった。

アンが「私の住んでいるアパートが近くにあるから、ウチに行きましょう」と私たちを誘った。同じ仕事をしている仲間、すなわち娼婦が何人か共同で住んでいるという。断る理由なぞ何もないので、両サイドに私たちの腕を組むアンと3人で転がるようにタクシーに乗って向かった。

普段我々が恐ろしいぐらい時間をかけて交渉するタクシー料金がアンだとアッサリと決まるので、拍子抜けになった。そのことをアンに言うと平然とした顔で「それは私がタイ人で、あなたたちが日本人だからよ」とクッキリと断言した。なぜかその時だけアンが訝しがる口調で言ったので、私は少なからずショックを受けた。

さて、アンの家は幾つか路地を曲がった大きなマンションの裏あたりにあるアパートで、確かに何人かの娼婦がそこに住んでいるようだった。

所沢駅から徒歩10分くらいの距離に点在していそうなそのアパートにいるのは、アンよりも若い娼婦がほとんどで、まるで子供のような顔つきで、美味しそうに汁ソバを啜りつつテレビを観ている。

アンが「私が摂っているのは内緒ね」と言うので、私たちはそれに従った。時間的にもだいぶ薄れてきたので酒を飲んで酩酊しているのと変わりはない。

そして、冷蔵庫から良く冷えたシンハビールを取り出し、ソーダで割ったメコンで乾杯し、数分もしないうちに友人は酔っ払ったままソファで寝息をたてた。それを見た娼婦がタイ語でキャッキャと指差して笑ってはしゃいだ。

時計の針が5時を過ぎると、仕事を終えて帰ってくる娼婦が一人また一人とベットに寝た。

「貴方は私のベットに寝なさい」とアンがいうので私はうんと頷くと、アンからタイパンツを借りてそれに着替えた。

でもさすがに薄いベニヤ板一枚を隔てた場所で、他の娼婦が寝ていると思うとアンを抱く勇気がなかった。

なんとなく眠れない私は、ぼんやりと天井を眺めて、今日一日に起きた出来事を回想した。何かが起きたようにも思えるし、何も起きていないようにも思えた。得たものよりも失ったもののほうが多いと考えてしまうのはクスリのせいにしたかった。ただこのままじゃ日本に戻れないのは確かだ。

たぶん私が送るであろう日本での社会生活は、計り知れないほど困難である予感がした。私には快楽の代償として、いくらかのリハビリが必要そうだ。

眠らない私を見てアンが「眠れないの?」と心配そうに小声で訊ねるので、ぼんやりと天井を見つめていた私は、しばらくして「大丈夫だよ」と答えた。

アンが抱いてというので、私はサラサラとしたアンの髪の毛を撫でてやった。太陽の輝きを黒髪に納めたようなアンの髪の毛と白い肌と、微かに動く乳房に比べ、私の手はまるで老人のそれのように生気を失い、ひどく冷たく、まるで夜の欲望が染み込んだような不吉な手だった。

私はまたしばらくして、自分の手を天井にかざして眺めてみた。アンの健康的な何かと私の中の黒い貪欲な何かが戦っているような気がした。

そんなことを思ったのも、そんなことをしたのもこの夜が初めてだった。

いつまでも眺めていると何処か遠い場所に辿り着けそうな気がした。一瞬、手のひらの先に、夕暮れの中、帰宅を待ちわびる子供のためにスーパーで買い物をしている母親や、苦労ながらも子供の進学を祝う父親の姿や、寂しそうに玄関先で私を見送る家族の姿を垣間見た私は、突然と故郷が懐かしくなり、泣き崩れそうになった。

アンに気づかれないよう私は、痛みを我慢するように、まだ帰るわけにはいかないと、何度か心の中で呟いた。私は必死になって耐えた。アンは安心したようにぴったりとくっついて寝息をたてている。私はまだ手を見るのをやめない。私の呵責はまだ私の中でじわじわとくすぶり続けている。

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