2007年10月25日

黄色い涙

・永島慎二 「黄色い涙」

2005年に逝去された永島慎二の「若者たち」がNHK銀河テレビ小説でドラマ化されたのは30年前の話。時代は移り変わり、ジャニーズの嵐という若者が映画版で演じることになったのが2007年。そのオリジナルの漫画である。

中央線阿佐ヶ谷駅近くのボロアパートで肩を寄せ合うように日々を過ごす若者達。昭和40年代のアンニュイな空気。

自分の夢を追いつつも現実とのギャップは広がる一方で焦燥ばかりが募る。それでも画家や小説家、漫画家や詩人など、夢を目指す友と笑いあい、ときには喧嘩をして互いを励ます。お金は大事だけれどもっと大事な何かがあるはず。明日食べるお米がないくらい貧乏なのにガムシャラになれる毎日。

読み終えるとなんだか一つだけ歳を取ってしまった気持ちになり、昔一緒に無茶をした友人達に連絡を取りたくなる気分にさせてくれる。そういえば、僕もアイツ等も同じように何かに飢えていたっけ。みんな何処に行ったんだろう?

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2007年07月30日

大阪+

・森山大道「大阪+」


二十歳少しまえのぼくの日常は大阪だった。その頃の大阪、その頃のぼくをいま思い返すと、それはほとんど絵空事として瞼に映るばかりだ。当時若いぼくにとって、心の針はひたすら東京へと指しつづけていた。そして現在、ぼくの心の針は再びぐるりと回転し、大阪の街々へと立ち戻りつつある。それは、大阪に生れたぼくの郷愁であろう。ただ、レンズの向うに映る大阪の街頭は、いまも相変らずしたたかで、いとも簡単にぼくの郷愁を裁ち切ってしまう。


1997年にヒステリックグラマーから刊行された写真集が全面再編集&増補されて月曜社から出版された。「新宿+」と同じ文庫サイズだ。

「新宿+」と同様に、分厚いボリュームなのに破格の写真集だから、かなりお手ごろに入手しやすいだろう。

この写真集を見たとき、僕が感じたのは「大阪は直球勝負の欲望の街なんだな」ということ。森山大道のコントランスが強い写真がそのように想起させるんだろうけれど、大阪の街はいまでもやんわりと嗤っていて、それでいて底知れないパワーを潜ませ人々を文字通りにケムに巻いているような気がする。

「新宿+」の写真は、ギザギザしていて街が苛立たしい顔をしている感じがした。「大阪+」で映る写真には少しばかりの愛がある。それは作者が投影させる郷愁心なのかもしれない。

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2007年04月12日

コーヒーもう一杯

・山川直人「コーヒーもう一杯」

スクリーントーンを使用しないで、<かけあみ>のタッチにこだわりを持つ作家、山川直人が描く登場人物や風景は、どこか郷愁を誘う世界である。

一話完結のオムニバス形式の漫画は<一杯の珈琲>を題材にして淡々と進む。心温まる物語もあれば、少しホロ苦い物語もある。

誰もが、一杯の珈琲に色々な思い出や気持ちを抱えているように、作品の登場人物もまた何かを抱え、そして泣いたり笑ったりしている。読み終わった後に、ネルドリップで一杯淹れたくなるような、お気に入りの珈琲屋で心ゆくまで珈琲を味わいたい気持ちにしてくれる、そんな作品だ。

決して賑やかな物語が用意されているわけではない。むしろ、静かに、都会のどこかでひっそりと繰り広げられているドラマみたいにゆっくりと展開していく。

ささやかに、けれども確かに心から満足できる漫画である。

一押しだ。ぜひ、いろんな人に読んでほしい。待望の3巻もそろそろ発売!

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2007年03月05日

生きて死ぬ私

・茂木健一郎「生きて死ぬ私」

科学者が哲学する。
その一言で表しきれるのだろうか、でもまさにその通りなのだ。

まずこの経歴が凄い。

ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。

こうやって眺めると、理系と文系両方の総本山を制したのか、と思いがちなんだけど、そういうのを超越した作者であるのが著作を読めば伺える。

最近テレビなどのメディアへの露出も増えてきたので、番組のコメンテーターなどでお目にかかる方も多いだろう。彼の言葉ひとつひとつに耳を傾けて欲しい。脳味噌がピキピキと音を立てて喜ぶこと間違いない。

本書は長らく絶版になっていた。それがようやく満を辞して再販された。文庫である。読みやすく分かりやすい文章。その文中に輝く深い洞察力。

ノーベル賞に一番近い日本人だと噂されている通りの読み応えである。

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2007年01月30日

沸騰時代の肖像

・石黒健治 「沸騰時代の肖像 PORTRAITS OF THE 60s」

僕が生まれた年よりもさらに昔、1960年代という時代があった。<あった>という実体溢れる表現は可笑しいけれど、当時を知る多くの人が─大抵にして─そうやって揃えて語るのだから、きっとそうなんだろうと思う。

その話をするとき、彼ら(彼女ら)は目を細めて懐かしみ、何かを回想している。その何かとはなんだろう?

僕は同時代性というものを時々、卑怯に感じることがある。同時代性に答えを求めるのは容易だからだ。しかし、必ずしも「強烈な隔てのない共有空間」に罪はあるのだろうか。僕はそうは思わない。

少なくとも特異な時代の渦に巻き込まれた人間の持つ表情は信じるに値する。

表紙を飾るのは若かりし頃の加賀まり子だ。

石坂浩二、加賀まりこ、津川雅彦、寺山修司、美輪明宏、吉永小百合、鈴木いづみ、石橋蓮司、カルメン・マキ、つげ義春、ピーター、緑魔子など。沸騰した時代を過ごした彼らのポートレイト写真集である。


※掲載されている写真の一部↓

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2006年12月05日

漫画家残酷物語

・永島慎二 「漫画家残酷物語」

全3巻で完本なのだが、残念なことに3巻の発売のめどが立っていないと噂されている「漫画家残酷物語」。

故・永島慎二の代表作のひとつで、発表当時、60年代の若者達の支持を受けた。実際、彼が住んでいた中央線の阿佐ヶ谷は漫画の聖地とまで称えられたという。

今回販売された「漫画家残酷物語」は、現存していないとされた生原稿によって復活した独自のタッチが生かされているホンモノ(以前から復刊していた同作は、永島氏のアシスタントが当時の漫画からトレースしたものであった)である。

つげ義春とは似て異なる独特のウェット感、これが永島作品の真髄で、やるせない若者の青春が見事に描かれている。

青年の葛藤を漫画で体現したのは、まさにこの作者が最初なのではないだろうか。

雨が降って、どこにも行くことのない午後に読むと、かなり自身の内面に滑り込むことができる漫画だ。昭和50年代初期に朝日ソノラマから発売されたものは希少価値が出ているので、お手ごろなだけに永島作品の入門編として手に取るのも良いだろう。

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2006年11月27日

新宿+

・森山大道 「新宿+」

02年に月曜社から既刊された「新宿」が、再編集・増ページでお手軽サイズで新たに刊行。

写真点数551点、トータル640頁で値段は2000円。かなりお買い得だ。

森山写真の王道である、ザラついた粒子が荒いモノクロの写真に始まる攻撃的で淫猥な新宿の路上。彼ほど、この街が内在的に抱えているパルスのような暴力性の一瞬を、ファインダー越しに残酷なまでに切り取るカメラマンは居ないであろう。はたして未来なのか過去なのか?森山の写真に対面するといつも戸惑う。

新宿は、いまだにぼくの目に、大いなる場末、したたかな悪所として映って見えている・・・と答える著者。

なぜ、世界的に有名なカメラマンをすら、いまだに新宿という街は惹きつかせやまないのか。その答えは、きっとこの本を手にすれば分かることだろうと思う。

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2006年11月17日

フーテン

・永島慎二 「フーテン」

〝新宿〟という言葉が輝いていて、〝新宿〟にさえ行けば、きっとどうにかなっていただろうという時代のお話。

フーテンと呼ばれるヒッピー達は、東口や西口に集まり、大量の睡眠薬を一度に煽り、その効能で酩酊して朝まで過ごす毎日。

サンフランシスコのヒッピーのように陽気ではなく、人生に疑問を持ちつつもダラダラと哲学的に悩む現状から抜け出せないフーテンや自分探しをする若者。

何所となく翳りがあって、ウェットな雰囲気が最高。

新宿の深夜喫茶で朝を迎えたあとに、そのまま海に出かけ、砂浜でハイミナールを齧ってトリップをしてはしゃいで海に飛び込むシーンと、焚き火を囲んでサイケデリックに踊り明かしているシーンが個人的に気に入っている。当時のサブカルを知るだけでも必読だ。

但し、漫画自体は惜しくもすでに絶版。何度か再版されているが、そのいずれも同じように重版の予定がない。楽天ショップやamazonで古書を手に入れるのが良いだろう。

著者の永島慎二は残念ながらに鬼籍に入られてしまった。合掌。

フーテン [文庫版:コミックセット]
永島慎二
講談社(文庫)

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2006年08月30日

森の生活

・H.D. ソロー 「森の生活」(上)(下)

街から離れ野性味溢れた生活を送りながら、哲学的思想を育み、米国文学史上の稀有な存在として、19世紀半ばに登場してから人々を魅了し続けているソロー。

ウォールデン湖畔に自らの手で家を立て、僅かなお金をもとに2年2ヶ月の歳月を過ごした生活を詳細に記した本だ。

元祖ナチュラリスト。自然哲学者。今でもキャンパーやアウトドア好きのバイブルとして名高い。そしてアジアやインドを旅している人の多くが持っている本がこの本だった。

畑を耕して生活をサイクルし、時折、余剰の農産物を売って換金したりする。

資本主義社会とも共生する自給自足のライフスタイル。

畑からは採れない生活品(油、燃料等、種、古着の衣服)についてもどのような方法で補完するか詳細に及んでいる。

ソローの優れた点は、決して社会から切り離された孤立的な存在ではなく、また、生活自体が文化的なマイノリティに陥ることはなく営まれている点だ。そして、彼は社会全体に在る一人の構成員として行動し、外部にきちんとリンクしている。

森の中で孤独とどのように向き合うのか、内省的に考察することで、築かれたアウトドアライフ。必読である。

ちなみに、本作品はP・オースターの「幽霊たち」に、物語を進めるにあたって重要なアイテムとして登場する。

米国文学史に名を連ねる作品を、ユーモアと軽い皮肉を織り交ぜて自分の作品に堂々と引用するあたりがオースターらしい。こちらも必読。

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2006年08月29日

両手いっぱいの言葉

・寺山修司「両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム」

昭和58年(1983年)、肝硬変と腹膜炎で敗血症となり、享年47歳の若さでこの世を去った寺山修司の名言集がこの「両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム」。

寺山自身の膨大な著作の中から選びぬかれた数々のアフォリズムだ。

言葉の錬金術師と呼ばれる氏ならではの文章は、珠玉の磨かれた言葉ばかり。

「寸鉄人を刺す」という諺の如く、言霊が心に届いて、しばし離れない。

名言集なので、最初から読まなくても気分しだいでどのページから読んだって愉しめる。

時々、無性に手を伸ばしたくある時がある。そんな同書の有名な一句。

一本の木にも流れている血がある
そこでは 血は立ったまま眠っている


これぞ寺山。渇望する独特の感覚こそが真骨頂なのだ。

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2006年08月14日

地球はグラスのふちを回る

・開高健「地球はグラスのふちを回る」

僕が持っている『地球はグラスのふちを回る』は、書籍のカバーがされていない。94年頃の名残だ。

当時、僕自身のルールで、旅に持ち歩く書籍は何故かカバーを外すというのがあった。

旅に持っていった書籍のほとんどが、旅先で交換したり、古本屋に売ってしまってお金にしているのだけれど、この本だけは、ページを綴るごとに展開される面白さに圧倒されて、手放すことがなかった。だから僕の本棚に並ぶこの本には、いまでもカバーがない。

何度も繰り返し旅先で読んでいたので、手垢で薄汚れて、よれよれになっていて、インドやネパールの染みが宿命的にこびりついているのだ。でもこれからも決して手放すことはないだろう。

題名にもある「地球はグラスのふちを回る」は、世界中で飲んだ珍酒・奇酒そして名酒を追想する出だしで始まる。

なんともお洒落な題名じゃないか。

嘘か真か、中国の五つ星ブランデー、サイゴンで飲んだとぼけた味わいの333(バー・バー・バー)、ウィーンの白ぶどう酒。お酒が飲めない人でも読み終えたらきっと一杯引っ掛けたくなる。

そして続いて、冬の越前カニの美味しさについて語るエッセイや、小笠原で食べる鰹の手ごねご飯を頬張るエッセイといったグルメ話、そして「漂えど沈まず」と表したニューヨークの旅物語。

開高健のエッセイの真骨頂とも言えるグルメとお酒と旅の話で、ユーモアに溢れた珠玉の一冊である。開高健の旅や食への飽くなき探求が手に取るように愉しめる。

ところで、開高エッセイは、得てして魚への描写が詳細に及んでいるので(ニューヨークのエッセイに登場する〝ハマグリのスープ〟や〝生牡蠣〟の文章、嗚呼)、旅先の日本食に飢えた状態で読むと非常に危険な本だ。

でもそのあたりが、決してテレビや写真には持ち得ない文章の持つ魅力で、読者自身が勝手に思い思い自分の食べたい生牡蠣やらハマグリのスープを想像できる。

日本から遠いヒマラヤの麓での生活やインドのビーチでの生活では、「日本に帰ったら、絶対、死ぬほど旨い魚を食ってやる!」と日本が恋しくなると読み返して、一人、うな垂れては昂奮していた。

*
*

さて、こちらの写真はタイのチャン島(Koh Chang)での一枚。

http://psybaba.net/blog/archives/2005/10/post_101.html

まだ未開発だった90年代初頭、島に点在するバンガローで生活していた。

打ち上げられた魚を焼いて食べたり、椰子の実を拾って、中身をジュースにして飲んでの生活。

ジョビ(犬)は灯りのあるバンガローを見つけると、其処を安眠の場所としてなついてくる。

周りにはヒッピーしかいなかった。

で、僕が手にしているのが、開高健の『地球はグラスのふちを回る』だ。

本のカバーを捨てる習慣があった当時の貴重な一枚。

時代の流れか、我が家にある書籍でカバーがない頃の書籍というと、人にあげてしまったりゲストハウスで交換したりしてしまい、とうとう村上龍と開高健だけになってしまった。

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2006年08月11日

河よりも長くゆるやかに

・吉田秋生「河よりも長くゆるやかに」

米軍基地近くの男子高校に通う男の子達の物語。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を漫画化したような世界観だ。

時代は80年代中期ぐらいで、ヒッピーが出てくるわけではないが、基地の雰囲気に囲まれた土地で生活する若者が登場。

米兵と付き合う派手な姉貴を持つ弟のトシはゲイバーのバーテンをしつつ、ドラッグを闇で売ったり、乱交パーティに女子高生を斡旋したりして稼ぎ、生活している。

金持ちだけれど親が日本で悪名高いサラ金である久保田。

トシの彼女と友達でありながら、トシに片思いの中学の同級生。

吉田漫画の真骨頂と言ってもいいだろう、やはり『河よりも長くゆるやかに』に登場するキャラクターもそれぞれが複雑な家庭環境をもって、心の何処かに傷を負っている。

生き生きと多感な時期を謳歌する何処かに翳りのある人物達。

う~ん、この感じ、たまんない。

作品中は大きな事件が起きるわけではなく、一話毎に完結しているので淡々と物語が進む。

誰にだって思い当たる日常の中のちょっとした出来事の数々。

爽やかな秋の空を思わせるような清清しさが滲み出ている。

なお、登場人物(♂)はエッチなことばっかり考えてモヤモヤしている連中がほとんど。

なんか若い頃の学校って、いいなって思う作品である。

ちなみに『BANANA FISH』ほどアレじゃないけれど、一瞬だけ阿部高和の世界があるので宜しく。
まあ、なんていうかその辺の恋愛というのは人それぞれということで。

※阿部高和
「男は度胸!何でもためしてみるのさ。きっといい気持ちだぜ!」という名言を残したマッチョ。

好きな言葉は「やらないか」。


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2006年08月03日

堕落論

・坂口安吾「堕落論」

戦前戦後の混沌期にデビュー。

睡眠薬と覚醒剤の多量摂取で神経科に入院。

最後は脳溢血で早世。その時僅か48歳。

これが坂口安吾である。

昭和21年に発表した「堕落論」は、衝撃的な今の時代も決して色あせることのない人間性を問う不朽の名作だ。

戦争に敗れた日本への警鐘か?

安吾が吼える人間の〝堕落〟

夏の太陽が照りつけるジリジリとした暑い夜にこれを読んで唸れ。

人間は変りはしない。

ただ人間へ戻ってきたのだ。

人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。

それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。

人間は生き、人間は堕ちる。

そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。

なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。

だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。

そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

(「堕落論」)


でも安吾には、きっと優しさがある。
19歳の夏に読んで以来、僕はそう信じている。

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2006年08月02日

水木しげるのニッポン幸福哀歌

・水木しげる 「水木しげるのニッポン幸福哀歌(エレジー)」

「週刊アクション」で連載されていた「日本の民話」が遂に完全収録!

昭和40年代に刊行されて以来、幻の短編集としてマニアの間でも名高いこの作品が、「水木しげるのニッポン幸福哀歌(エレジー)」として文庫で登場。

「一つ目小僧」「役の行者」「打ち出の小槌」「時の神」は、なんと初文庫化。

人間にスポットを当てて、痛烈に社会風刺をし、幸福とは一体なんだろう?というのを水木しげるが感じたままに〝緩め〟で〝シュール〟に描き、「悪魔くん」や「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズとは違った人間くさい世界を作っている。

社会風刺の物語は初期の「ゲゲゲの鬼太郎」でも随所に見られたが、この作品は昭和44年のざわついた高度経済成長期の雰囲気を取り込んでいて、いかにも昭和の懐かしい時代が映っている。

個人的に好きなのが、ネズミ男が当時流行ったフーテン(ヒッピーのような若者)としてチラリと登場するあたり。

ファンとして嬉しいシーンである。

少年漫画では描かれない、ちょっとエッチな水木漫画が見ることの出来るのも一興。

とにかくこれが、水木しげるが放つ『幸福』にまつわる物語だ。

ちなみに次長課長の河本が物真似する〝水木しげるの漫画に出てくる人間〟の模写はこの表紙にそっくり過ぎて、少々ビビる。

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2006年07月21日

不夜城

・ 馳 星周「不夜城」

騙す奴より騙される奴が悪い。

日本屈指の歓楽街・歌舞伎町、そこに潜むように存在している劉健一。台湾人と日本人のハーフ。

いまや歌舞伎町は中国マフィアが牛耳り、アジアンコネクションがものを言う世界。

半々(ばんばん=混血)となじられるも、その狭間で利権を求め、器用に蠢いていた健一のもとに友人の呉富春が現われる。それによって、健一自身の何かが狂い始めてきた。

*
*

最初に断っておくけれど、この作品は、どうしようもない連中しか出てこない。

近親相姦の関係にある呉富春とその妹。

生き残るためには血族や友人、そして恋人ですら裏切り、時には自らの手で殺めてゆく健一。

アンダーグラウンドにしか生きてゆけない、堕ち続け騙しあい嘘をつく登場人物たち。

誰かを信用することは命取り。

こんな小説に、いったい誰が共鳴できるんだろうか。

正直出てくる人物がどいつもこいつも吐き気を催す奴らばかりだ。

でも決して目が離せない。

まるで劉健一に、小説を読んでいる自分自身が裏切られたような既視感。

作者の馳星周の闇を覗くような小説だ。

読了後に歌舞伎町を歩くと、きっと今までと違う感情になるだろう。

恐らくは緊張することになる。

歌舞伎町にだけ漂う独特の空気の匂いを感じ取ることが出来るかもしれない。

暴力的で切なくて時にはエロティックな匂い。

金城武が主人公の映画「不夜城」、こちらも原作に劣らず良い出来である。ぜひ。

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2006年05月31日

皆既日食ハンターズガイド

・皆既日食ハンターズガイド STUDIO VOICE 別冊

今年の3月にトルコでパーティがあったことから記憶に新しい皆既日食。

2008年8月1日にカナダやロシア、中国、そして2009年7月22日には日本で皆既日食を見ることができる。

皆既日食といえばトラベラーが集まるレイブ。
とにかく皆既日食がある場所にレイブありといわれるぐらい密接性が高い。

その皆既日食の総てを網羅したガイド的一冊。

ボアダムスのヤマタカEYEなどがコメントを載せている。パーティの写真も見もの。

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2006年05月10日

キャベツの丸かじり

・東海林さだお「キャベツの丸かじり」

多くの海外に住む、あるいは長期旅行中の日本人が一番読んではいけない本は、ロシア語通訳者として名高い米原万里氏が言うように、東海林さだおの「丸かじり」シリーズに他ならないだろう。

緻密すぎる日本食の描写、文章の一段落(いや、下手したら一文字)ごとに胃袋に伝わる徹底的な美味表現。

日本食を食べていない時期にうっかり読んでしまうと思わず「ウギャア」と叫ぶ羽目になる。

もしくは熾烈な焼けるくらいのホームシックに丸々1日は付き合わされることになるはずだ。

そして僕は00年1月にバリのウブドゥにある古本屋で、まさに〝うっかりと〟この本を手にしてしまって、亜熱帯植物が庭いっぱいに溢れるテラスで言葉通り「ウギャア」と叫ぶこととなった。

丸かじりシリーズ第二弾「キャベツの丸かじり」。

お正月のおせち料理に飽きた時に食べる油滴の浮いた醤油ラーメンの旨さ、懐かしいのり弁の美味しさ(海苔が浸み込んでシンナリするぐらいが食べごろなんてまで書いてある)、アツアツごはんに一番合うおかずといえば生卵ご飯(タラコもいいだなんてまで書いてある)、カツ丼の魅力、学校が終わって帰宅してランドセルを背負ったまま、お玉で漉くって飲む冷たいキャベツの味噌汁の美味しさが文庫本に痛快に書いてある。

たしかにバリ島のインドネシア料理も美味しい。目玉焼きの乗ったインドネシア焼き飯ナシゴレン、串焼きのサテ、えびせんのディップは毎日食べられるシロモノだ。

でもね、一度でも油滴の浮いた醤油スープに縁取られたチャーシュと縮れた麺、アツアツご飯に生卵と想像してしまったら、お腹がグウグウと鳴り、目の前に並ぶパンやインディカ米のピラフが憎たらしくなってしまうのだ。

俺がいま食べたいのは、ラーメンと生卵ご飯とタラコなんだ!と、誰に向かってか、叶えられもしない夢を叫ぶのが事の顛末。

どれだけ国際化が進もうとしても食事に関してはダブルスタンダードは導入できないな。

もちろん全然拘らない人もいて、そういう人は何食べてもやっていけるわけだから羨ましくてしょうがない。

でもやっぱ僕はね・・・。

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2006年04月10日

新宿 1965‐97

・渡辺克巳「新宿 1965‐97」

平成18年1月29日に64歳で逝去した写真家の渡辺克巳が撮りつづけた街、新宿の歌舞伎町。

娼婦、ヤクザ、オカマ、ヌード嬢、ゲイボーイ、暴走族。行くあてもなく、新宿のネオンに停滞しつづけざるをえない、そんな歌舞伎町という街の顔を撮っているかのように思える。

新宿西口がまだ荒涼とした原っぱみたいな70年代、まるで蟲のように新宿の街に潜んでいるベルボトムを履いたフーテン。
上半身裸のアパッチ族のヒッピー。
屈託のない笑顔のヌード嬢。

森山大道の写真より冷たくなくて、荒木経惟より熱くない。

でもたしかに写真でしか捉えることの出来ない何かをフレームに収めている。
それが渡辺克巳の写真だ。

徹底的にモノクロにこだわり、新宿にこだわった男のエッセンスがここにある。

実は僕も中2の時に何度か渡辺克巳を見掛けた事がある。

新宿のゲームセンターでクラスメイトとコインゲーム荒らしをして遊んでいた頃、歌舞伎町の入り口にあるラス***スというゲーセンを過ぎたあたりでよく見かけた。

ある特殊な方法でコインゲームのコインを増やし続けていた僕らは、新宿中のゲームセンターで目をつけられるようになって、だんだんと遊ぶ場所がなくなりかけていた。

ラス***スは、ちょっと間の抜けた感じのゲーセンだったので、やがてはそこを拠点にして遊んでいたんだけど、その当時の夕暮れになるとよくコマ劇場のあたりで渡辺克巳がまるで新宿全体を吸い込むような顔ぶりで立っていたのを見掛けたものだ。

本書はすでに絶版。定価(\4300)の倍近くで取引されている。ごく稀に定価のまんまで書店に埋もれていることも。

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2006年04月04日

写真よさようなら

・森山大道 「写真よさようなら」

アレ・ブレ・ボケ・ハイコントラストなどの手法で写真を手がけた森山大道が、1972年に発表して、多くの物議を醸した写真集。

写真を徹底的に解体して再構築したこの写真集は、いまだに観る者の心を捉えて離さない。なにせ「写真よさようなら」なのだ。

森山大道の写真は、鰐や蛇の鱗の一枚一枚が写真であるような、薄気味の悪い、背筋に汗が流れる感覚のする写真ばかりだ。風邪を引いてうなされた時に感じる既視感みたいな。ページを綴るごとに自分の喉が渇いてしまっていることに気が付く。

ネガが現存していないということで、オリジナルから写真を焼き増し、しかも中平卓馬との対談も割愛されているが、古書店で見つからないばかりか超高値で取引されている一冊なので、この再発は嬉しい限りである。

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2006年02月22日

さくらの唄

・安達哲「さくらの唄」

安達哲について語るならば、安達哲ほど、青春漫画のドロドロとした陰鬱的な部分と、泣きたくもなる不変的な淡い思い出を、両サイドから描ける作家はいない。

少年マガジンで連載した「ホワイトアルバム」「キラキラ」で、若者と大人の狭間に生きる切ない高校生の群像を描いて多くの読者をつかんだ。

両作品は、画風こそ80年代後半~90年代初頭の漫画なので、今にしてみれば多少なり古臭いかもしれないけれど、その世界に描かれているのは、つまり、僕らみんなが通過したある時代のある気持ちなのだ。

誰もが抱えている淡い思い出、それがこの2作品は描かれている。

その後、安達哲は少年マガジンからヤングマガジンに活躍の場を移して、衝撃的話題作「さくらの唄」を連載した。

普通の高校生だった市ノ瀬が送ることとなる、まるで普通じゃない生活。

叔父夫婦が市ノ瀬の家に住むことから姉や担任の美人教師を巻き込んで、どんどんと深みに嵌っていく。

単行本の第3巻は大胆な性描写があることから成人指定を受けたことで話題を呼んだ。

鬱屈で不安定な10代の、突き刺さる焦燥を突き詰めている。市ノ瀬が抱えている内面的葛藤は特別なのかもしれないけれど、特別じゃないかもしれない。

僕らはそんな市ノ瀬にシンパシーを感じるだろう。

R指定を受けたことから、どうしてもエロな部分に集中されてしまうが、この作品の楽しくて恐ろしいところは、別のところにある。

残念ながら、それは読まないと分からないはずだ。

「俺(私)って、よく変わってるって言われるんだよねぇ」っていう連中はこれを読んで目を覚まそう。

普通じゃないというのは、これだけ現実と乖離して、孤独で、本人が求める求めないに関わらず引き寄せてしまい、カルマのように付き合わなくてはいけないのだということを知るのにちょうどいい。

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2006年01月18日

コンセント

・田口ランディ「コンセント」

「コンセント」

まず初めに思ったのが、この作者は果たして男性なのだろうか、それとも女性なのだろうかという疑問だった。

もちろん、ランディという名前が性別を想起させなかったというのもあるけれど、それ以上に彼女のテクストからは、そういった性差を超えた世界観が築き上げられていた。

「コンセント」は引きこもりの兄が自室で衰弱死したことをきっかけに、妹である主人公ユキが〝死〟というひとつの絶対的な行為を抱えて、さまざまな社会的に破綻した人々と巡りあい、なぜ兄は生きるのをやめたのか、彼の死を探し、やがて意識の革命を体験するといった若干の精神論的な物語が含まれた純文学だ。

主人公が女性であるにも関わらず、その主人公から直截的に作者像を投影しない作品は珍しい。

女流というジェンダー的な表現を用いると、彼女は女流作家から程遠い位置にいる。

いや、これは至極個人的な話で話題も飛ぶが、僕は、中村うさぎや室井佑月に代表される作家があまり好きではないようだ。

彼女達の、男なんて要らないわ、でも男が好きなの、男に依存しちゃうというパターンに毎回辟易としてしまう。

単刀直入に表現すれば、彼女達は作品中に男性に対するエクスキューズが無い限り物語が描けないからだ。

彼女達の小説は所詮〝旦那、彼氏とではなくてたまには女の子同士で集まったのよ〟という喫茶店だか居酒屋のよもや話に過ぎない(ああ、こんなことを書くと、僕はまた貴重な女の子の友達を失うのだろう)。

山田詠美にしても残念ながらそうだ。彼女の小説のキーワードは〝黒人〟あるいは〝シスター〟であることは周知の事実で、主人公達の多くは、『私はシスターである』と自負している。

でも、果たしてそうなのだろうか?

ある一人の男性を理解することが、延長として彼の人種的特徴の理解に結びつくのは安易なプロットである気がする。

僕が彼女のテクスト(黒人に絡む一連のテクスト)から感じるのは、彼女はシスターであるのではなく、シスターになりたがっているだけだという裏返しの感情だからなのかもしれない。

それは非常に哀しい。黒人の歌い方を真似てヒットしているJ-POPの歌手と同じくらいに哀しい。

自分のことをブラザーだと信じているアジアのストリートの若者達と同じくらいに。

もちろん彼女の小説は素晴らしく、切ない気持ちになる作品が多いし、「ぼくは勉強ができない」という作品は珠玉の作品だ。それでも、黒人のテーマとなると色褪せてしまうのは、彼女が永遠にシスターになれないと予感させるからなのかもしれない。

しかし、そのような男性に対するエクスキューズを用いなく物語を構築する作家が台頭してきた。田口ランディの小説はモチーフとしての男性に依存していない。

これは新しいことだ。

さて、話は戻り、「コンセント」だが、発売当初から、質の高い文章力ということで話題になった作品であり、僕も友人よりその噂を耳にして、すぐに手にした。そして、ズイズイと田口ランディの紡ぎだす小説の世界に引きずり込まれて、一気に読んでしまった。

あとがきですら気が許せなくてハラハラした小説は本当に久しぶりだった。

あとがきにヤコペッティを持ってくるなんてどうかしているって思わないかい?

他人との共鳴、救済、孤独の中にあるシンパシー。深層心理学からシャーマンまで。

何度でも読み返すことのできる作品だ。

盗作疑惑から初版と重版で内容が差し変わっているので注意。

僕としては、初版の薄雹を包むような壊れそうな新鮮さを味わって欲しいと願う。

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2006年01月12日

きけわだつみのこえ

・ わだつみ会「きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記」

きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記

1993年、僕は代々木にある予備校に通う受験生で、18歳と19歳のはざまを往く若者だった。

英文法を教える里中先生は、授業の最後に必ず本の紹介をしてくれて、僕はそこで、生涯、忘れることのない、その当時ではないと読み通すことのできなかったであろう何冊かの本に出遭った。

坂口安吾の「堕落論」、開高健の「輝ける闇」、そして、「きけわだつみのこえ」だ。

「きけわだつみのこえ」は、第二次世界大戦の渦中に、政府が苦渋の策で発表した学徒出陣より突撃隊として散った学生達の手記である。

その本に出遭うまでに、僕は、彼ら多くの学生が当時の愚かな盲目のファシズムに乗せられ、何の疑いもなくたやすくも洗脳されて天皇の為に散っていったものだと信じていた。

しかし実際の彼らは、その戦争に懐疑的で自由主義(民主主義)が社会に必要であると感じていて、家族や愛する人の為に死んだ。

その事実に触れた衝撃は、当時の僕にとって少なくとも大変なショックであった。

同じような年代にも関わらず、歴史の誤りが原因で死んでいった彼らに対して、時代を超えた何かを僕は感じ取った。

その日を境に、僕は桜の咲く頃靖国で再会しようと約束した若者が祀られている九段下の靖国神社参拝を支持するようになる。

彼らは若者で、純粋で、それでいて家族や恋人を想い、時代と共に消えていった。

今読み返しても切ない。新成人もこれを読むがいい。

手記に遺されたある学生の手紙と、序文にある「詩人の光栄」を紹介したいと思う。


母へ最後の手紙  林市造 京大経済学部学生
昭和20年4月12日特別攻撃隊員として沖縄にて戦死。23歳

お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときが来ました。
親思う心にまさる親心今日のおとずれなんときくらん、この歌がしみじみと思われます。
ほんとに私は幸福だったです。わがままばかりとおしましたね。
けれども、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。
私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、と言うことは、立派に死んだと喜んでください、と言うことは、 とてもできません。けどあまりこんなことは言いますまい。
母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから。


ジャン・タルジュー詩集「詩人の光栄」より (渡邊一夫訳)

死んだ人々は、還ってこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいゝ?
 
死んだ人々には、慨く術もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいゝ?
 
死んだ人々は、もはや黙っては居られぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?

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2005年12月26日

S60チルドレン

・川畑聡一郎「S60チルドレン」(1)(2)(3)(4)

「S60チルドレン」(1)(2)(3)(4)

昭和6x年、僕は小学校6年生で、みんなと同じくらい昭和があと数年先に終焉を告げるなんて心の何処にも思っていなくて、ビックリマンチョコのシールは集めるけれども、チョコの部分は食べなくて叱られて、ドラクエ2の復活の呪文を間違えて、画面の前でうな垂れたり、駄菓子屋でうまい棒食べたり、ガチャガチャで一喜一憂し、50円のカップラーメンを啜ったりしていた。

教室では、男子と女子と明確に分かれていたけれど、ほんのちょっとだけ(たぶん)お互いに異性を気にしていた。

女子は休み時間になると、教室の端っこで交換日記をキャッキャと笑いながら陽だまりの中で交換したり、校庭でゴム跳びしたりして遊び、男子は6年1組と3組とかで分かれて、サッカーの試合をしたり、時には男子と女子が混ざってケイドロ(or、ドロケイ)をした。

そして、道徳の時間は、教育テレビの「みんななかよし」という番組を観ることになっていて、テレビを点けている間は教室のカーテンが閉められた。

窓側のクラスメイトがテレビを観る際のカーテンを閉める係で、カーテンを閉めるだけで、教室が違った感じに映る独特の雰囲気が好きだった。

「♪口笛吹いて、空き地へ行った。知らない子がやって来て、遊ばないかと笑って言った♪」

その唄の流れる時間に、クラスの片思いの女の子が、カーテンの隙間から校庭を眺める、時折見せる大人びた横顔は僕をどうしようもなく複雑な気持ちにして、それでいて、小学生ながらも、僕らはやがて大人になるのかなとぼんやりと想ったりもした。

この作品は残酷だけれども読者を選ぶ。僕はそういう風に信じている。

すべての昭和60年代に小学生時代を送った人たちに。

今年31歳で逝去した川畑聡一郎氏に。

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2005年12月07日

三好さんとこの日曜日

・三好銀 「三好さんとこの日曜日」

「三好さんとこの日曜日」

90年代初頭にスピリッツに掲載されていた三好銀の初の単行本。

梅という名の猫を飼う夫婦の、何処かにありそうなやさしい淡々とした日曜日の様子を描いた名作。

寡作で有名なこの著者の描く漫画は、シンとした不思議なノスタルジック漂う静謐な心地よさがある。

夜、寝静まった時刻に遠くから聞こえる汽笛の音に耳を澄ますときの気持ち。

作者の住んでいたエリアが西荻窪-吉祥寺あたりだったので、中央線的な生活(そんなのがあるようで、ないようで、やっぱりある)が、懐かしいデジャブのように書き出されていて、読み終えると温かい気持ちになる。

誰かに何かを伝えたいような、誰かとなんとなくお散歩したいような素晴らしい名作だ。

登場の梅ちゃんがかわいすぎるので、猫好きにお奨め。一作品がだいたい2ページ程度。

たとえ明日が月曜日でもこんな日曜日が好きだなという台詞が本作品にあるけれど、まさにその通り。

こんな日曜日があったらいいな。

淡々として、それでいてささやかな日々の生活であり、小さな幸せであるような日曜日。

すでに絶版であるのが悲しい。スピリッツ掲載分で、単行本未収録の作品が幾つかあるはず。部数は伸びなかったかもしれないけれど、珠玉の名作はあるのだから。再販と未収録作品の単行本化を強く望む。

amazon

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2005年11月02日

森の兄妹 底のない町

・楳図かずお 完全復刻版「森の兄妹」「底のない町」

「森の兄妹」「底のない町」

今年50周年を迎える氏の記念すべきデビュー作品の2作。

描いたのは14歳のときだという。

小学館クリエイティブからの完全復刻で、マンガマニアでも、オリジナルはなかなか見つけられなかったという貴重本。

それがamazonで3780円。

これは絶対お買い得。

楳図かずおといえば『ぐわし!』というぐらいギャグマンガの金字塔「まことちゃん」を描いた作者ではあるが、それと同時に「へび女」とか「恐怖」とかのホラー作品、それに「神の左手悪魔の右手」とかの(ホラーじゃないけど・・・。なんだろ、これは)作品と幅広く良質の漫画を描きつづけているパワーのある漫画家だ。

ちなみに「へび女」「恐怖」シリーズでトラウマを植え付けられた諸氏も多いだろう。

僕はまさにそのタイプで、小学生低学年のころ、夕方になったあたりから、漫画の世界と現実が区別がつかないといったら大袈裟だけど、とにかく本当に怖くてガタガタ震えたりしていた。読まなきゃいいのに、読まずにはいられない、そんな吸引力を持ち合わせている作品だった。

で、いまの作風や作品の傾向が14歳にして完成していた事実が伺えるブツがコレ。

楳図ファンではなくても手元に置いといて損はない。

ところで、氏はしょっちゅう吉祥寺の丸井の前の信号(←いせやに続くあたり)をウロついている。僕が9年程前、『ぐわし!』って言ったらちゃんと『ぐわし!』と返してくれた。

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2005年10月25日

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

・フィリップ・k・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 」

フィリップ・k・ディックが一気にメディアに注目されるようになったキッカケの作品がこの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 」。

原題は「Do androids dream of electric sheep?」、ハリソン・フォードの演技でも有名になった映画「ブレードランナー」の原作でもある。

フィリップ・k・ディックの作品の中でも、とりわけ難解さが低いせいかメジャー感もあり、それだけで代表作として位置づけられてはいる。この点については賛意両論がいまもなお続いているけれど。

さて、フィリップ・k・ディックの作品というのは、村上春樹がどこかのエッセイに載せていたように、神経がある種のくたびれ方をしている時に読むと浸透するとかってあったけれど、実際にその通りだろう。

良くも悪くもフィリップ・k・ディックを読みたい時期というのがあるのは否めない事実で、これは肝心なことだけれども、そういう時に読む〝フィリップ・k・ディック〟というのは、なにものにも変えられないものだ。

ある種の波長と波長が引き合うように、そうやって僕らはまるで砂糖水に吸い寄せられる蜜蜂みたいに、あるいは闇の中で照らされるランタンの灯りに飛び込む夜行性の蛾の如く彼の残していった作品を貪ることとなる。

彼自身は「ブレードランナー」の公開年である1982年に53歳という若さで亡くなってしまった。だから僕らが読んでいるのは総て彼が残した遺作だ。


さて、本編は、第三次世界大戦後の放射能に汚染されて、廃墟と化した地球の物語。

多くの人間は火星に移住して、火星でアンドロイドを従えて余儀のない人生を送っている。

地球に残った人間は、いまだに地球を離れることに抵抗のある者か〝マル特〟と呼ばれる火星移住の基準に満たない者たち。

放射能の影響で数多くの動物が絶滅した今となっては、人々の憧れは、「どれだけ大きな動物を飼うことか」というもの。もちろん馬や羊という希少動物はそれだけ値が張る。

ホンモノの飼えない者たちは仕方無しに模造品である精巧なロボットを、〝まるでホンモノのように〟飼うことにしている、そんな時代。

やがて地球では、火星から新型のアンドロイドが人間を殺したのちに逃亡して地球に忍び込んでいるという情報が入る。

賞金かせぎ(バウンティハンター)であるリック・デッカードはそのアンドロイドの行方を追う。電池が壊れて一晩中メェメェと鳴き続けることのない本物の動物を飼う為に。

逃亡した8人のアンドロイドを追うリックであったが一足先にアンドロイド達はイシドアというマル特と接触していた。

マル特とはいえ、イシドアとアンドロイドの間に横たわる徹底的な差とは・・・。

*
*

ところで、個人的な話で、かつ、ついつい昔話になるのだけれど、僕がこの作品を手にしたのは、10年以上前のアジアの空にあるネパールの古本屋でのことで、ポカラのレイクサイドにその店はあった。

レンタサイクル屋の少し先で、モモ(チベタンやネパリが食べる餃子)レストランの手前にあったと記憶している。

僕はインドでの遊び方が少々派手であったらしく、まともに歩くことが難しい日があったほどの、歯止めの効かない状態だったので、まさにフィリップ・k・ディックの作品に没入する環境がばっちし整のっていた。

しかも日本語媒体の情報量が圧倒的に少ない地域に長いこと居ただけに、文中の1行1行が肌に染み込むように浸透していった。だから今もなおこの作品を読むとヒマラヤ山脈と澄み切った蒼い空の情景が目に浮かぶ。

ボロボロの背表紙の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は黴臭くて所々にシミまで附いていた。でも僕は何処に行くにもチベタンの手作りのズタ袋にこの本を入れて、ヒマさえあれば読んでいた。

何故だかは分からないけれど。

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2005年08月26日

黄色い本

・高野文子 「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」(アフタヌーンKCデラックス)

「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」

この本自体は漫画だけれども「読書」の楽しみと図書館の大切さを教えてくれる作品を「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」と宮本輝の「星々の悲しみ」以外に僕は知らない。

「星々の悲しみ」は受験生の持つ束縛に対する歯痒さと〝生きる〟意味と読書の素晴らしさを教えてくれた。

この「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」もまた「読書」がどれだけ素晴らしいことかを、僕らに教えてくれる。

漫画だからって読まない人は絶対損をする筈だ、請け負ってもいい。

物語の中心にいるのは、ロジェ・マルタン・デュ・ガール原作、山内義雄訳の若干と時代錯誤の本「チボー家の人々」に夢中になる高校3年生の美地子。

舞台が新潟の雪山なので作品中のセリフもすべて新潟弁で語れている。

裁縫が上手な彼女は家のミシンの手伝いもこなし、卒業後の行く末はメリヤス工場という評判のよいメーカーに就職するのを期待されている。

長い冬、卒業までの時間、彼女の心を捉えたのは図書館で借りた「チボー家の人々」のジャックだった。

「チボー家の人々」から人生で大切なことの多くを学ぶ彼女。

通学中も、深夜に家族が寝静まった後もひとときも本から目が離せない。でもそろそろ読書も終わりに近づいてきたのだ…。

いま思うと、僕はもしかしたらだらしなく読書をしているのかもしれない。

「チボー家の人々」のジャックと革命について語る実地子が羨ましくも思った。

全5巻を読み終えて、ジャックにさよならを告げ、革命とは離れてしまうが自分がメリヤス工場に就職するであろう旨を報告する実地子に憧れたりもした。

僕もたしかにそうやって読書に身を焦がした時代があったのだ。

あれはいつのことだったのだろう?

いつのまにかルーティングワークのような読書生活になってしまった。

ラスト数ページに書かれている春も訪れる頃、実地子がそっと図書館に本を返却する場面は忘れることが出来ない。

高野文子の虜になる。

最後に。

実地子が読書の終える頃、彼女の父親がポツリという一言。

「好きな本を一生持ってるのもいいもんだと俺(おら)は思うがな」

身に沁みるセリフである。


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2005年07月26日

A Season in Heaven

・David Tomory 「A Season in Heaven」

「A Season in Heaven」

洋書。翻訳本は現在のところない。

97年にカトマンドゥのタメル地区にある古本屋で購入。

60年代、70年代初頭にアジアや中東を旅した欧州、日本、米国の若者の姿を追ったインタビュー形式の回顧録。

当時のヒッピー文化や神秘主義、東洋には十分と若者を惹きつける磁力が備わっていた。

ゴア、バラナシ、カトマンドゥ、カブール。当時の旅人たちは既存の西洋文化を懐疑し、自己を再構築する為にインドを目指し、僅かな所持金で旅をした。

それは今も昔も変わらない。

でも当時にはまだ何かがあった。

それは時代が産み出した世界を包んだ情熱のようなものなのか。

不思議と人はみな「60年代、70年代は特別だった」という。

僕はある一定の期間を切り取って特別な時代なんて位置づけはあるものかと思うけれど、頷くしかないようだ。

やっぱしこの時代に何かがあったみたいだ。この本を読むとそんな気がしてならない。前史的な憧憬にも似ている。

ヨーロッパからテヘランへ向かうというマジックバスがあればそれに乗り込み移動したという。沢木耕太郎の「深夜特急」もこの当時の話だ。

この書籍ではゴアの60年代頃の生活が描かれている。どうして、ゴア州で裸で生活することが禁止となったのか、最初にゴアをユートピアとしたドイツ人はどうしているのか、当時のパーティシーンの情景、まだ茅葺き屋根かコミューンで暮らしていたヒッピー達の生活など。簡単な英語力があれば十分に読むことができるので、興味のある方はぜひ。

最後に一つ。この当時の旅人達の象徴的とも謂える冒頭の台詞をここで紹介。これを読んだらページを綴らずにいられないだろう。


For Lyn, Kevin, and all those who did not return.
(Lyn, Kevin、そして還らなかった全てのみんなに。)

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2005年07月05日

ちびくろ・サンボ

・作=フランク・ドビアス イラスト=ヘレン・バーナーマン 「ちびくろ・サンボ」

「ちびくろ・サンボ」


絵本を読むたびに思うことがある。

いつかきっと自分の子供ができたなら、僕が小さい頃に読んで育った絵本をまた君に読んで欲しいなと。

それはとっても単純な理由だ。

僕が読んだ本を君に伝えたい。

なぜなら僕は小さい頃、陽だまりのなかでコロコロ転がりながら絵本を読んだり読んでもらったりするのが大好きだったからだ。「ぐりとぐら」の物語、「おおきなかぶ」、そして「ちびくろ・サンボ」のホットケーキ。

そう、「ちびくろ・サンボ」…。

僕は特にこの物語が大好きだった。

いや、この物語を読んでからこそホットケーキに強く憧れたと言ってもいいくらいだ。

クラクラするほど眩い黄色の虎。どこか遠い国の南国の風景。ビビットな原色豊かの椰子の木やジャングルの光景。愛嬌のある短パン姿のサンボ。

虎がぐるぐる回って溶けてバターになるシーンなんて、どうしていいのか分からないくらいだ。

お腹がギュルギュル減ってくる。僕のホットケーキ感はここに始まったと言い切ってしまいたい。


実はこの本、1953年に岩波書店から発売されたが、1988年に絶版となっている。

120万部以上も多くの世代に愛されたこの絵本がなぜ絶版になったかというと、ご存知の方も多いかと思うが、物語中のサンボ君、すなわちその黒人少年が、人種差別に繋がると指摘されたからだ。

いわゆる「言葉狩り」である。

当時の社会的風潮に出版業界も逆らえず残念なことに書店から姿を消した。

でもこれだけのベストセラーだ。やはり惜しむ声もあった。復刊を望む声もたくさんあった。
出版社で長いトンネルのような検討に検討を重ねた結果、17年経ち、ようやく復刻となったわけだ。

これは勇気ある功績だ。ひとつの布石となるだろう。

僕はこの物語に人種差別が潜んでいるとは思えない。
プライドを持たない者だけが差別を助長する。

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2005年07月01日

東京タワー

・リリー・フランキー「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」

「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」

福岡県に生まれ、筑豊と小倉で育った著者の初の長編小説。雑誌「en-taxi」で連載されていた同作品の単行本化。

エッセイストとしても名を轟かせていて、その鋭い視点と時たまのエロとウィットに富んだ理論で、そして完璧なまでもの惚れ惚れする文章で多くの読者を掴んでいる著者が今回描いたテーマは「母親、上京、昭和」。

筑豊と小倉を舞台に、そしてやがて著者が東京に上京し、そこで再び始まる母親との共同生活。

いつも繰り広げられるその放埓なギャグとは違い、おそらく自伝となるこの作品、著者は恥ずかしくも自身のマザコンっぷりを披露している。

でもなんだろう、彼のマザコンは一人っ子であるがゆえの「お母さん想い」がしっかりと描かれていて、そして母親が自分の息子におくる「無償の愛」が作品にちらばめられているので、全然ベタついていないし、むしろ清清しい。

より作品の普遍性を高めている。

これは名作だ。

僕はどうしてかこの作品を読むたびに故スタンリーキューブリックが温めていて、かのスピルバーグが手がけた映画「A・I」のラストシーンを思い出す。この映画の根本的なテーマもまた「無償の愛」であると僕は信じているからだ。

小説中の北九州訛りのセリフが個人的に好きだ。どこかのコラムにあるのかもしれないが(確認はしていない)、この北九州訛りで纏められているおかげで本作品はエッジが際立っているのではないだろうか。それは九州から上京してきた人間の持つ故郷への掛け橋であり、拠りどころであり、東京に住む地方出身者のアイデンティティでもある。

ぜひお勧めしたい。

子供から母親に伝える最大の感謝がここにある。

きっと泣くだろう。でもそれは正しいことだ。



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2005年06月03日

にっぽん劇場写真帖

・写真=森山大道 テクスト=寺山修司 「にっぽん劇場写真帖」

「にっぽん劇場写真帖」

戦後日本の60年代後半以降を圧巻し、人々を凌駕した鬼才二人が写真とテクストで幻想魔牢へと誘う衝撃の写真集。

ブレ・ボケ・アレと称される前衛的写真を打ち出し、とことんと写真を解体し、また構築する作家である。

ポスターの写真をカメラで撮り直して作品にしたことは有名。

コントラストが激しいモノクロ写真はざらついていて、綴られている作品がすべて白昼夢のような、誰かが見た悪夢のようなフラッシュバックに近い写真である。

みんなは写真を見て、異様な喉の渇きを感じたことがあるだろうか?それとも暴力が描かれていないのに気配を感じたり、泣きそうになり、その写真から滲み出る自己肥大を感じ、昂奮したことがあるだろうか?

僕はこの写真集が初めてだった。

この写真からは常に作家の気配と苛立ちと写真を解体してかつ写真の世界を導き出すパワーを受ける。

そして寺山修司のテクストが拍車を掛ける。時代が選んだ最高傑作。

『にっぽん劇場写真帖』 1968年 室町書房 は初版と共に伝説となり、今は絶版。

市場に出回ることもほぼ皆無。もし出ているとしたら、幾らなんだろう?6万円ぐらい?

1995年にフォトミュゼ版として『にっぽん劇場写真帖』は復刻されるが、惜しくもこちらも絶版。
ごくたまに市場に出回っている。5000円-10000円程度。

森山大道のオフィシャルサイトで、FLASHを用いて、現在入手が不可能な絶版となった写真集を眺めることができるので、お勧め。きっと画面から眼が離せないだろう。


森山大道 オフィシャルサイト
http://www.moriyamadaido.com/