・皆既日食ハンターズガイド STUDIO VOICE 別冊
今年の3月にトルコでパーティがあったことから記憶に新しい皆既日食。
2008年8月1日にカナダやロシア、中国、そして2009年7月22日には日本で皆既日食を見ることができる。
皆既日食といえばトラベラーが集まるレイブ。
とにかく皆既日食がある場所にレイブありといわれるぐらい密接性が高い。
その皆既日食の総てを網羅したガイド的一冊。
ボアダムスのヤマタカEYEなどがコメントを載せている。パーティの写真も見もの。
\1800
1.なんかザリガニっぽい。
2.美味しくない。
3.見た目が蟲みたいでNG。
4.赤と白の配色とお腹の曲がり具合が、どう考えても芋虫。
4.食べると痒くなる。
アレルギー食物の中では意外と上位に食い込むのが、エビや蟹の甲殻類。
トロポミオシンという蛋白質の成分が原因。
甲殻類アレルギーは、これらの食物を食べてしまうと、身体中が痒くなり、唇が膨れあがって、呼吸困難になるという散々なもの。
酷い場合には、三途の河への片道切符がもれなく貰える。
エビとか触ると何故か指先が痒くなる人は、プチ甲殻類アレルギーなので注意。
僕は小さい頃からとにかくエビが大嫌いで、味も見た目もNGだった。
物心がついた時点で食べようとしなかったので、根っからのアンチ・エビ派だ。
やがて小学生になり、好き嫌いを克服する教育の一環で一度だけ食べたところ、身体中が痒くなって散々な目になった。
それから数年後、高校生のある日、当時付き合っていた彼女が「ウチに遊びにおいでよ」ということで、僕は遊びに行った。
ご飯を作ってくれたらしく、テーブルには何やら美味しそうな洋風の肉団子が湯気を立てて並んでいた。「へぇーすごいじゃん」とか言いながら一口食べてみると、何か幼き頃の悪夢が脳裏を霞んだ。
「アレ?なんだろ。この味。なんか変だぞ。なんだっけ」
僕がモグモグと食べている姿の一挙一動を彼女が懸命に見守るので、僕はすぐにピンときた。
ははぁ、これってほんとは海老団子なんだな。
僕はすぐさま聞いた。
「・・・ねえ、もしかして、これ、エビ?」
彼女は「全然違うよ、そんなの。アハハ」と純粋無垢な子犬だってかなわない笑顔で笑い飛ばした。
だから僕も─ったく、俺のバカバカと恥じんで─景気よく笑い飛ばした。
「アハハ。そうだよね」そんなこと、な・い・よ・ね。
でも実際には、これはエビじゃないかと疑い続けていた。
彼女と食事に行く時、僕が「エビが食べられない」というと、しょっちゅう眉間に皺を寄せていたからだ。
好き嫌いは諸悪の根源ともとれるぐらいの考えを持った人だった。
肉に見せかけてエビを混入するぐらいのことは朝飯前にするような人だった。
僕は不安になりつつも、結局、全部の肉団子を平らげた。
それから数十分後、僕の視界がどんどんと狭まってくる。
息苦しい。身体全体が痒いし、内臓の中で毛虫が運動会を始めたような痒みが駆け巡った。
「ねえ、怒らないから言って。さっきのエビでしょ?俺、エビ食べて痒くなったことがあるんだよね」
のたうち回っている僕を見て彼女がポロポロ涙を流しながらこう告白した。
「うん、好き嫌いを正そうと思って、エビたくさんいれたの。」
ごめんね、ごめんねと彼女がしゃくりをあげて泣いている。
やばい、エビで死ぬ。
えっ、もしかして〝エビ殺人事件〟?本気でそう思った瞬間だった。
みなさんもエビにはくれぐれも気をつけて。
日本語の成り立ちの中で、元々は男女のどちらかに限定されて用いられていた言葉なのに、変遷を重ねるうちに、その言葉の持つ意味性が片方の性ではなく、男女両方の性で浸透し、広まっている言葉がある。
フェミニストの指摘を待つまでもなく、こういった言葉の事例は男性を表現する言葉よりは女性を表現する言葉の数のほうが多く、女性の社会進出の功績の影響もある。
パターンとしては、女子○○と別途表現されるものは、本来は男性社会のみで使用されていた言葉である可能性が高い。
女子大、女子アナ、女流作家、女子プロレス、女子サッカーなど、職業的言葉やスポーツの言葉の多くで見受けられる。女性ではなく、男性も当然あり、例えば帰国子女という言葉の意味性には男女それぞれの性(社会的文化的性差=ジェンダー)が含まれる。
こういった社会的文化的性差であるジェンダー問題は、ジェンダーフリーに向けて動き出す社会運動にもなっている。
ジェンダーフリーは大雑把に言うと「性差にとらわれないで個人の資質を尊重する」みたいな考えで、海外ではジェンダーイコーリティと謂われている。
アメリカは歴史がなくて、極端な思考回路を持ち合わせた野蛮な国というのが、僕の偏見で、押し付けがましい単純な連中という印象が個人的に強い。
この大国だと、性差の問題も実に過激で過敏で、名前に・・・マンと附くのは性差に繋がるから改名したという例もある。
名前だけではなく、キーマンがキーパーソン、チェアマンがチェアパーソンと次々と〝マン〟表現が〝パーソン〟表現に差し替えられている。
スーパーマンが性差別に結びつくからスーパーパーソンに表現を変えよう!なんていう運動となると、もはやギャグなのか、本気なのか分からないところがアメリカのナイスな部分だ。
日本への影響はもちろんあり、サラリーマンをサラリーパーソンに変えようという動きが日本でもあった。
男女という表現もアウトだから、女男と表現する方法も用いられているらしい。
これらの差し替え表現(日本語版)をそれほど身の回りで見ないので、きっとジェンダーに厳しい人たちはサラリーマンという語を見るたびに精神的ストレスが蓄積されたりしているんだろうと考えてしまう。
さて、どうしてこんな事をつらつらと考えたかというと、先日、都内の某所で呑んだバーのバーテンダーが女性だったからである。
僕はジェンダーについては大した思想もなく、積極的でも非積極的でもなく、中立というか、なしくずしな姿勢という、ややタチの悪い位置に収まっている。
キーマンでもキーパーソンでもどっちだっていいし、どちらかの表現のせいで、居心地が悪い人たちが生まれてしまうのだったら、修正する価値があるとは思う。
でも言葉の浸透性は、語感というのも重要なファクタであると思うので、サラリーパーソンよりサラリーマンのほうが慣れ親しんでいるし、女男(にょだん)より男女(だんじょ)という言い回しがしっくりくる。
その表現を使用にあたって、僕の中では差別を含んでいない。でもそんな貴方の態度がなし崩し的に差別を助長するのよ!と言われてしまったら身も蓋もない。僕にはそういうフェミニズムに対抗する〝何か〟を持ち合わせていない。
話を元に戻すと、それを考えたのは、僕がそのバーで2杯目を呑んだ後の出来事だ。次の一杯を何にしようかと迷っていて、結局、ラフロイグのストレートにしようと決めたその時、僕は、その女性バーテンダーに何て声を掛けていいのか分からなかった。
はたしてマスターと呼んでいいのだろうか。僕がその仄暗いバーのカウンターで感じた疑問はそれだった。
少なくとも僕の中ではマスターという言葉は女性に対して向ける言葉ではない気がした。
それはどちらかというと「親方。セメント袋はこっちでいいっすか」と、失礼を承知に女性へ声を掛けるような危険性がまとわりついた。
でも、ママというのは陳腐すぎるし、だいたいここはスナックではなくてバーなんだ。
じゃあなんて言えばいい?
バーテンダーはバーマンと呼ばれる。バーマンはバーパーソンになるのかな。
女性バーテンダーがグラスを磨いたり、カクテルをシェイクしている最中、そんな風に次のお酒が呑めず、ピスタチオの殻を指で玩びながら夜が更けるのであった。
ふくろうの河【1961年 フランス】
監督:
ロベール・アンリコ(Robert Enrico)
原作:
アンブローズ・ビアス(Ambrose Bierce)
キャスト:
農場主 --ロジェ・ジャッケ(Roger Jacquet)
南北戦争のさなか、軍列車を妨害したとして、アラバマの農場主が桟橋で絞首刑に遭う。穏やかな日光が濯がれるある昼下がり、桟橋に吊り下げられた縄ひもで、ついに彼の処刑が始まる。
足元には河が流れ、河の周りには長身銃を持った兵士が取り囲む。絶体絶命のなかで、彼は絞首刑に遭うものの、難なく生き長らえる。次々と襲う兵士の手を逃れ妻に会いに行った瞬間、彼が見たものは・・・。
原作がA・ビアスという時点でピンと来た人はさすが。
「悪魔の辞典」の著者であり、芥川龍之介の作品に多大な影響を与えたアメリカの作家だ。
「悪魔の辞典」が最も有名だけれども、実は怪奇小説を数多く手がけていて、「ビアス短篇集」として岩波文庫から発売されているほどだ。
この短篇集に収録されている「アウル・クリーク鉄橋での出来事」の映画化がこの「ふくろうの河」。
モノクロームで統一された映像は不気味なぐらいに落ち着いていて、その中に狂気が含まれている。
ロベール・アンリコの映像は、とにかく緊張感が漂う。
映画のようであり、同時に映画の物語そのものから乖離している作品。
このアラバマの農場主と同じ体験は無理だ。
それでも観る者はA・ビアスが表現しようとした〝生と死のはざまの非情〟に、きっと『嗚呼・・・』と呟くに違いない。
ある意味、現実的な映画で恐ろしくなる。
映画を観た直後に恐怖を感じるのではなく、何かのふとした瞬間に、農場主が体験した〝死の恐怖〟が浮上してきて、僕を襲う。そんな後味を持ち合わせた映画を、この作品以外に僕はまだ知らない。
恐怖後味度★★★★★
1970年(昭和45年)~1975年(昭和45年)に生まれた人たちは〝団塊の世代ジュニア〟と呼ばれるそうだ。
ファミコン、スーマリ、ポートピア。おニャン子クラブにビーバップ。霊幻道士とあぶない刑事。イカ天バンドに渋カジブーム。
80年代、90年代前半、思えばなんだか色々とありました。
で、そんな世代をターゲットにして、1980年代後半~90年代をコンセプトにした、こんなアルバムやらサイト。
VOL7でついに満を持して〝イカ天〟の特集です。
懐かしいねぇ。
「次のバンドはこのバンドだいっ!」
土曜の夜中にどれだけ相原勇の声で悶絶したことやら。
原宿のイカ天ショップの開店日にわざわざ行ったりもしたし。
イカ天シャーペンとイカ天下敷きが我が家の何処かに眠ってますぜ。
イエロー太陽'sが未収録なのが残念だよね。「赤いチョコレートの下で」を入れて欲しかったなぁ。
あとティラノザウルスの「Baby! Baby! もっと! 熱い! Kissを!! 」も。
そしたら、スイマーズもセメントミキサーズもOne Night Standsもサイバーニュウニュウも入れて欲しくなるしxxx
あと、オンエアで観ていた限り、AURAは「愛・オーランド」、人間椅子は「陰獣」って感じじゃない?
けど、まあ、この値段で、FLYING KIDSの「幸せであるように」が収録されているのは貴重かな。
銀河鉄道の夜【1985年 日本】
監督:
杉井ギサブロー
原作:
宮澤賢治
原案:
ますむらひろし
音楽:
細野晴臣
キャスト:
ジョバンニ --田中真弓
カムパネルラ --坂本千夏
星祭りの夜の出来事、ジョバンニは病気の母親の為に牛乳をとりに行くために、町はずれを歩いていた。するといつの間にか、天気輪の丘へ来ていて、目の前には巨大な機関車が停車している。ジョバンニが汽車に乗り込むと、星の野原へと走り出した。汽車にはジョバンニの友人、カムパネルラも乗っていた。
映像化が困難とさえ囁かれた宮沢賢治の不朽の名作「銀河鉄道の夜」をアニメーション化した大傑作。
監督は「タッチ」や「日本昔話」で有名な杉井ギサブロー。
原案は漫画家のますむらひろしが手がけている。
登場人物がほぼ全員、擬人化した〝猫〟で登場しているのが大きな特徴だ。
ますむらひろしは、サウンドトラックの解説で、宮沢作品を描こうとして、人間の姿で描いたけれど、宮沢作品の登場人物として思うように描けなかったので、猫で登場させたと述べている。
僕個人としては、この作風に実に大賛成。
後々に宮沢賢治氏の実弟氏から少し物言いがあるなど話題もあったとはいえ、「銀河鉄道の夜」という非常に幻想的である意味現実離れした作品を映像化するにはこの方法は相応しいと思う。
物語の台詞は原作に非常に忠実で、何処でもない不思議に満ちた幻想的な世界が続く。
細野晴臣のサウンドも見事にマッチングしていて、テクノ調の曲が映像と競うように主張している。
時にはメロディアスに、時にはアンビエントに、まるで物語のように進むサウンドトラックだ。
「僕はもうあのさそりのように、みんなのほんとうのさいわいのためなら、僕の体なんか百ぺん焼いてもかまわない」
物語の終盤、ジョバンニはこの台詞を呟く。
僕は酷く喧騒に疲れて静けさに包まれたいような時、この映画を観ることにしている。
厳粛度★★★★★
新島でこよなく愛されている極楽スポットといえば、この「まました温泉」に他ならない。
間々下浦海岸の高台に位置し、新島港から右手に進み、湯の浜露天温泉を過ぎたあたりにある。
港からは徒歩10分程度。
湯の浜露天温泉は、混浴の為に水着着用となるので、思いっきり解放的(つまり素っ裸)にお風呂を愉しみたいのなら、こちらがお奨め。
泉質は塩分の濃い泉温79.8℃のナトリウムで、保温効果に評判がある。
効能は以下のとおり:
神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え症、病後回復期、疲労回復、健康増進、きりきず、やけど、慢性皮膚病、虚弱児童、慢性婦人病
温泉の湯船は、露天風呂と内風呂とサウナがあり、別途料金が掛かる施設として砂風呂(700円)もあり、人気だ。
「まました温泉」の露天風呂からの景色は、最高と地元民や観光客から誉れが高く、事実、目の前に広がる大海原は圧巻。
晴れた日は式根島が一望できる。
手を伸ばせば届くんじゃないかと思われる海を真正面に、ゆったりと温泉に浸かりながら波の音を聴くのは至福というもの。
「まました温泉」
東京都新島村新島村セトヤマ
10:00~21:30
水曜定休
大人 --\300
小人 --\150
砂風呂:
11:00~20:00
水曜定休
大人 --\700
小人 --\400
PSYBABA.NET reccomends 5 potions in this month are
1.AlayaVijana - Lei Ei Xoo (High Contrast)
2.AlayaVijana - Dynggyl Dynggyl Daaai (High Contrast)
3.Horror Place - Spunkies (INSOMNIA)
4.Red Hot Chili Peppers - Desecration Smile (Warner)
5.Bob Marley - Redemption Song (Tuff Gong)
あまりよく知られていない事実だけれど、韓国と台湾以外の国に行って血液型を訊ねると、「お前は医者なのか?」と驚かれる・・・というのがある。
ヨーロッパ人だと自分の血液型なんて知らないという連中も多いので、血液型を訊ねると不気味に思われたりもする。
「どうして日本人は会うごとに血液型を訊ねるのか?」
以前、日本に住むある知り合いのイギリス人は、僕に不安そうに吐露した。
それぐらい欧州では馴染みが少ない。
これは、血液型性格判断が、日本(若しくは韓国・台湾)のみで流布している性格占いであるという影響のせいで起こる現象だ。
血液型占いは科学的根拠が乏しいために、現在では否定されているのにも関わらず、相変わらずこの国では根強い人気があるようだ。
事実、日本以外の国では、B型とAB型の人間が総人口の1割に満たないという国もあるので、その国では、日本で流行している血液型占いのA型とO型の性格的傾向を所有する者しか居ないのだろうか?というと、やはり、そうでもないことから、多くの矛盾が生まれる。
えてして血液型性格占いは能見氏が昭和46年に発表した著作に端を発し、この由々しき弊害が今日まで通用している。
現在は、血液型と性格に科学的根拠があるという認識は置かれていない。
国際的な発表の場(自然科学の範疇にあるというのが氏の主張なので、自然科学の国際的な場)で、能見氏の名前なり論文が発表されたという歴史は皆無である。
僕の周りにもこういった血液型占いの熱心な崇拝者が多くて(むしろ信じていない連中のほうが少ない。信じていないと語弊があるので、信じていないというよりは騙されていないと云いたいところでもある)、僕はわりと衝突する。そしてそもそも僕なんて自分が何型なのかすらも知らないのだ。
どうして190国ほどある国家の中で、僅か3国でしか通用しない根拠に乏しい占いが信じるに値するのだろう?
なお、血液型別性格の行動については、ピグマリオン効果が指摘されている。
教育心理学の言葉で、教師の期待に沿う形で学習者の行動が伴うという効果だ。
つまりB型がマイペースという規範に基づこうとして行動をするB型血液型の所有者や几帳面に行動を心がけようとするA型血液型の所有者が挙げられる。
ちなみにキャバ○ラでは血液型の話でけっこう盛り上がるという指摘がある。
トークの潤滑油として活用されているようだ。夜の歓楽街では事欠くことが無い話題らしい。
こういう場で血液型の話をするのは、女の子と親和性を高める重要なファクターとして、大目にみられていると、その筋に詳しい諸氏から聞いたことがあるが、真偽のほうは定かではない。
サイードは「オリエント(東洋)」という概念が、西洋が自らの幻想を投影して理想化したり、逆に見下したりすることによって、西洋の優越を確認する為に設定された「他者」であると、指摘しましたが、それはジャンルとしての”民族音楽”も全く同じで、さらに厄介なことには、”民族音楽”の一般化が進む近年、演奏する当事者までもが「私は”民族音楽”をやってます」という誇りにも似た意識を持ち始めてしまっている。
(中略)
能天気に”民族音楽”や”ワールドミュージック”に加担するくらいなら、音楽なんてやめたいくらいです。
我々現代の日本人がこの便利な”民族音楽”という言葉を軽く使うとき、それは西洋人のオリエンタリズムの視点を借りていることに他ならず、そうしたスキゾフレニアが僕らの環境や感覚を支配している、ということは自覚しておくべきだと思います。
山川冬樹(AlayaVijana ホーメイ)
月曜の会社帰り、ふと鞄から携帯電話を取り出すと、中学校時代の同級生、麗子からの着信履歴が1件入っていたので、折り返し電話をした。
麗子も今日のことを憶えていたらしい。
「もしもし、俺だけど、久しぶりだな。どうした?」
一応、僕がそう訊ねると麗子は昔からの変わらないハスキーボイスで「今日、お線香あげにいくんでしょ」と言葉を続けた。
そう、5月15日は同級生の命日なのだ。
僕が20歳の時(もう10年以上も前の話になるのかと思うと、時々、薄ら寒くなる)、運命が翻弄する何かの加減によってこの世を去ってしまったその友人は、僕の同級生で、幼馴染で、言葉通り、無二の親友だった。
突然の友人のその死は、成人を迎えたばかりの僕らに大きな衝撃を与えた。
さすがに10年以上経ったいま、誰も憶えていないだろうと思っていたけれど、やはり幾人かの友人や同級生は忘れられないようだった。
「ああ、行くよ。おばちゃんにはよろしく伝えとくよ」
麗子にそう言うと、僕が駅へ向かうまでの暫くの間、僕らは電話を切らず、しばし、昔を懐かしんで話した。
僕らはまだ中学生で、やたらと長い名前の甘いカクテルをがぶ飲みしては酔っ払い、学校裏の公園で倒れて朝まで騒いでいた。いつだったか、僕らがよく呑んだそのカクテルの名前を思い出そうとしたけれど、どうしてか思い出すことが出来なかった。
誰かが吸っていたア*パンが零れて麗子のウォークマンを壊してしまって、叱られたこともつい最近の出来事のように思える。
僕は過去に自分を委ねて生きるタイプではないけれど、こんな風に昔の事柄が鮮明にありありと思い出されると、自分が〝いま〟に生きていることに深く感謝すると同時に、過ぎ去った人々のことを想うこともある。
それはとても一言では表しきれないような複雑な心境だ。
麗子は同じ同級生のヒサシと結婚して子供も生まれた。いつか祭りで会った直美はすっかり大人っぽくなっていて会社の同僚と結婚すると言っていた。
ヒロは転勤した中国からまだ帰ってこれない。沼先輩は麻布十番の祭りとかでテキ屋をやっていて、僕らが焼きソバを買うといつも食べきれないくらいに大盛りにしてくれる。
***は、まだ出所できない。たぶん、当分、無理だろう。
もし、彼が生きていたらと、ときどき思うことがある。もし彼が生きていたら、僕らはどんなことを話すのだろうと。
僕らは何処に出掛けて、何を見るのだろう。
成長した僕らは、やっぱり腐れ縁のようにつるんでいるのだろうかと。
僕は想像と戯れる。それはとても愉快な想像だ。
でも実際は、僕が20歳だった5月15日の、冬のように寒く、シトシトと長い雨が降る朝に受け取った電話からいまだに逃れられないでいる。
寝ぼけ眼で受け取った1本の電話が僕をまだ離そうとしないでいる。
僕の耳元には、その朝に起きた悲しい事件のニュースが宿命的な痣のように、いまもくっついている。
2000年11月2日、アメリカのインターネット掲示板に、2036年からやってきたというタイムトラベラーが現れた。
ネット上は大騒ぎになり、たちまち疑問や質問が掲示板に殺到し、熱心な討論が始まった。
4ヵ月後に彼は「予定の任務を完了した」と言葉を残し、消息を絶った。
タイターが残した近未来予言の幾つかは実現している。
・イラクが核兵器を隠しているという理由で第2次湾岸戦争が起きる。
・アメリカ国内にも狂牛病が発生する。
・中国人が宇宙に進出する。
・新しいローマ法王が誕生する。
わりとこういうの大好き。
タイ料理の麺類は何種類かあって、大雑把に大別すると、センミーと呼ばれる細い米の麺か、バミーと呼ばれる卵麺に区別される。
センミーは透明でまっすぐな白い麺で、バミーは中太の縮れた黄色い麺だ。
どちらもタイ料理では一般的らしく、タイの何処に行っても、まずはこの麺を食べることができる。
バミーの汁そばは、日本のラーメンのようだから気軽に食べれて、それこそ10B(40円程度)より屋台で売られているから、少し小腹が減ったら、屋台の椅子に座りさえすれば、それなりに美味しい麺にありつける。
しかしここはタイ、いくら日本のラーメンに似ているからって、音を立てて食べてはいけない。
啜って音を立てて食べてよろしいのは日本だけということになる。
*
*
チェンマイでは、このバミーを使ったカレーラーメンが有名で、この汁そばはカオ・ソーイと呼ばれている。
茹であがったバミーの上に揚げバミーを載せるという二段仕掛けで、モチモチした麺の食感とパリっと揚がった麺の食感の両方が愉しめる。
スープはココナッツミルクをたっぷり使ったカレー汁。
タイでも暑すぎると暑気払いの効果を狙って、この汁そばを食べるらしく、結構賑わっているようだった。
僕ら旅行者も同様で、ムシムシと湿気が肌にまとわりつく、ねっとりとしたタイの夕暮れ、カオ・ソーイを一息でかきこんで汗をどっさり流すのが日課でもあった。
*
*
土曜日は残念ながらに終日ずーっと雨に見舞われた先週末のタイフェス2006、日曜日はかろうじて曇り時々晴れの天気予報だったので、代々木公園に向かった。
シンハビア数杯でしたたかに打ちのめされた我々はヘラヘラと道往く人を眺めて、ドラゴンフルーツを食べ、タイカレーを食べつつ、とりとめのない馬鹿話に花を咲かせ、すっかりカオ・ソーイの存在を忘れていたようだ。
また来年にでも・・・。
今日は AlayaVijana の3rdアルバム発売を記念して、新宿のタワーレコードでインストアライブが開催される。
山川冬樹の発する倍音が言霊となって、新宿の摩天楼に天高く響き渡ることだろう。
シタールやタブラ、カリンバと、多種多彩な楽器を操る民俗系打楽器プログレ的ロックなバンドは、いつだってリズムが身体中を駆け巡り、本気で気持ちいい。
焚き火を囲んで踊り明かす古来の民のような熱烈な覚醒を呼び起こす。
業(カルマ)とは何か。
AlayaVijana の業(カルマ)はどこへ向かおうとしているのか?
1981年の今日、ボブマーリーは故郷ジャマイカを離れたマイアミで亡くなった。
享年36歳。
R.I.P.Bob
きっと、僕らは今日一日、あなたのアルバムを流すでしょう。
たとえ、豚の屁を浴びたような朝が訪れようとも、忘れやしない。
心の底から愛している。
Won't you help to sing, these songs of freedom
Cause all I ever had redemption songs
All I ever had redemption songs
These songs of freedom songs of freedom
Yeeeesss!!! この自由の詩をともに歌おう。
・東海林さだお「キャベツの丸かじり」
多くの海外に住む、あるいは長期旅行中の日本人が一番読んではいけない本は、ロシア語通訳者として名高い米原万里氏が言うように、東海林さだおの「丸かじり」シリーズに他ならないだろう。
緻密すぎる日本食の描写、文章の一段落(いや、下手したら一文字)ごとに胃袋に伝わる徹底的な美味表現。
日本食を食べていない時期にうっかり読んでしまうと思わず「ウギャア」と叫ぶ羽目になる。
もしくは熾烈な焼けるくらいのホームシックに丸々1日は付き合わされることになるはずだ。
そして僕は00年1月にバリのウブドゥにある古本屋で、まさに〝うっかりと〟この本を手にしてしまって、亜熱帯植物が庭いっぱいに溢れるテラスで言葉通り「ウギャア」と叫ぶこととなった。
丸かじりシリーズ第二弾「キャベツの丸かじり」。
お正月のおせち料理に飽きた時に食べる油滴の浮いた醤油ラーメンの旨さ、懐かしいのり弁の美味しさ(海苔が浸み込んでシンナリするぐらいが食べごろなんてまで書いてある)、アツアツごはんに一番合うおかずといえば生卵ご飯(タラコもいいだなんてまで書いてある)、カツ丼の魅力、学校が終わって帰宅してランドセルを背負ったまま、お玉で漉くって飲む冷たいキャベツの味噌汁の美味しさが文庫本に痛快に書いてある。
たしかにバリ島のインドネシア料理も美味しい。目玉焼きの乗ったインドネシア焼き飯ナシゴレン、串焼きのサテ、えびせんのディップは毎日食べられるシロモノだ。
でもね、一度でも油滴の浮いた醤油スープに縁取られたチャーシュと縮れた麺、アツアツご飯に生卵と想像してしまったら、お腹がグウグウと鳴り、目の前に並ぶパンやインディカ米のピラフが憎たらしくなってしまうのだ。
俺がいま食べたいのは、ラーメンと生卵ご飯とタラコなんだ!と、誰に向かってか、叶えられもしない夢を叫ぶのが事の顛末。
どれだけ国際化が進もうとしても食事に関してはダブルスタンダードは導入できないな。
もちろん全然拘らない人もいて、そういう人は何食べてもやっていけるわけだから羨ましくてしょうがない。
でもやっぱ僕はね・・・。
西新宿の海賊版レコード屋が立ち並ぶ入り口近くにある「昌平」は20年以上続いている中華屋だ。
昔ながらのデコラ調の店内の面影はなくなってしまったものの、平日の20時くらいであれば、いまだに並ぶ列が絶えない日もあるというから、やはり、それなりに人気があるのだろう。
元々、中華屋なだけに、どの食べ物を食べてもそこそこ美味しいし、定評もある。そして同時に「昌平」はつけ麺で有名だったりもするのだ。
写真はつけ麺(580円)
香ばしい小麦の香りがして、太めに縮れている喉越し豊かな自家製麺の歯ごたえが、小気味よく口に拡がる。
カツオ・魚介系の濃厚スープはこの土地にしては珍しい。
麺に絡めるとふわっと魚のダシが間髪入れずに鼻腔をくすぐる。
シンプルだけれども飽きがない「昌平」のつけ麺がいつまでも人気なのは、きっと、麺の絶妙なバランスと丁寧なスープが人々を惹きつけるからだ。
新宿で呑んだ後に無性に啜りたくなる一杯、である。
昌平
都新宿区西新宿7-12-4
月~金11:00~0:00(L.O.23:20)
土祝11:00~23:30(L.O.22:50)
日曜定休
JR/新宿駅・西口より徒歩5分
西武新宿線/西武新宿駅より徒歩5分
つけ麺 --\580
ラーメン --\550
餃子 --\300
鶏唐揚 --\450
日本語には日本語のリズムがあり、邦楽には邦楽のリズムがある。
それはアフリカや西欧のリズム・シンタックスでは律することができない。
まだ分析して突きとめることができないことと、「存在しない」ことを混同してはならない。
杉山康彦『ことばの芸術』
「私の趣味は、あなたです。」
スキンヘッドになって帰ってくる旦那さんを見て笑い転がる永作博美が出ている月桂冠のCM、いいよね。
なんというか、他愛もない淡々とした日曜日の幸せを描いていて。
高野文子の漫画に通じる小さな喜びが映し出されている。
胸がキュンとなるなぁ。二人きりの静かな晩酌風景が本当に仲睦まじくて微笑ましい。
CM中に流れている安藤裕子の歌う「のうぜんかつら」も心を揺さぶるいい歌。
いいなぁ、ほんとに、これ。
─月桂冠─