2006年05月29日

カウンターでの思想

日本語の成り立ちの中で、元々は男女のどちらかに限定されて用いられていた言葉なのに、変遷を重ねるうちに、その言葉の持つ意味性が片方の性ではなく、男女両方の性で浸透し、広まっている言葉がある。

フェミニストの指摘を待つまでもなく、こういった言葉の事例は男性を表現する言葉よりは女性を表現する言葉の数のほうが多く、女性の社会進出の功績の影響もある。

パターンとしては、女子○○と別途表現されるものは、本来は男性社会のみで使用されていた言葉である可能性が高い。

女子大、女子アナ、女流作家、女子プロレス、女子サッカーなど、職業的言葉やスポーツの言葉の多くで見受けられる。女性ではなく、男性も当然あり、例えば帰国子女という言葉の意味性には男女それぞれの性(社会的文化的性差=ジェンダー)が含まれる。

こういった社会的文化的性差であるジェンダー問題は、ジェンダーフリーに向けて動き出す社会運動にもなっている。

ジェンダーフリーは大雑把に言うと「性差にとらわれないで個人の資質を尊重する」みたいな考えで、海外ではジェンダーイコーリティと謂われている。

アメリカは歴史がなくて、極端な思考回路を持ち合わせた野蛮な国というのが、僕の偏見で、押し付けがましい単純な連中という印象が個人的に強い。

この大国だと、性差の問題も実に過激で過敏で、名前に・・・マンと附くのは性差に繋がるから改名したという例もある。

名前だけではなく、キーマンがキーパーソン、チェアマンがチェアパーソンと次々と〝マン〟表現が〝パーソン〟表現に差し替えられている。

スーパーマンが性差別に結びつくからスーパーパーソンに表現を変えよう!なんていう運動となると、もはやギャグなのか、本気なのか分からないところがアメリカのナイスな部分だ。

日本への影響はもちろんあり、サラリーマンをサラリーパーソンに変えようという動きが日本でもあった。

男女という表現もアウトだから、女男と表現する方法も用いられているらしい。

これらの差し替え表現(日本語版)をそれほど身の回りで見ないので、きっとジェンダーに厳しい人たちはサラリーマンという語を見るたびに精神的ストレスが蓄積されたりしているんだろうと考えてしまう。

さて、どうしてこんな事をつらつらと考えたかというと、先日、都内の某所で呑んだバーのバーテンダーが女性だったからである。

僕はジェンダーについては大した思想もなく、積極的でも非積極的でもなく、中立というか、なしくずしな姿勢という、ややタチの悪い位置に収まっている。

キーマンでもキーパーソンでもどっちだっていいし、どちらかの表現のせいで、居心地が悪い人たちが生まれてしまうのだったら、修正する価値があるとは思う。

でも言葉の浸透性は、語感というのも重要なファクタであると思うので、サラリーパーソンよりサラリーマンのほうが慣れ親しんでいるし、女男(にょだん)より男女(だんじょ)という言い回しがしっくりくる。

その表現を使用にあたって、僕の中では差別を含んでいない。でもそんな貴方の態度がなし崩し的に差別を助長するのよ!と言われてしまったら身も蓋もない。僕にはそういうフェミニズムに対抗する〝何か〟を持ち合わせていない。

話を元に戻すと、それを考えたのは、僕がそのバーで2杯目を呑んだ後の出来事だ。次の一杯を何にしようかと迷っていて、結局、ラフロイグのストレートにしようと決めたその時、僕は、その女性バーテンダーに何て声を掛けていいのか分からなかった。

はたしてマスターと呼んでいいのだろうか。僕がその仄暗いバーのカウンターで感じた疑問はそれだった。

少なくとも僕の中ではマスターという言葉は女性に対して向ける言葉ではない気がした。

それはどちらかというと「親方。セメント袋はこっちでいいっすか」と、失礼を承知に女性へ声を掛けるような危険性がまとわりついた。

でも、ママというのは陳腐すぎるし、だいたいここはスナックではなくてバーなんだ。

じゃあなんて言えばいい?

バーテンダーはバーマンと呼ばれる。バーマンはバーパーソンになるのかな。

女性バーテンダーがグラスを磨いたり、カクテルをシェイクしている最中、そんな風に次のお酒が呑めず、ピスタチオの殻を指で玩びながら夜が更けるのであった。

blank_space
投稿者 ko : 2006年05月29日 19:19 | トラックバック(0)
コメント
blank_space
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?






blank_space
Trackback
blank_space
Powered by
blank_space