2009年11月03日

竹橋「ボルツ」

20年前ぐらいに一世を風靡した元祖激辛カレーの火付け役ボルツを皆さんは覚えているだろうか。バブルの頃にはよく見かけたあの店である。

全盛期にはそれこそ60店舗はくだらないと言われたボルツも諸行無常の響きありと、今残っているのは僅か3店舗ばかりである。

そのうち正当的なボルツの味を継承しているのはたった1店舗で、東西線竹橋駅から5分のところにある。

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写真はチキンカレー(750円)

カレー自体の辛さは、普通から20倍まで設定が可能で、7倍を頼むとインド人もびっくりと謳ってある。ただ実際にはこれはやはり往年の辛さ設定というか、激辛ブームを超えたいまの時代では、ややマイルドだ。カレーはさらさらとしたカレーでスパイスがふんだんである。テーブルの上に数種類の薬味があるので、ガツガツと乗せて味を調整するのがよろしい。

ボルツは、古きよきバブルの時代の激辛ってこういう味なんだなぁと、カレーの聖地巡礼をしつつ、昔を思い出しながら食べるのがこの時代に合った食べ方ってものだろう。

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カレーハウス ボルツ 神田店
千代田区神田錦町3-1
11:30~20:30
無休(日祝不定休)

ビーフとトマト(マイルド) --\900
チキン --\750
チキンとトマト --\800
エビとトマト --\800
ビーフ --\850
アサリとトマト --\750
フルーツヨーグルト --\400

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2009年11月01日

たそがれの銀座

先日、とある秋の休日に代々木公園にて開催された、東西から集まった異色のメンバー達が、まるで寄せ鍋のように持ち寄った食材やらお酒を囲むというピクニックにご招待いただいた。

ブルーシートやら茣蓙を敷いて日没までドンチャンと呑もうじゃないかという会である。

知り合いから知り合いへ輪を広げるようにホスト役が随所に仕掛けを施しているらしく、まずは席次に着くと、ハート型のシールを渡されて、そこに名前(HNも可)と何をしている人なのかを書くシステムになっていた。ふと周りを見渡すと、女優だとか銅版画家だとかカメラマンだとか、なにやら面白そうな人物がいっぱいいる。

そこで僕もせっかくだから会社員なんて書かずに、「○○の中の人」と○のところに社名をぶち込んでおいた。そんなこんなで初めてのBUMPをしたりして笑いつつ交流を深めていると、やっぱりホストした子の魅力だろうか、集まっている連中がとにかく幅広い。高橋名人の本を編集したりファミ通に連載を抱えている方、エロ声優している女子、料理研究家であり女優である子、インディーズ映画(だったけな)のプロモーターやら、そんな皆様と作ってきたきんぴらごぼうをムシャムシャ食べてたら、あっという間に夕方になった。

愉しいときは時間が経過するのもあっという間なのである。

そこで更にユニコーンのてっしーのプロデュースでデビューしたロック姉さんと立ち話をしていたら、なんとなしに自分もロスプリモスの仕事をしていたんだよという話になった。それで、その夜、世界一周をしたパーティ夫妻が日本に戻ってきて個展を開いたので顔を出し自宅に戻り、いつもどおりにTwitterしていると、思わずタイムラインのスクロールが止まってしまった。ロスプリモスのボーカルの森さんがご逝去されたというのである。つい数時間前に話していた話題のシンクロはいったいなんだったんだ?ロスプリの話なんて数年以上したことがないのに。暫く呆然として動けなかった。でもそれじゃ何も始まらない。気を取り直してすぐに久しぶりの番号に回した。

当時の仕事の先輩に。そして大学時代の仕事仲間に電話した。

告別式の当日、十数年ぶりに待ち合わせたみんなはそれぞれ一様に大人になっていて、時が経ったことを実感した。我々は当時、森さんのことを看板と呼んでいて、仕事上では看板は近寄りがたい存在だった。しっかりと手を合わせ、残されたメンバーの皆様にご挨拶もした。

そしてふと思った。そういえば、この仕事のつながりでいつだったか、背広を着たっけなと。そう、それは皮肉なことに僕がこの仕事で背広を着たのはこともあろうか、看板の結婚式の日だったのである。

僕は背広をいままでに一着しか購入したことがないので、十数年前のとある日、祝いの席でこの背広を着たのだ。白いワイシャツに白いネクタイで。そしてこうも思った。結婚式と葬式はそれが生と死の相反する出来事だとしても、我々は一方で白ネクタイを結び、人生の門出を祝い、一方で黒ネクタイを結び故人を偲ぶ。なんだかそれは僕らにとって非常に近しい出来事で、結局我々は彼らの(あるいは彼の、彼女の)旅立ちに立ち会ったに過ぎないのではないだろうか。

僕らは常におくりびとで、様式的に─ネクタイの色を変えるだけで─時に笑い、時には悲しむ。僕らは彼らの旅立ちを助けたり支えたりする存在なのだ。

いつだったかタイのホワヒンでタイの葬式に参列した。その亜熱帯の夜の葬式は日本のそれとはまるで違う、祭りのような場所であった。音楽が鳴り響き、椰子の木のしたでアイスやらが配られたりした。

まるで葬式そのものが祝杯的な装置かと見間違うほどに。在タイの友人に尋ねると、来世観があるタイでは、葬式はもう一つの人生の門出だそうだ。だから決して悲しいばかりではない。現世に残された人々はできるだけその旅立ちを祝うのだという。

そんな幻想的な儀式の夜、満天の星がこぼれそうな南国の浜辺で、幾千光年も離れたところから輝く星空を眺めながら、僕らは人は死んだら何処に行くのだろうと語り合ったりした。

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