2010年02月27日

いるのにいない日曜日

・三好銀 「いるのにいない日曜日」

バブルだ好景気だと日本全体が狂乱して浮かれていた90年代初頭、スピリッツにある漫画が掲載された。

三好銀の「三好さんとこの日曜日」である。

バブルとは縁遠い、どちらかというと、いまの時代にマッチングするような等身大の生活を描いた名作で、連載当時から少数ながら一部で支持を受けていた。

ところで、漫画業界で寡作な作家といえば、高野文子か三好銀で、それでも高野文子はコンスタンスに作品を出しているし、何よりも定数のファンがいるので、たとえばヴィレッジヴァンガードのコーナーに行けば見かけることは多いけれど、一方の三好銀はまったく新作が出ないで<あの人はいま!?>状態で、単行本化された「三好さんとこの日曜日」はあっさりと絶版になって、時たま古本屋で見かける程度(お願いだから再販して欲しい)。

僕はこの本を古本屋で見かけるたびに買い揃えるという、いささかビョーキがちなんだけど、もし、一番好きな漫画は?っていう難題を吹っかけられたら三日三晩悩んだ挙句に、きっとこの作品を挙げるだろう、それぐらい思い入れのある作品である。

ただし、残念なことにこの「三好さんとこの日曜日」には未収録の作品がある、というのがファンの中では公然の事実で、小学館はよ出せやゴルアでもあったわけだ。

その幻の作家といわれた三好銀の、幻の作品である日曜日シリーズの未収録が発売となったら買わないわけがない。

またネーミングがいいのである。「いるのにいない日曜日」。

物語は、夫婦ふたりと猫一匹が織り成す、何処かにありそうな日曜日を四季折々に描いている。アパートに住む夫婦の生活は僕の憧れである。こういう暖かい日々が過ごせたらいいな、と思う。ゆったりとした空気が流れて、決して華美ではないけれど、小さな幸せと出来事が詰まっている生活。猫と一緒に三人で過ごす日曜日。たとえ明日が月曜日でもこんな日曜日が好きだな、そんな週末。

今回の帯の言葉も秀逸。


夫婦二人と猫一匹
四季折々の休日。
ささやかで愛しき日々。
あれから長い時が過ぎても、三好さんところに
「日曜日」は来る。


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2007年10月25日

黄色い涙

・永島慎二 「黄色い涙」

2005年に逝去された永島慎二の「若者たち」がNHK銀河テレビ小説でドラマ化されたのは30年前の話。時代は移り変わり、ジャニーズの嵐という若者が映画版で演じることになったのが2007年。そのオリジナルの漫画である。

中央線阿佐ヶ谷駅近くのボロアパートで肩を寄せ合うように日々を過ごす若者達。昭和40年代のアンニュイな空気。

自分の夢を追いつつも現実とのギャップは広がる一方で焦燥ばかりが募る。それでも画家や小説家、漫画家や詩人など、夢を目指す友と笑いあい、ときには喧嘩をして互いを励ます。お金は大事だけれどもっと大事な何かがあるはず。明日食べるお米がないくらい貧乏なのにガムシャラになれる毎日。

読み終えるとなんだか一つだけ歳を取ってしまった気持ちになり、昔一緒に無茶をした友人達に連絡を取りたくなる気分にさせてくれる。そういえば、僕もアイツ等も同じように何かに飢えていたっけ。みんな何処に行ったんだろう?

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2007年07月30日

大阪+

・森山大道「大阪+」


二十歳少しまえのぼくの日常は大阪だった。その頃の大阪、その頃のぼくをいま思い返すと、それはほとんど絵空事として瞼に映るばかりだ。当時若いぼくにとって、心の針はひたすら東京へと指しつづけていた。そして現在、ぼくの心の針は再びぐるりと回転し、大阪の街々へと立ち戻りつつある。それは、大阪に生れたぼくの郷愁であろう。ただ、レンズの向うに映る大阪の街頭は、いまも相変らずしたたかで、いとも簡単にぼくの郷愁を裁ち切ってしまう。


1997年にヒステリックグラマーから刊行された写真集が全面再編集&増補されて月曜社から出版された。「新宿+」と同じ文庫サイズだ。

「新宿+」と同様に、分厚いボリュームなのに破格の写真集だから、かなりお手ごろに入手しやすいだろう。

この写真集を見たとき、僕が感じたのは「大阪は直球勝負の欲望の街なんだな」ということ。森山大道のコントランスが強い写真がそのように想起させるんだろうけれど、大阪の街はいまでもやんわりと嗤っていて、それでいて底知れないパワーを潜ませ人々を文字通りにケムに巻いているような気がする。

「新宿+」の写真は、ギザギザしていて街が苛立たしい顔をしている感じがした。「大阪+」で映る写真には少しばかりの愛がある。それは作者が投影させる郷愁心なのかもしれない。

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2007年04月12日

コーヒーもう一杯

・山川直人「コーヒーもう一杯」

スクリーントーンを使用しないで、<かけあみ>のタッチにこだわりを持つ作家、山川直人が描く登場人物や風景は、どこか郷愁を誘う世界である。

一話完結のオムニバス形式の漫画は<一杯の珈琲>を題材にして淡々と進む。心温まる物語もあれば、少しホロ苦い物語もある。

誰もが、一杯の珈琲に色々な思い出や気持ちを抱えているように、作品の登場人物もまた何かを抱え、そして泣いたり笑ったりしている。読み終わった後に、ネルドリップで一杯淹れたくなるような、お気に入りの珈琲屋で心ゆくまで珈琲を味わいたい気持ちにしてくれる、そんな作品だ。

決して賑やかな物語が用意されているわけではない。むしろ、静かに、都会のどこかでひっそりと繰り広げられているドラマみたいにゆっくりと展開していく。

ささやかに、けれども確かに心から満足できる漫画である。

一押しだ。ぜひ、いろんな人に読んでほしい。待望の3巻もそろそろ発売!

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2007年03月05日

生きて死ぬ私

・茂木健一郎「生きて死ぬ私」

科学者が哲学する。
その一言で表しきれるのだろうか、でもまさにその通りなのだ。

まずこの経歴が凄い。

ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程修了。理学博士。

こうやって眺めると、理系と文系両方の総本山を制したのか、と思いがちなんだけど、そういうのを超越した作者であるのが著作を読めば伺える。

最近テレビなどのメディアへの露出も増えてきたので、番組のコメンテーターなどでお目にかかる方も多いだろう。彼の言葉ひとつひとつに耳を傾けて欲しい。脳味噌がピキピキと音を立てて喜ぶこと間違いない。

本書は長らく絶版になっていた。それがようやく満を辞して再販された。文庫である。読みやすく分かりやすい文章。その文中に輝く深い洞察力。

ノーベル賞に一番近い日本人だと噂されている通りの読み応えである。

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2007年01月30日

沸騰時代の肖像

・石黒健治 「沸騰時代の肖像 PORTRAITS OF THE 60s」

僕が生まれた年よりもさらに昔、1960年代という時代があった。<あった>という実体溢れる表現は可笑しいけれど、当時を知る多くの人が─大抵にして─そうやって揃えて語るのだから、きっとそうなんだろうと思う。

その話をするとき、彼ら(彼女ら)は目を細めて懐かしみ、何かを回想している。その何かとはなんだろう?

僕は同時代性というものを時々、卑怯に感じることがある。同時代性に答えを求めるのは容易だからだ。しかし、必ずしも「強烈な隔てのない共有空間」に罪はあるのだろうか。僕はそうは思わない。

少なくとも特異な時代の渦に巻き込まれた人間の持つ表情は信じるに値する。

表紙を飾るのは若かりし頃の加賀まり子だ。

石坂浩二、加賀まりこ、津川雅彦、寺山修司、美輪明宏、吉永小百合、鈴木いづみ、石橋蓮司、カルメン・マキ、つげ義春、ピーター、緑魔子など。沸騰した時代を過ごした彼らのポートレイト写真集である。


※掲載されている写真の一部↓

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2006年12月05日

漫画家残酷物語

・永島慎二 「漫画家残酷物語」

全3巻で完本なのだが、残念なことに3巻の発売のめどが立っていないと噂されている「漫画家残酷物語」。

故・永島慎二の代表作のひとつで、発表当時、60年代の若者達の支持を受けた。実際、彼が住んでいた中央線の阿佐ヶ谷は漫画の聖地とまで称えられたという。

今回販売された「漫画家残酷物語」は、現存していないとされた生原稿によって復活した独自のタッチが生かされているホンモノ(以前から復刊していた同作は、永島氏のアシスタントが当時の漫画からトレースしたものであった)である。

つげ義春とは似て異なる独特のウェット感、これが永島作品の真髄で、やるせない若者の青春が見事に描かれている。

青年の葛藤を漫画で体現したのは、まさにこの作者が最初なのではないだろうか。

雨が降って、どこにも行くことのない午後に読むと、かなり自身の内面に滑り込むことができる漫画だ。昭和50年代初期に朝日ソノラマから発売されたものは希少価値が出ているので、お手ごろなだけに永島作品の入門編として手に取るのも良いだろう。

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2006年11月27日

新宿+

・森山大道 「新宿+」

02年に月曜社から既刊された「新宿」が、再編集・増ページでお手軽サイズで新たに刊行。

写真点数551点、トータル640頁で値段は2000円。かなりお買い得だ。

森山写真の王道である、ザラついた粒子が荒いモノクロの写真に始まる攻撃的で淫猥な新宿の路上。彼ほど、この街が内在的に抱えているパルスのような暴力性の一瞬を、ファインダー越しに残酷なまでに切り取るカメラマンは居ないであろう。はたして未来なのか過去なのか?森山の写真に対面するといつも戸惑う。

新宿は、いまだにぼくの目に、大いなる場末、したたかな悪所として映って見えている・・・と答える著者。

なぜ、世界的に有名なカメラマンをすら、いまだに新宿という街は惹きつかせやまないのか。その答えは、きっとこの本を手にすれば分かることだろうと思う。

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2006年11月17日

フーテン

・永島慎二 「フーテン」

〝新宿〟という言葉が輝いていて、〝新宿〟にさえ行けば、きっとどうにかなっていただろうという時代のお話。

フーテンと呼ばれるヒッピー達は、東口や西口に集まり、大量の睡眠薬を一度に煽り、その効能で酩酊して朝まで過ごす毎日。

サンフランシスコのヒッピーのように陽気ではなく、人生に疑問を持ちつつもダラダラと哲学的に悩む現状から抜け出せないフーテンや自分探しをする若者。

何所となく翳りがあって、ウェットな雰囲気が最高。

新宿の深夜喫茶で朝を迎えたあとに、そのまま海に出かけ、砂浜でハイミナールを齧ってトリップをしてはしゃいで海に飛び込むシーンと、焚き火を囲んでサイケデリックに踊り明かしているシーンが個人的に気に入っている。当時のサブカルを知るだけでも必読だ。

但し、漫画自体は惜しくもすでに絶版。何度か再版されているが、そのいずれも同じように重版の予定がない。楽天ショップやamazonで古書を手に入れるのが良いだろう。

著者の永島慎二は残念ながらに鬼籍に入られてしまった。合掌。

フーテン [文庫版:コミックセット]
永島慎二
講談社(文庫)

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2006年08月30日

森の生活

・H.D. ソロー 「森の生活」(上)(下)

街から離れ野性味溢れた生活を送りながら、哲学的思想を育み、米国文学史上の稀有な存在として、19世紀半ばに登場してから人々を魅了し続けているソロー。

ウォールデン湖畔に自らの手で家を立て、僅かなお金をもとに2年2ヶ月の歳月を過ごした生活を詳細に記した本だ。

元祖ナチュラリスト。自然哲学者。今でもキャンパーやアウトドア好きのバイブルとして名高い。そしてアジアやインドを旅している人の多くが持っている本がこの本だった。

畑を耕して生活をサイクルし、時折、余剰の農産物を売って換金したりする。

資本主義社会とも共生する自給自足のライフスタイル。

畑からは採れない生活品(油、燃料等、種、古着の衣服)についてもどのような方法で補完するか詳細に及んでいる。

ソローの優れた点は、決して社会から切り離された孤立的な存在ではなく、また、生活自体が文化的なマイノリティに陥ることはなく営まれている点だ。そして、彼は社会全体に在る一人の構成員として行動し、外部にきちんとリンクしている。

森の中で孤独とどのように向き合うのか、内省的に考察することで、築かれたアウトドアライフ。必読である。

ちなみに、本作品はP・オースターの「幽霊たち」に、物語を進めるにあたって重要なアイテムとして登場する。

米国文学史に名を連ねる作品を、ユーモアと軽い皮肉を織り交ぜて自分の作品に堂々と引用するあたりがオースターらしい。こちらも必読。

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2006年08月29日

両手いっぱいの言葉

・寺山修司「両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム」

昭和58年(1983年)、肝硬変と腹膜炎で敗血症となり、享年47歳の若さでこの世を去った寺山修司の名言集がこの「両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム」。

寺山自身の膨大な著作の中から選びぬかれた数々のアフォリズムだ。

言葉の錬金術師と呼ばれる氏ならではの文章は、珠玉の磨かれた言葉ばかり。

「寸鉄人を刺す」という諺の如く、言霊が心に届いて、しばし離れない。

名言集なので、最初から読まなくても気分しだいでどのページから読んだって愉しめる。

時々、無性に手を伸ばしたくある時がある。そんな同書の有名な一句。

一本の木にも流れている血がある
そこでは 血は立ったまま眠っている


これぞ寺山。渇望する独特の感覚こそが真骨頂なのだ。

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2006年08月14日

地球はグラスのふちを回る

・開高健「地球はグラスのふちを回る」

僕が持っている『地球はグラスのふちを回る』は、書籍のカバーがされていない。94年頃の名残だ。

当時、僕自身のルールで、旅に持ち歩く書籍は何故かカバーを外すというのがあった。

旅に持っていった書籍のほとんどが、旅先で交換したり、古本屋に売ってしまってお金にしているのだけれど、この本だけは、ページを綴るごとに展開される面白さに圧倒されて、手放すことがなかった。だから僕の本棚に並ぶこの本には、いまでもカバーがない。

何度も繰り返し旅先で読んでいたので、手垢で薄汚れて、よれよれになっていて、インドやネパールの染みが宿命的にこびりついているのだ。でもこれからも決して手放すことはないだろう。

題名にもある「地球はグラスのふちを回る」は、世界中で飲んだ珍酒・奇酒そして名酒を追想する出だしで始まる。

なんともお洒落な題名じゃないか。

嘘か真か、中国の五つ星ブランデー、サイゴンで飲んだとぼけた味わいの333(バー・バー・バー)、ウィーンの白ぶどう酒。お酒が飲めない人でも読み終えたらきっと一杯引っ掛けたくなる。

そして続いて、冬の越前カニの美味しさについて語るエッセイや、小笠原で食べる鰹の手ごねご飯を頬張るエッセイといったグルメ話、そして「漂えど沈まず」と表したニューヨークの旅物語。

開高健のエッセイの真骨頂とも言えるグルメとお酒と旅の話で、ユーモアに溢れた珠玉の一冊である。開高健の旅や食への飽くなき探求が手に取るように愉しめる。

ところで、開高エッセイは、得てして魚への描写が詳細に及んでいるので(ニューヨークのエッセイに登場する〝ハマグリのスープ〟や〝生牡蠣〟の文章、嗚呼)、旅先の日本食に飢えた状態で読むと非常に危険な本だ。

でもそのあたりが、決してテレビや写真には持ち得ない文章の持つ魅力で、読者自身が勝手に思い思い自分の食べたい生牡蠣やらハマグリのスープを想像できる。

日本から遠いヒマラヤの麓での生活やインドのビーチでの生活では、「日本に帰ったら、絶対、死ぬほど旨い魚を食ってやる!」と日本が恋しくなると読み返して、一人、うな垂れては昂奮していた。

*
*

さて、こちらの写真はタイのチャン島(Koh Chang)での一枚。

http://psybaba.net/blog/archives/2005/10/post_101.html

まだ未開発だった90年代初頭、島に点在するバンガローで生活していた。

打ち上げられた魚を焼いて食べたり、椰子の実を拾って、中身をジュースにして飲んでの生活。

ジョビ(犬)は灯りのあるバンガローを見つけると、其処を安眠の場所としてなついてくる。

周りにはヒッピーしかいなかった。

で、僕が手にしているのが、開高健の『地球はグラスのふちを回る』だ。

本のカバーを捨てる習慣があった当時の貴重な一枚。

時代の流れか、我が家にある書籍でカバーがない頃の書籍というと、人にあげてしまったりゲストハウスで交換したりしてしまい、とうとう村上龍と開高健だけになってしまった。

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2006年08月11日

河よりも長くゆるやかに

・吉田秋生「河よりも長くゆるやかに」

米軍基地近くの男子高校に通う男の子達の物語。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を漫画化したような世界観だ。

時代は80年代中期ぐらいで、ヒッピーが出てくるわけではないが、基地の雰囲気に囲まれた土地で生活する若者が登場。

米兵と付き合う派手な姉貴を持つ弟のトシはゲイバーのバーテンをしつつ、ドラッグを闇で売ったり、乱交パーティに女子高生を斡旋したりして稼ぎ、生活している。

金持ちだけれど親が日本で悪名高いサラ金である久保田。

トシの彼女と友達でありながら、トシに片思いの中学の同級生。

吉田漫画の真骨頂と言ってもいいだろう、やはり『河よりも長くゆるやかに』に登場するキャラクターもそれぞれが複雑な家庭環境をもって、心の何処かに傷を負っている。

生き生きと多感な時期を謳歌する何処かに翳りのある人物達。

う~ん、この感じ、たまんない。

作品中は大きな事件が起きるわけではなく、一話毎に完結しているので淡々と物語が進む。

誰にだって思い当たる日常の中のちょっとした出来事の数々。

爽やかな秋の空を思わせるような清清しさが滲み出ている。

なお、登場人物(♂)はエッチなことばっかり考えてモヤモヤしている連中がほとんど。

なんか若い頃の学校って、いいなって思う作品である。

ちなみに『BANANA FISH』ほどアレじゃないけれど、一瞬だけ阿部高和の世界があるので宜しく。
まあ、なんていうかその辺の恋愛というのは人それぞれということで。

※阿部高和
「男は度胸!何でもためしてみるのさ。きっといい気持ちだぜ!」という名言を残したマッチョ。

好きな言葉は「やらないか」。


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2006年08月03日

堕落論

・坂口安吾「堕落論」

戦前戦後の混沌期にデビュー。

睡眠薬と覚醒剤の多量摂取で神経科に入院。

最後は脳溢血で早世。その時僅か48歳。

これが坂口安吾である。

昭和21年に発表した「堕落論」は、衝撃的な今の時代も決して色あせることのない人間性を問う不朽の名作だ。

戦争に敗れた日本への警鐘か?

安吾が吼える人間の〝堕落〟

夏の太陽が照りつけるジリジリとした暑い夜にこれを読んで唸れ。

人間は変りはしない。

ただ人間へ戻ってきたのだ。

人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。

それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。

人間は生き、人間は堕ちる。

そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。

なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。

だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。

そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。

堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。

(「堕落論」)


でも安吾には、きっと優しさがある。
19歳の夏に読んで以来、僕はそう信じている。

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2006年08月02日

水木しげるのニッポン幸福哀歌

・水木しげる 「水木しげるのニッポン幸福哀歌(エレジー)」

「週刊アクション」で連載されていた「日本の民話」が遂に完全収録!

昭和40年代に刊行されて以来、幻の短編集としてマニアの間でも名高いこの作品が、「水木しげるのニッポン幸福哀歌(エレジー)」として文庫で登場。

「一つ目小僧」「役の行者」「打ち出の小槌」「時の神」は、なんと初文庫化。

人間にスポットを当てて、痛烈に社会風刺をし、幸福とは一体なんだろう?というのを水木しげるが感じたままに〝緩め〟で〝シュール〟に描き、「悪魔くん」や「ゲゲゲの鬼太郎」シリーズとは違った人間くさい世界を作っている。

社会風刺の物語は初期の「ゲゲゲの鬼太郎」でも随所に見られたが、この作品は昭和44年のざわついた高度経済成長期の雰囲気を取り込んでいて、いかにも昭和の懐かしい時代が映っている。

個人的に好きなのが、ネズミ男が当時流行ったフーテン(ヒッピーのような若者)としてチラリと登場するあたり。

ファンとして嬉しいシーンである。

少年漫画では描かれない、ちょっとエッチな水木漫画が見ることの出来るのも一興。

とにかくこれが、水木しげるが放つ『幸福』にまつわる物語だ。

ちなみに次長課長の河本が物真似する〝水木しげるの漫画に出てくる人間〟の模写はこの表紙にそっくり過ぎて、少々ビビる。

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2006年07月21日

不夜城

・ 馳 星周「不夜城」

騙す奴より騙される奴が悪い。

日本屈指の歓楽街・歌舞伎町、そこに潜むように存在している劉健一。台湾人と日本人のハーフ。

いまや歌舞伎町は中国マフィアが牛耳り、アジアンコネクションがものを言う世界。

半々(ばんばん=混血)となじられるも、その狭間で利権を求め、器用に蠢いていた健一のもとに友人の呉富春が現われる。それによって、健一自身の何かが狂い始めてきた。

*
*

最初に断っておくけれど、この作品は、どうしようもない連中しか出てこない。

近親相姦の関係にある呉富春とその妹。

生き残るためには血族や友人、そして恋人ですら裏切り、時には自らの手で殺めてゆく健一。

アンダーグラウンドにしか生きてゆけない、堕ち続け騙しあい嘘をつく登場人物たち。

誰かを信用することは命取り。

こんな小説に、いったい誰が共鳴できるんだろうか。

正直出てくる人物がどいつもこいつも吐き気を催す奴らばかりだ。

でも決して目が離せない。

まるで劉健一に、小説を読んでいる自分自身が裏切られたような既視感。

作者の馳星周の闇を覗くような小説だ。

読了後に歌舞伎町を歩くと、きっと今までと違う感情になるだろう。

恐らくは緊張することになる。

歌舞伎町にだけ漂う独特の空気の匂いを感じ取ることが出来るかもしれない。

暴力的で切なくて時にはエロティックな匂い。

金城武が主人公の映画「不夜城」、こちらも原作に劣らず良い出来である。ぜひ。

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2006年05月31日

皆既日食ハンターズガイド

・皆既日食ハンターズガイド STUDIO VOICE 別冊

今年の3月にトルコでパーティがあったことから記憶に新しい皆既日食。

2008年8月1日にカナダやロシア、中国、そして2009年7月22日には日本で皆既日食を見ることができる。

皆既日食といえばトラベラーが集まるレイブ。
とにかく皆既日食がある場所にレイブありといわれるぐらい密接性が高い。

その皆既日食の総てを網羅したガイド的一冊。

ボアダムスのヤマタカEYEなどがコメントを載せている。パーティの写真も見もの。

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2006年05月10日

キャベツの丸かじり

・東海林さだお「キャベツの丸かじり」

多くの海外に住む、あるいは長期旅行中の日本人が一番読んではいけない本は、ロシア語通訳者として名高い米原万里氏が言うように、東海林さだおの「丸かじり」シリーズに他ならないだろう。

緻密すぎる日本食の描写、文章の一段落(いや、下手したら一文字)ごとに胃袋に伝わる徹底的な美味表現。

日本食を食べていない時期にうっかり読んでしまうと思わず「ウギャア」と叫ぶ羽目になる。

もしくは熾烈な焼けるくらいのホームシックに丸々1日は付き合わされることになるはずだ。

そして僕は00年1月にバリのウブドゥにある古本屋で、まさに〝うっかりと〟この本を手にしてしまって、亜熱帯植物が庭いっぱいに溢れるテラスで言葉通り「ウギャア」と叫ぶこととなった。

丸かじりシリーズ第二弾「キャベツの丸かじり」。

お正月のおせち料理に飽きた時に食べる油滴の浮いた醤油ラーメンの旨さ、懐かしいのり弁の美味しさ(海苔が浸み込んでシンナリするぐらいが食べごろなんてまで書いてある)、アツアツごはんに一番合うおかずといえば生卵ご飯(タラコもいいだなんてまで書いてある)、カツ丼の魅力、学校が終わって帰宅してランドセルを背負ったまま、お玉で漉くって飲む冷たいキャベツの味噌汁の美味しさが文庫本に痛快に書いてある。

たしかにバリ島のインドネシア料理も美味しい。目玉焼きの乗ったインドネシア焼き飯ナシゴレン、串焼きのサテ、えびせんのディップは毎日食べられるシロモノだ。

でもね、一度でも油滴の浮いた醤油スープに縁取られたチャーシュと縮れた麺、アツアツご飯に生卵と想像してしまったら、お腹がグウグウと鳴り、目の前に並ぶパンやインディカ米のピラフが憎たらしくなってしまうのだ。

俺がいま食べたいのは、ラーメンと生卵ご飯とタラコなんだ!と、誰に向かってか、叶えられもしない夢を叫ぶのが事の顛末。

どれだけ国際化が進もうとしても食事に関してはダブルスタンダードは導入できないな。

もちろん全然拘らない人もいて、そういう人は何食べてもやっていけるわけだから羨ましくてしょうがない。

でもやっぱ僕はね・・・。

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2006年04月10日

新宿 1965‐97

・渡辺克巳「新宿 1965‐97」

平成18年1月29日に64歳で逝去した写真家の渡辺克巳が撮りつづけた街、新宿の歌舞伎町。

娼婦、ヤクザ、オカマ、ヌード嬢、ゲイボーイ、暴走族。行くあてもなく、新宿のネオンに停滞しつづけざるをえない、そんな歌舞伎町という街の顔を撮っているかのように思える。

新宿西口がまだ荒涼とした原っぱみたいな70年代、まるで蟲のように新宿の街に潜んでいるベルボトムを履いたフーテン。
上半身裸のアパッチ族のヒッピー。
屈託のない笑顔のヌード嬢。

森山大道の写真より冷たくなくて、荒木経惟より熱くない。

でもたしかに写真でしか捉えることの出来ない何かをフレームに収めている。
それが渡辺克巳の写真だ。

徹底的にモノクロにこだわり、新宿にこだわった男のエッセンスがここにある。

実は僕も中2の時に何度か渡辺克巳を見掛けた事がある。

新宿のゲームセンターでクラスメイトとコインゲーム荒らしをして遊んでいた頃、歌舞伎町の入り口にあるラス***スというゲーセンを過ぎたあたりでよく見かけた。

ある特殊な方法でコインゲームのコインを増やし続けていた僕らは、新宿中のゲームセンターで目をつけられるようになって、だんだんと遊ぶ場所がなくなりかけていた。

ラス***スは、ちょっと間の抜けた感じのゲーセンだったので、やがてはそこを拠点にして遊んでいたんだけど、その当時の夕暮れになるとよくコマ劇場のあたりで渡辺克巳がまるで新宿全体を吸い込むような顔ぶりで立っていたのを見掛けたものだ。

本書はすでに絶版。定価(\4300)の倍近くで取引されている。ごく稀に定価のまんまで書店に埋もれていることも。

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2006年04月04日

写真よさようなら

・森山大道 「写真よさようなら」

アレ・ブレ・ボケ・ハイコントラストなどの手法で写真を手がけた森山大道が、1972年に発表して、多くの物議を醸した写真集。

写真を徹底的に解体して再構築したこの写真集は、いまだに観る者の心を捉えて離さない。なにせ「写真よさようなら」なのだ。

森山大道の写真は、鰐や蛇の鱗の一枚一枚が写真であるような、薄気味の悪い、背筋に汗が流れる感覚のする写真ばかりだ。風邪を引いてうなされた時に感じる既視感みたいな。ページを綴るごとに自分の喉が渇いてしまっていることに気が付く。

ネガが現存していないということで、オリジナルから写真を焼き増し、しかも中平卓馬との対談も割愛されているが、古書店で見つからないばかりか超高値で取引されている一冊なので、この再発は嬉しい限りである。

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2006年02月22日

さくらの唄

・安達哲「さくらの唄」

安達哲について語るならば、安達哲ほど、青春漫画のドロドロとした陰鬱的な部分と、泣きたくもなる不変的な淡い思い出を、両サイドから描ける作家はいない。

少年マガジンで連載した「ホワイトアルバム」「キラキラ」で、若者と大人の狭間に生きる切ない高校生の群像を描いて多くの読者をつかんだ。

両作品は、画風こそ80年代後半~90年代初頭の漫画なので、今にしてみれば多少なり古臭いかもしれないけれど、その世界に描かれているのは、つまり、僕らみんなが通過したある時代のある気持ちなのだ。

誰もが抱えている淡い思い出、それがこの2作品は描かれている。

その後、安達哲は少年マガジンからヤングマガジンに活躍の場を移して、衝撃的話題作「さくらの唄」を連載した。

普通の高校生だった市ノ瀬が送ることとなる、まるで普通じゃない生活。

叔父夫婦が市ノ瀬の家に住むことから姉や担任の美人教師を巻き込んで、どんどんと深みに嵌っていく。

単行本の第3巻は大胆な性描写があることから成人指定を受けたことで話題を呼んだ。

鬱屈で不安定な10代の、突き刺さる焦燥を突き詰めている。市ノ瀬が抱えている内面的葛藤は特別なのかもしれないけれど、特別じゃないかもしれない。

僕らはそんな市ノ瀬にシンパシーを感じるだろう。

R指定を受けたことから、どうしてもエロな部分に集中されてしまうが、この作品の楽しくて恐ろしいところは、別のところにある。

残念ながら、それは読まないと分からないはずだ。

「俺(私)って、よく変わってるって言われるんだよねぇ」っていう連中はこれを読んで目を覚まそう。

普通じゃないというのは、これだけ現実と乖離して、孤独で、本人が求める求めないに関わらず引き寄せてしまい、カルマのように付き合わなくてはいけないのだということを知るのにちょうどいい。

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2006年01月18日

コンセント

・田口ランディ「コンセント」

「コンセント」

まず初めに思ったのが、この作者は果たして男性なのだろうか、それとも女性なのだろうかという疑問だった。

もちろん、ランディという名前が性別を想起させなかったというのもあるけれど、それ以上に彼女のテクストからは、そういった性差を超えた世界観が築き上げられていた。

「コンセント」は引きこもりの兄が自室で衰弱死したことをきっかけに、妹である主人公ユキが〝死〟というひとつの絶対的な行為を抱えて、さまざまな社会的に破綻した人々と巡りあい、なぜ兄は生きるのをやめたのか、彼の死を探し、やがて意識の革命を体験するといった若干の精神論的な物語が含まれた純文学だ。

主人公が女性であるにも関わらず、その主人公から直截的に作者像を投影しない作品は珍しい。

女流というジェンダー的な表現を用いると、彼女は女流作家から程遠い位置にいる。

いや、これは至極個人的な話で話題も飛ぶが、僕は、中村うさぎや室井佑月に代表される作家があまり好きではないようだ。

彼女達の、男なんて要らないわ、でも男が好きなの、男に依存しちゃうというパターンに毎回辟易としてしまう。

単刀直入に表現すれば、彼女達は作品中に男性に対するエクスキューズが無い限り物語が描けないからだ。

彼女達の小説は所詮〝旦那、彼氏とではなくてたまには女の子同士で集まったのよ〟という喫茶店だか居酒屋のよもや話に過ぎない(ああ、こんなことを書くと、僕はまた貴重な女の子の友達を失うのだろう)。

山田詠美にしても残念ながらそうだ。彼女の小説のキーワードは〝黒人〟あるいは〝シスター〟であることは周知の事実で、主人公達の多くは、『私はシスターである』と自負している。

でも、果たしてそうなのだろうか?

ある一人の男性を理解することが、延長として彼の人種的特徴の理解に結びつくのは安易なプロットである気がする。

僕が彼女のテクスト(黒人に絡む一連のテクスト)から感じるのは、彼女はシスターであるのではなく、シスターになりたがっているだけだという裏返しの感情だからなのかもしれない。

それは非常に哀しい。黒人の歌い方を真似てヒットしているJ-POPの歌手と同じくらいに哀しい。

自分のことをブラザーだと信じているアジアのストリートの若者達と同じくらいに。

もちろん彼女の小説は素晴らしく、切ない気持ちになる作品が多いし、「ぼくは勉強ができない」という作品は珠玉の作品だ。それでも、黒人のテーマとなると色褪せてしまうのは、彼女が永遠にシスターになれないと予感させるからなのかもしれない。

しかし、そのような男性に対するエクスキューズを用いなく物語を構築する作家が台頭してきた。田口ランディの小説はモチーフとしての男性に依存していない。

これは新しいことだ。

さて、話は戻り、「コンセント」だが、発売当初から、質の高い文章力ということで話題になった作品であり、僕も友人よりその噂を耳にして、すぐに手にした。そして、ズイズイと田口ランディの紡ぎだす小説の世界に引きずり込まれて、一気に読んでしまった。

あとがきですら気が許せなくてハラハラした小説は本当に久しぶりだった。

あとがきにヤコペッティを持ってくるなんてどうかしているって思わないかい?

他人との共鳴、救済、孤独の中にあるシンパシー。深層心理学からシャーマンまで。

何度でも読み返すことのできる作品だ。

盗作疑惑から初版と重版で内容が差し変わっているので注意。

僕としては、初版の薄雹を包むような壊れそうな新鮮さを味わって欲しいと願う。

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2006年01月12日

きけわだつみのこえ

・ わだつみ会「きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記」

きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記

1993年、僕は代々木にある予備校に通う受験生で、18歳と19歳のはざまを往く若者だった。

英文法を教える里中先生は、授業の最後に必ず本の紹介をしてくれて、僕はそこで、生涯、忘れることのない、その当時ではないと読み通すことのできなかったであろう何冊かの本に出遭った。

坂口安吾の「堕落論」、開高健の「輝ける闇」、そして、「きけわだつみのこえ」だ。

「きけわだつみのこえ」は、第二次世界大戦の渦中に、政府が苦渋の策で発表した学徒出陣より突撃隊として散った学生達の手記である。

その本に出遭うまでに、僕は、彼ら多くの学生が当時の愚かな盲目のファシズムに乗せられ、何の疑いもなくたやすくも洗脳されて天皇の為に散っていったものだと信じていた。

しかし実際の彼らは、その戦争に懐疑的で自由主義(民主主義)が社会に必要であると感じていて、家族や愛する人の為に死んだ。

その事実に触れた衝撃は、当時の僕にとって少なくとも大変なショックであった。

同じような年代にも関わらず、歴史の誤りが原因で死んでいった彼らに対して、時代を超えた何かを僕は感じ取った。

その日を境に、僕は桜の咲く頃靖国で再会しようと約束した若者が祀られている九段下の靖国神社参拝を支持するようになる。

彼らは若者で、純粋で、それでいて家族や恋人を想い、時代と共に消えていった。

今読み返しても切ない。新成人もこれを読むがいい。

手記に遺されたある学生の手紙と、序文にある「詩人の光栄」を紹介したいと思う。


母へ最後の手紙  林市造 京大経済学部学生
昭和20年4月12日特別攻撃隊員として沖縄にて戦死。23歳

お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときが来ました。
親思う心にまさる親心今日のおとずれなんときくらん、この歌がしみじみと思われます。
ほんとに私は幸福だったです。わがままばかりとおしましたね。
けれども、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。
私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、と言うことは、立派に死んだと喜んでください、と言うことは、 とてもできません。けどあまりこんなことは言いますまい。
母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから。


ジャン・タルジュー詩集「詩人の光栄」より (渡邊一夫訳)

死んだ人々は、還ってこない以上、
生き残った人々は、何が判ればいゝ?
 
死んだ人々には、慨く術もない以上、
生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいゝ?
 
死んだ人々は、もはや黙っては居られぬ以上、
生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?

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2005年12月26日

S60チルドレン

・川畑聡一郎「S60チルドレン」(1)(2)(3)(4)

「S60チルドレン」(1)(2)(3)(4)

昭和6x年、僕は小学校6年生で、みんなと同じくらい昭和があと数年先に終焉を告げるなんて心の何処にも思っていなくて、ビックリマンチョコのシールは集めるけれども、チョコの部分は食べなくて叱られて、ドラクエ2の復活の呪文を間違えて、画面の前でうな垂れたり、駄菓子屋でうまい棒食べたり、ガチャガチャで一喜一憂し、50円のカップラーメンを啜ったりしていた。

教室では、男子と女子と明確に分かれていたけれど、ほんのちょっとだけ(たぶん)お互いに異性を気にしていた。

女子は休み時間になると、教室の端っこで交換日記をキャッキャと笑いながら陽だまりの中で交換したり、校庭でゴム跳びしたりして遊び、男子は6年1組と3組とかで分かれて、サッカーの試合をしたり、時には男子と女子が混ざってケイドロ(or、ドロケイ)をした。

そして、道徳の時間は、教育テレビの「みんななかよし」という番組を観ることになっていて、テレビを点けている間は教室のカーテンが閉められた。

窓側のクラスメイトがテレビを観る際のカーテンを閉める係で、カーテンを閉めるだけで、教室が違った感じに映る独特の雰囲気が好きだった。

「♪口笛吹いて、空き地へ行った。知らない子がやって来て、遊ばないかと笑って言った♪」

その唄の流れる時間に、クラスの片思いの女の子が、カーテンの隙間から校庭を眺める、時折見せる大人びた横顔は僕をどうしようもなく複雑な気持ちにして、それでいて、小学生ながらも、僕らはやがて大人になるのかなとぼんやりと想ったりもした。

この作品は残酷だけれども読者を選ぶ。僕はそういう風に信じている。

すべての昭和60年代に小学生時代を送った人たちに。

今年31歳で逝去した川畑聡一郎氏に。

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2005年12月07日

三好さんとこの日曜日

・三好銀 「三好さんとこの日曜日」

「三好さんとこの日曜日」

90年代初頭にスピリッツに掲載されていた三好銀の初の単行本。

梅という名の猫を飼う夫婦の、何処かにありそうなやさしい淡々とした日曜日の様子を描いた名作。

寡作で有名なこの著者の描く漫画は、シンとした不思議なノスタルジック漂う静謐な心地よさがある。

夜、寝静まった時刻に遠くから聞こえる汽笛の音に耳を澄ますときの気持ち。

作者の住んでいたエリアが西荻窪-吉祥寺あたりだったので、中央線的な生活(そんなのがあるようで、ないようで、やっぱりある)が、懐かしいデジャブのように書き出されていて、読み終えると温かい気持ちになる。

誰かに何かを伝えたいような、誰かとなんとなくお散歩したいような素晴らしい名作だ。

登場の梅ちゃんがかわいすぎるので、猫好きにお奨め。一作品がだいたい2ページ程度。

たとえ明日が月曜日でもこんな日曜日が好きだなという台詞が本作品にあるけれど、まさにその通り。

こんな日曜日があったらいいな。

淡々として、それでいてささやかな日々の生活であり、小さな幸せであるような日曜日。

すでに絶版であるのが悲しい。スピリッツ掲載分で、単行本未収録の作品が幾つかあるはず。部数は伸びなかったかもしれないけれど、珠玉の名作はあるのだから。再販と未収録作品の単行本化を強く望む。

amazon

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2005年11月02日

森の兄妹 底のない町

・楳図かずお 完全復刻版「森の兄妹」「底のない町」

「森の兄妹」「底のない町」

今年50周年を迎える氏の記念すべきデビュー作品の2作。

描いたのは14歳のときだという。

小学館クリエイティブからの完全復刻で、マンガマニアでも、オリジナルはなかなか見つけられなかったという貴重本。

それがamazonで3780円。

これは絶対お買い得。

楳図かずおといえば『ぐわし!』というぐらいギャグマンガの金字塔「まことちゃん」を描いた作者ではあるが、それと同時に「へび女」とか「恐怖」とかのホラー作品、それに「神の左手悪魔の右手」とかの(ホラーじゃないけど・・・。なんだろ、これは)作品と幅広く良質の漫画を描きつづけているパワーのある漫画家だ。

ちなみに「へび女」「恐怖」シリーズでトラウマを植え付けられた諸氏も多いだろう。

僕はまさにそのタイプで、小学生低学年のころ、夕方になったあたりから、漫画の世界と現実が区別がつかないといったら大袈裟だけど、とにかく本当に怖くてガタガタ震えたりしていた。読まなきゃいいのに、読まずにはいられない、そんな吸引力を持ち合わせている作品だった。

で、いまの作風や作品の傾向が14歳にして完成していた事実が伺えるブツがコレ。

楳図ファンではなくても手元に置いといて損はない。

ところで、氏はしょっちゅう吉祥寺の丸井の前の信号(←いせやに続くあたり)をウロついている。僕が9年程前、『ぐわし!』って言ったらちゃんと『ぐわし!』と返してくれた。

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2005年10月25日

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

・フィリップ・k・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 」

フィリップ・k・ディックが一気にメディアに注目されるようになったキッカケの作品がこの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか? 」。

原題は「Do androids dream of electric sheep?」、ハリソン・フォードの演技でも有名になった映画「ブレードランナー」の原作でもある。

フィリップ・k・ディックの作品の中でも、とりわけ難解さが低いせいかメジャー感もあり、それだけで代表作として位置づけられてはいる。この点については賛意両論がいまもなお続いているけれど。

さて、フィリップ・k・ディックの作品というのは、村上春樹がどこかのエッセイに載せていたように、神経がある種のくたびれ方をしている時に読むと浸透するとかってあったけれど、実際にその通りだろう。

良くも悪くもフィリップ・k・ディックを読みたい時期というのがあるのは否めない事実で、これは肝心なことだけれども、そういう時に読む〝フィリップ・k・ディック〟というのは、なにものにも変えられないものだ。

ある種の波長と波長が引き合うように、そうやって僕らはまるで砂糖水に吸い寄せられる蜜蜂みたいに、あるいは闇の中で照らされるランタンの灯りに飛び込む夜行性の蛾の如く彼の残していった作品を貪ることとなる。

彼自身は「ブレードランナー」の公開年である1982年に53歳という若さで亡くなってしまった。だから僕らが読んでいるのは総て彼が残した遺作だ。


さて、本編は、第三次世界大戦後の放射能に汚染されて、廃墟と化した地球の物語。

多くの人間は火星に移住して、火星でアンドロイドを従えて余儀のない人生を送っている。

地球に残った人間は、いまだに地球を離れることに抵抗のある者か〝マル特〟と呼ばれる火星移住の基準に満たない者たち。

放射能の影響で数多くの動物が絶滅した今となっては、人々の憧れは、「どれだけ大きな動物を飼うことか」というもの。もちろん馬や羊という希少動物はそれだけ値が張る。

ホンモノの飼えない者たちは仕方無しに模造品である精巧なロボットを、〝まるでホンモノのように〟飼うことにしている、そんな時代。

やがて地球では、火星から新型のアンドロイドが人間を殺したのちに逃亡して地球に忍び込んでいるという情報が入る。

賞金かせぎ(バウンティハンター)であるリック・デッカードはそのアンドロイドの行方を追う。電池が壊れて一晩中メェメェと鳴き続けることのない本物の動物を飼う為に。

逃亡した8人のアンドロイドを追うリックであったが一足先にアンドロイド達はイシドアというマル特と接触していた。

マル特とはいえ、イシドアとアンドロイドの間に横たわる徹底的な差とは・・・。

*
*

ところで、個人的な話で、かつ、ついつい昔話になるのだけれど、僕がこの作品を手にしたのは、10年以上前のアジアの空にあるネパールの古本屋でのことで、ポカラのレイクサイドにその店はあった。

レンタサイクル屋の少し先で、モモ(チベタンやネパリが食べる餃子)レストランの手前にあったと記憶している。

僕はインドでの遊び方が少々派手であったらしく、まともに歩くことが難しい日があったほどの、歯止めの効かない状態だったので、まさにフィリップ・k・ディックの作品に没入する環境がばっちし整のっていた。

しかも日本語媒体の情報量が圧倒的に少ない地域に長いこと居ただけに、文中の1行1行が肌に染み込むように浸透していった。だから今もなおこの作品を読むとヒマラヤ山脈と澄み切った蒼い空の情景が目に浮かぶ。

ボロボロの背表紙の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は黴臭くて所々にシミまで附いていた。でも僕は何処に行くにもチベタンの手作りのズタ袋にこの本を入れて、ヒマさえあれば読んでいた。

何故だかは分からないけれど。

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2005年08月26日

黄色い本

・高野文子 「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」(アフタヌーンKCデラックス)

「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」

この本自体は漫画だけれども「読書」の楽しみと図書館の大切さを教えてくれる作品を「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」と宮本輝の「星々の悲しみ」以外に僕は知らない。

「星々の悲しみ」は受験生の持つ束縛に対する歯痒さと〝生きる〟意味と読書の素晴らしさを教えてくれた。

この「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」もまた「読書」がどれだけ素晴らしいことかを、僕らに教えてくれる。

漫画だからって読まない人は絶対損をする筈だ、請け負ってもいい。

物語の中心にいるのは、ロジェ・マルタン・デュ・ガール原作、山内義雄訳の若干と時代錯誤の本「チボー家の人々」に夢中になる高校3年生の美地子。

舞台が新潟の雪山なので作品中のセリフもすべて新潟弁で語れている。

裁縫が上手な彼女は家のミシンの手伝いもこなし、卒業後の行く末はメリヤス工場という評判のよいメーカーに就職するのを期待されている。

長い冬、卒業までの時間、彼女の心を捉えたのは図書館で借りた「チボー家の人々」のジャックだった。

「チボー家の人々」から人生で大切なことの多くを学ぶ彼女。

通学中も、深夜に家族が寝静まった後もひとときも本から目が離せない。でもそろそろ読書も終わりに近づいてきたのだ…。

いま思うと、僕はもしかしたらだらしなく読書をしているのかもしれない。

「チボー家の人々」のジャックと革命について語る実地子が羨ましくも思った。

全5巻を読み終えて、ジャックにさよならを告げ、革命とは離れてしまうが自分がメリヤス工場に就職するであろう旨を報告する実地子に憧れたりもした。

僕もたしかにそうやって読書に身を焦がした時代があったのだ。

あれはいつのことだったのだろう?

いつのまにかルーティングワークのような読書生活になってしまった。

ラスト数ページに書かれている春も訪れる頃、実地子がそっと図書館に本を返却する場面は忘れることが出来ない。

高野文子の虜になる。

最後に。

実地子が読書の終える頃、彼女の父親がポツリという一言。

「好きな本を一生持ってるのもいいもんだと俺(おら)は思うがな」

身に沁みるセリフである。


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2005年07月26日

A Season in Heaven

・David Tomory 「A Season in Heaven」

「A Season in Heaven」

洋書。翻訳本は現在のところない。

97年にカトマンドゥのタメル地区にある古本屋で購入。

60年代、70年代初頭にアジアや中東を旅した欧州、日本、米国の若者の姿を追ったインタビュー形式の回顧録。

当時のヒッピー文化や神秘主義、東洋には十分と若者を惹きつける磁力が備わっていた。

ゴア、バラナシ、カトマンドゥ、カブール。当時の旅人たちは既存の西洋文化を懐疑し、自己を再構築する為にインドを目指し、僅かな所持金で旅をした。

それは今も昔も変わらない。

でも当時にはまだ何かがあった。

それは時代が産み出した世界を包んだ情熱のようなものなのか。

不思議と人はみな「60年代、70年代は特別だった」という。

僕はある一定の期間を切り取って特別な時代なんて位置づけはあるものかと思うけれど、頷くしかないようだ。

やっぱしこの時代に何かがあったみたいだ。この本を読むとそんな気がしてならない。前史的な憧憬にも似ている。

ヨーロッパからテヘランへ向かうというマジックバスがあればそれに乗り込み移動したという。沢木耕太郎の「深夜特急」もこの当時の話だ。

この書籍ではゴアの60年代頃の生活が描かれている。どうして、ゴア州で裸で生活することが禁止となったのか、最初にゴアをユートピアとしたドイツ人はどうしているのか、当時のパーティシーンの情景、まだ茅葺き屋根かコミューンで暮らしていたヒッピー達の生活など。簡単な英語力があれば十分に読むことができるので、興味のある方はぜひ。

最後に一つ。この当時の旅人達の象徴的とも謂える冒頭の台詞をここで紹介。これを読んだらページを綴らずにいられないだろう。


For Lyn, Kevin, and all those who did not return.
(Lyn, Kevin、そして還らなかった全てのみんなに。)

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2005年07月05日

ちびくろ・サンボ

・作=フランク・ドビアス イラスト=ヘレン・バーナーマン 「ちびくろ・サンボ」

「ちびくろ・サンボ」


絵本を読むたびに思うことがある。

いつかきっと自分の子供ができたなら、僕が小さい頃に読んで育った絵本をまた君に読んで欲しいなと。

それはとっても単純な理由だ。

僕が読んだ本を君に伝えたい。

なぜなら僕は小さい頃、陽だまりのなかでコロコロ転がりながら絵本を読んだり読んでもらったりするのが大好きだったからだ。「ぐりとぐら」の物語、「おおきなかぶ」、そして「ちびくろ・サンボ」のホットケーキ。

そう、「ちびくろ・サンボ」…。

僕は特にこの物語が大好きだった。

いや、この物語を読んでからこそホットケーキに強く憧れたと言ってもいいくらいだ。

クラクラするほど眩い黄色の虎。どこか遠い国の南国の風景。ビビットな原色豊かの椰子の木やジャングルの光景。愛嬌のある短パン姿のサンボ。

虎がぐるぐる回って溶けてバターになるシーンなんて、どうしていいのか分からないくらいだ。

お腹がギュルギュル減ってくる。僕のホットケーキ感はここに始まったと言い切ってしまいたい。


実はこの本、1953年に岩波書店から発売されたが、1988年に絶版となっている。

120万部以上も多くの世代に愛されたこの絵本がなぜ絶版になったかというと、ご存知の方も多いかと思うが、物語中のサンボ君、すなわちその黒人少年が、人種差別に繋がると指摘されたからだ。

いわゆる「言葉狩り」である。

当時の社会的風潮に出版業界も逆らえず残念なことに書店から姿を消した。

でもこれだけのベストセラーだ。やはり惜しむ声もあった。復刊を望む声もたくさんあった。
出版社で長いトンネルのような検討に検討を重ねた結果、17年経ち、ようやく復刻となったわけだ。

これは勇気ある功績だ。ひとつの布石となるだろう。

僕はこの物語に人種差別が潜んでいるとは思えない。
プライドを持たない者だけが差別を助長する。

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2005年07月01日

東京タワー

・リリー・フランキー「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」

「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」

福岡県に生まれ、筑豊と小倉で育った著者の初の長編小説。雑誌「en-taxi」で連載されていた同作品の単行本化。

エッセイストとしても名を轟かせていて、その鋭い視点と時たまのエロとウィットに富んだ理論で、そして完璧なまでもの惚れ惚れする文章で多くの読者を掴んでいる著者が今回描いたテーマは「母親、上京、昭和」。

筑豊と小倉を舞台に、そしてやがて著者が東京に上京し、そこで再び始まる母親との共同生活。

いつも繰り広げられるその放埓なギャグとは違い、おそらく自伝となるこの作品、著者は恥ずかしくも自身のマザコンっぷりを披露している。

でもなんだろう、彼のマザコンは一人っ子であるがゆえの「お母さん想い」がしっかりと描かれていて、そして母親が自分の息子におくる「無償の愛」が作品にちらばめられているので、全然ベタついていないし、むしろ清清しい。

より作品の普遍性を高めている。

これは名作だ。

僕はどうしてかこの作品を読むたびに故スタンリーキューブリックが温めていて、かのスピルバーグが手がけた映画「A・I」のラストシーンを思い出す。この映画の根本的なテーマもまた「無償の愛」であると僕は信じているからだ。

小説中の北九州訛りのセリフが個人的に好きだ。どこかのコラムにあるのかもしれないが(確認はしていない)、この北九州訛りで纏められているおかげで本作品はエッジが際立っているのではないだろうか。それは九州から上京してきた人間の持つ故郷への掛け橋であり、拠りどころであり、東京に住む地方出身者のアイデンティティでもある。

ぜひお勧めしたい。

子供から母親に伝える最大の感謝がここにある。

きっと泣くだろう。でもそれは正しいことだ。



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2005年06月03日

にっぽん劇場写真帖

・写真=森山大道 テクスト=寺山修司 「にっぽん劇場写真帖」

「にっぽん劇場写真帖」

戦後日本の60年代後半以降を圧巻し、人々を凌駕した鬼才二人が写真とテクストで幻想魔牢へと誘う衝撃の写真集。

ブレ・ボケ・アレと称される前衛的写真を打ち出し、とことんと写真を解体し、また構築する作家である。

ポスターの写真をカメラで撮り直して作品にしたことは有名。

コントラストが激しいモノクロ写真はざらついていて、綴られている作品がすべて白昼夢のような、誰かが見た悪夢のようなフラッシュバックに近い写真である。

みんなは写真を見て、異様な喉の渇きを感じたことがあるだろうか?それとも暴力が描かれていないのに気配を感じたり、泣きそうになり、その写真から滲み出る自己肥大を感じ、昂奮したことがあるだろうか?

僕はこの写真集が初めてだった。

この写真からは常に作家の気配と苛立ちと写真を解体してかつ写真の世界を導き出すパワーを受ける。

そして寺山修司のテクストが拍車を掛ける。時代が選んだ最高傑作。

『にっぽん劇場写真帖』 1968年 室町書房 は初版と共に伝説となり、今は絶版。

市場に出回ることもほぼ皆無。もし出ているとしたら、幾らなんだろう?6万円ぐらい?

1995年にフォトミュゼ版として『にっぽん劇場写真帖』は復刻されるが、惜しくもこちらも絶版。
ごくたまに市場に出回っている。5000円-10000円程度。

森山大道のオフィシャルサイトで、FLASHを用いて、現在入手が不可能な絶版となった写真集を眺めることができるので、お勧め。きっと画面から眼が離せないだろう。


森山大道 オフィシャルサイト
http://www.moriyamadaido.com/

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2005年05月13日

幸運の25セント硬貨

・スティーブンキング 「幸運の25セント硬貨」

「幸運の25セント硬貨」

『Everything's Eventual: 14 Dark Tales』に収録された14の物語のうち、「なにもかもが究極的」、「L・Tのペットに関する御高説」、「道路ウイルスは北にむかう」、「ゴーサム・カフェで昼食を」、「例のあの感覚、フランス語でしか言えないあの感覚」、「一四〇八号室」、「幸運の25セント硬貨」の7つより邦訳出版された短篇集。

題名だけでも恐らく食指を扇情されるのではないだろうか。ましてやスティーブンキングが作者なのだから、それはもう正統的なホラーから、ホロリと涙が流れる傑作まで、ほんと幅広い。それぞれの冒頭にストーリーに対する作者からの言葉も寄せられているのがファンならずとも嬉しいものだ。

スーパーでアルバイトをしている若者が、ひょうんなことから自分のその特殊な能力に気が付き、やがて職業的超能力者として束の間のアメリカンドリームを歩む「なにもかもが究極的」。ペットにまつわる夫婦のイザコザから始まり、急展開をして息を呑む軽快な構成の「L・Tのペットに関する御高説」。気味の悪い絵をフリーウェイの途中の路上マーケットで購入したことから次々と不可思議な事件に巻き込まれる小説家の物語、「道路ウイルスは北にむかう」などなど。

いやあ、キングの小説は短篇も非常に捨てがたいね。むしろ、短篇だからこそ味わえる楽しさがきっとある。

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2005年05月12日

ロマネ・コンティ・一九三五年

・開高健 「ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説」

「ロマネ・コンティ・一九三五年 六つの短篇小説」

「玉、砕ける」、「飽満の種子」、「貝塚をつくる」、「黄昏の力」「渚にて」「ロマネ・コンティ・一九三五年」の六つの物語から成る短篇小説集。昭和53年に集英社より刊行。

開高健の有名な中国の挿話である〝馬馬虎虎(マーマーフーフ)〟も最初の小説に登場。

氏はこの挿話が大変お気に入りのようで、大抵の作品に現われている。きっと読者にも馴染みやすいだろうと思う。

中国語で、黒か白か、右か左か、と尋ねられたときにどっちともおぼつかない答えをして切り抜けたい時、昔の中国人は「マーマーフーフ」と答えたのだって小話。馬とも見えるし虎とも見える、どちらともいえないけれど。先人の知恵である。

今回、この小話が登場するのは香港の九竜半島。半自伝的のような物語が続く。

ベトナム戦争中のサイゴンでの阿片体験。南国の騒音。ムッチリとした熱帯独特の空気が揺れる。

文章にストイックな氏であるからこそ、読みやすく、親しみのある酒場のスツールのような、心地よいレコードのようなそんなストーリーばかり。

ヨーロッパの映画を観るような気分で。

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2005年05月11日

ほぼ日刊イトイ新聞の本

・糸井重里 「ほぼ日刊イトイ新聞の本」

「ほぼ日刊イトイ新聞の本」

一世を風靡し、時代を飾ったコピーライターが、新たにインターネットという遊び場をみつけ、その無限とも思える可能性に一気に魅了され、自分の仕事と両立もし、試行錯誤を繰り返しながら、やがては一日の訪問件数が100万というマンモスホームページになるまでのドラマを描いた一冊。

ホームページ開設してない人でも開設している人でも、きっと愉快に、そしてタメになる筈だ。特に技術的な指南書ではないが、ホームページを開設するのに、さほどの知識を必要としないいまだからこそ、〝そのページの在り方〟というのは重大であり、言い換えてみれば〝コンセプト〟次第で、自分の想像もしないページに化けることだってあることを教えてくれる。

「あえてタダでもやりたいことをしたい」連中と一緒に、自分の仕事(要は収入源)もして、インターネットというメディアでアイデアを出していって、仕事だか遊びだかわからない楽しさで何かを作っていくという作業。いいっすよね。

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2005年05月10日

もう、家に帰ろう

・モデル=田辺あゆみ 写真=藤代冥砂 「もう、家に帰ろう」

「もう、家に帰ろう」

トップファッションモデルの妻と、人気フォトグラファーの旦那が撮る日常的な3年に亘る私生活。

おおよそ見開きに1枚づつ写真とそれぞれのキャプションが載せられていて、ページをめくるたびに、人気モデルである妻の可愛らしい仕草と、一瞬の表情が実に上手く捉えられている。

藤代冥砂 は、非常に、人物の─とりわけ女性の─溢れるばかりの感情をフレームに収めるのに長けていると思う。「ライド!ライド!ライド!」もそうだし。

これは本当に愉しい写真集だ。田辺あゆみ の愛し愛される顔や動作がなんとも言えない。羨ましさにも似た想いが沸いてくる。あまりにも、その愉しさが永遠ではなく、時は過ぎるものであり、それでも写真は瞬間を捉える道具であると知ると、切なさすら込み上げてくる。それほどまでに美しい日常。

僕は藤代冥砂 のキャプションも大好きだ。言葉にストイックであり、短いけれど名文家だ。文章が艶々している。言葉に息吹が宿る。

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2005年05月08日

小さなスナック

・ナンシー関 リリー・フランキー 「小さなスナック」

「小さなスナック」

2002年、虚血性心不全のために、39歳という若さでこの世を去った稀代の消しゴム版画家 ナンシー関 と、イラストレーターやエッセイストと多彩をあますことなく放っている、いまや数々の雑誌やメディアを賑やかしている リリー・フランキー の対談集。

突然の逝去だったので、未完に限りなく近い状態で終了している。

独特の視点から展開する数々の与太話。

Fカップの娘が字が上手くて左利きだとそそられたり、中国雑技団のストイックかつプロフェッショナルな練習ぶりが「何かを得るために何かを失っている」感じでエロいと興奮する リリー・フランキー と、テレビで見たペルー人がものすごい髪型をしていたと切々と語る ナンシー関 の23本のストーリー。


他の著書もそうだけれど、この対談集を読むと、改めて惜しい人が亡くなったのだなと痛切に感じる。ナンシー関 の絶妙のテレビに対するツッコミはこの本には見られないが、そのツッコミの原型とも呼ぶべき宝石のような眩しい話がたっぷり。

そして、これまた名エッセイストの リリー・フランキー の妄想茸がたっぷり生い茂ったエロ馬鹿話。一気に読めるはず。

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2005年04月18日

ジパング少年

・いわしげ孝 「ジパング少年」(ビッグコミックス全15巻)

「ジパング少年」

80年代後半から90年代初頭に掛けて管理教育の社会問題があった。

いまみたいな〝ゆとり〟教育と呼ばれる時代のずーっと昔の話。

学校という場所では、生徒は管理されて当たり前という状態で、日本全国厳しい校則の学校があり、ポケットを縫いつける校則(なぜならポケットに手を入れて歩くというのは、〝風紀を乱す〟行為だからだ)や、男女が5m以内に近づいてはいけない校則など、あまたにがんじがらめのルールが存在した。

生徒の個性というものは存在しない、そんなものは必要ないのだ。その社会問題は僕が記憶する限りで「女子高生校門圧死」事件でピークを迎えていたような気がする。

これを読まれている方の中にはご存知無い方もいらっしゃるかもしれないので、少しだけここで触れたいと思う。

この事件は、1990年(平成2年)7月6日午前、神戸市西区の兵庫県立神戸高塚高校で、遅刻の為に校門の門扉に挟まれて生徒が死亡した。その学校では始業の時間に間に合わない生徒が居ると、チャイムに合わせて豪気に門扉を閉めるのである。

その教師がゴロゴロと扉を閉めた音に驚き過ぎた生徒が鉄製の扉に挟まれて死亡したという事件。とにかく信じられないことに、たかだか10年前では、遅刻だけで生徒が死ぬという時代だったのだ。

ただ、そういった学校教育の歪みについて論説指摘をかますのが今回の趣旨ではないので、元に戻すと、このマンガ「ジパング少年」の主人公である 柴田ハル は、そんな管理教育に反抗し、その矛盾したシステムを、自分と自分の僅かな友人以外はおかしいとすら思っていない日本の風潮を何とか壊し、日本の外へ飛び出そうと頑張る高校生で、このマンガはそんな不器用でもある彼らをめぐる物語だ。

徹底して教師に対し〝イエスマン〟が求められている学校なのに、禁じられた生徒総会を開催しようとし、退学を賭けてまで、文部省の望む通りに仕立てられている学園祭のジャックを、同じく同級生が主催しているインディーズ系で人気を誇るパワースラムスの野外ギグを校庭でぶちまけることで企て、既存の体制を覆し、全校生徒を参加させることで風穴を開けようと奮闘する。

このあたりのシーンは、たとえ高校生じゃなくても今読んでも昂奮する。

結局、退学となった 柴田ハル は、同じく退学になったペルーからの帰国子女の 森ととら 、既に退学となった 祖父が臨教委員で巨大コンツェルンの御曹司である 城山ひとみ、そして 父親がプロディーサー、母親が有名女優である かんな と一緒に南米に旅立つ。

そのようなバッググランドに大きく苛立ち、ひとみ も かんな も両親と本当に求める自分とのギャップに反抗をしてきたタイプなのだ。

やがてオーロレ(ガリンペイロ=ポルトガル語で、一獲千金を夢見、南米アマゾン川流域で金掘りをしている労働者の総称)を目指し、イタリア人カップルの ロッキー と ソフィア と出遭い、失われたインカ帝国の黄金伝説 ビトコスを見つける。

しかしビトコスは結局のところ部外者が触れるべくモノでは無いことを理解する。それはインカ民族のためにあるものだったのだ。南米まで旅たち、多くの人々の死にまで遭遇した17歳の少年たちは振りだしに戻ってしまう。イタリアに帰国するというロッキーたちと別れ、ハル 達が最後に気づく。

南米の最南端で感じるモンゴロイドである自分のルーツ。

自分の日本人たるルーツとは何か、日本の自分に合うことのないシステムを嫌い、それでもなぜそこまでして日本にこだわり、日本人であることを考えてきたのか。ハル 達が出会ったのは遥か一万年前にアジア大陸を越えてやって来た純粋モンゴロイド(ファーストアメリカン)。そこで自分の求めていたゼロの感覚に身を震わす。


旅、南米、ガリンペイロ(黄金掘り)モンゴロイドロード、ビトコス。

名作である。放浪癖がふつふつと沸く。旅に何かを求めるすべての人に。


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2005年04月01日

en-taxi 9号

今号(9号)の en-taxi の特集のひとつに 開高健 をめぐる対談が掲載されていた。対談者は 黒井千次 。

en-taxi は扶桑社刊の季刊誌で文学系の雑誌である。携わっている方々の面子が色濃く、 リリーフランキー、福田和也、坪内裕三、石丸元章 といった文学界のgonzo(ゴンゾ-)達がラインナップだ。


連載モノ、単発モノとそれぞれ珠玉の内容で、特に創刊号から続いていて、今号でついに最終話を迎えた リリーフランキー の「東京タワー」は間違いなく泣ける小説である。

北九州小倉で育った同氏の回想録に近い物語で、非常にリアルスティックに当地の情景が描かれている。丸源、魚町とか、門司港などなど。

セリフが北九州弁なので、九州から東京に上京している人だったら、きっと強いシンパシーを感じるんじゃないかな。思わず故郷を懐かしむことだと思う。僕は北九州で育ったわけじゃないけれど、仕事の関係で半年近く住んでいたので、そんな北九州弁の物語を、北九州が舞台となった物語を読むと、グッと胸に迫るものがある。

ネタばれになるので詳細は割愛するが、今回のメインにあるセリフを少し。「オカン・・・。オトンがこんなこと言いよるよ。」どうしてこのセリフが登場するのか読まないと掴めないんだけど、僕はもうこのあたりでじわっと目に潤むものが。書籍化を強く期待したいところである。

*

開高健 の対談は氏の17回忌を期に企画されたもので、闇3部作のひとつ「夏の闇」を中心に語られたもの。

同世代の小説家である黒井氏、そして坂本氏。坂本氏は、神奈川にある開高健記念館(NPO)の代表者ということで、彼にまつわる懐かしいエピソードもいくつかお話しされている。

話題となった闇三部作については僕も同じ印象を持っいていて、つまり「輝ける闇」はルポタージュと小説を組み合わせた手法で描かれ、作中の主人公(=開高)が内面というよりは、舞台としてのベトナムに代表される外部との強い結びつきが描かれている作品だ。

それと正反対に「夏の闇」は、彼の躁鬱質を特徴付けるように、前半では厭世的で鬱質の〝留まることしかできない〟内面的方向が強い人物像を押し出し、唯一の外部である〝久しぶりに遭った女性〟が彼の救済というか、外の世界と結びつける掛け橋のような役割を果たしていて、その破滅にも似た情景を描いている作品。僕はいままで「輝ける闇」が至高の作品かなと評価していた。この作品が一番滑らかに文章が瑞々しく進んでいるからであって、いつだって読むほどにうなされる。もう疑いの余地もなかった。

でも、久々に読んだ「夏の闇」(実は2月あたりから 開高健 の小説、エッセイを読み直している)の印象が、がらりと─まるで勢いよく襖を開けるように─変わっていたのに驚いた。僕の読み方が変わったのかもしれない。それとも文学が取り巻く僕の環境に何かが訪れたのかもしれない。いずれにせよ、こういう作家も珍しい。読み直すとまた新たな発見がある作家は数多くいるけれど、最初に読んだときの印象と再読したときの印象はあまり差がないのが個人的な意見というか経験である。

10年前に読みづらかった部分─選ばれすぎた言葉と文章─が、読み手の僕では消化できなかったし、その物語を覆う薄い膜のような鬱質が馴染めなかった。ところが再読したら、主人公の内面的焦燥、自分を滅ぼしかけないくらいの行く先を失った姿に共感を感じて、主人公自身がなにもかもを喪失しそうだけれど、それでも何とか細い紐にぶらがるように懸命に〝生〟に向かってもがいている情景描写に喉を鳴らした。

氏の作品では本文にエッセンスのようにちりばめられている小話がよく出てきて、それは他の作品でも見かける小話なので、2回目以降はどの作品で見つけても新鮮味が少ない印象だったが、これも以前ほど目にとまらなくなった。

en-taxi にはこういった企画や特集があるので、定期購読している。
ちょっと大きな書店ではないと置いていないかも知れないが、お勧めである。

en-taxi(扶桑社)
詳細

開高健
1957年『裸の王様』で芥川賞受賞。
1968年『輝ける闇』を新潮社より刊行。
1972年『夏の闇』を新潮社より刊行。
1989年12月9日、食道癌に肺炎を併発して逝去。享年58歳。

1990年雑誌『新潮』87巻第2号にて未完作品『花終る闇』が発表。

その多数のノンフィクション、フィクションを発表。

開高健記念会

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2005年03月22日

カイマナヒラの家

・池澤夏樹「カイマナヒラの家」

「カイマナヒラの家」

池澤夏樹のエッセイや小説を読むたびに南の島を無性に訪れたい衝動に駆られる。太陽の照らす限り、目いっぱい波で戯れたあと、日が沈み掛ける時間に、地平線の彼方にある真っ赤な夕陽を、まだ熱を持っている砂浜に寝転がりながら眺めたい気持ち。

心地よい疲労感と良く焼けた肌。

*

本小説はハワイを舞台にした物語で、本編のエピソードにもあるように、ここに出てくる登場人物はハワイのことを〝ハワイイ〟とこだわりと尊敬を持って発音する。そのあたりが作者のハワイイに対する譲れない想いが込められているのだろう。

物語の進行は、実際に〝ハワイイ〟にある同題名の家を舞台にした、主人公の〝ぼく〟が巡る、波乗り達の愉しい生活だ。ロビン、ジェニー、サム、お春さんといった登場人物達との共同生活が爽やかに描かれている。

文体自体が村上春樹の初期作品に通じるような透明感のある文体で、人によっては好き嫌いがあるかもしれないけど(それは村上春樹にも言える)、映画のシーンを抽出したような展開と洗練された会話のセンス、そして一章節がショートスタイルなので、長い物語はちょっと・・・という人でもきっと読みやすい。

常夏の物語なのに、きっと読み終えると何ともいえない切なさがあることだろうと思う。

日本人が持ちえる季節を巡る夏の終わりが、主人公の〝ぼく〟が感じ取っている「いずれはこのカイマナヒラの家を去らなくてはいけないんだ。そしてハワイイの永遠とも思える生活も」という気持ちと重なっているからではないだろうか。

常夏ハワイイでもそこで織り出される物語は必ずしも永遠ではない。サーファー達にとっても、そして人生にとって同じ波は一つとしてないのだ。

かけがえのない過ぎてゆく時間と切り取られた美しい日々。変わることのない夏の季節と相反して描かれている〝やがてそれぞれが歩む暮らし〟に、哀愁と希望が奏でられている。

ワイキキだけがハワイイでは無い。いつか行ってみたいと思った。

作中に散らばる星砂のような 芝田 満之 の写真もハワイイの美しさを余すことなく描写していて、より一層に旅の心を掻きたてる。

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2005年03月08日

THE3名様 5巻

深夜のファミレス「サニーデイ」に夜毎に集まる〝限りなくニートに近い〟3人組、ミッキー、ふとし、まっつんが繰り広げる日常漫画。

深夜のファミレス午前2時。

そこにあるのは、どうしようもない発想とたわごととペーソス。誰もがあの頃に通過したファミレス模様を余すことなく表現する漫画。最強です、これ。

深夜のファミレス。ソファに寝転ぶ3人

ふとし 「よく見えるよー、今日はー、雲の流れが・・・」
ミッキー「あ~~」
ミッキー「あ・・・」
ふとし 「ん・・・?」
ミッキー「星座、つくんね? 新しい・・・」
ミッキー「何かできそうだべー さそり座よりつえーやつ」
ふとし 「あー」

THE3名様第5巻 〝シェフの気まぐれピッツァの章〟
第16話『冬の散歩道』より一部抜粋。

ファミレス七段、人生初段。今回の帯のタイトルは「店長、またあいつらです」

2巻以降、単行本がリリースされるのが早くなったのが嬉しいかぎり。
スピリッツで連載中。

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2005年02月28日

─俺マイ読書─

・辻 仁成 「旅人の木」

「旅人の木」

両親の葬儀をきっかけに、何年も音信不通の兄を探す主人公。兄のアパートを訪ねると、そこには誰も居なかった。東京を舞台に、兄を知っている何人かの女性や、兄が働いていたというデパートの屋上にある植物園の同僚を手がかりとして、空白の時間を埋めていく弟。兄はいったいどこに?兄が本当に求めていたものは?

辻仁成の作品のテーマにしばし見られるレーゾンデートル(存在理由)とは何か?が如実に描かれた作品。過去と現実を交錯させながら、自分の知ることのなかった兄の一面を、彼を知る人達を通じて、さらに兄に近づこうとして、自分に投影し、自身を知ることとなる弟。脆いまで東京のドライな人間模様を描いた作品。いささか題名と内容の差異が気になるのが残念。インパクトのある題だけに物語が埋もれてしまったか。

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2005年02月24日

ホワイトアルバム

秋よりも春のほうが感慨深いというか、日本では春は別れと出会いの季節なので、わりとしんみりしちゃう人は少なくないと思う。

いつでもいい、とにかく思い出のある時期の当時聴いていた曲を聴くと、普段は考えないような昔をふと思い出したりとか、長い冬が終わったあとの日が長くなった春の暖かい黄砂の最中にセンチメンタルになったりとか。そういうのってないかな。

僕はというと、春といえば、高校に上がる前の中学3年生の三学期か、やはり高校を卒業する前の3年生の3学期を強く思い出す。どちらも大人になりきれていないけど一生懸命背伸びして突っ張った時代で、少年である自分とこれから大人になりつつあるんだと微妙な狭間にいる、なんだか恥ずかしい、でも、その青っぽいも悪くない。そんな時代。

僕の高校は私服だったので、学ランという制服は中学までだった。受験も終わった3学期、これから進学する高校はバラバラになるという小学校からの同級生や、高校もまた一緒になる友人と、これからの高校生活へ向けて希望と不安を入り混ぜながら帰宅途中の公園でよく遊んだ。

公園のベンチや手すりに座りながら時間も忘れ、語り合った。季節はやっぱりだんだんと暖かくなっていて春の訪れを感じることができた。僕らはいつまでも家にも帰らず、自分の長い影をボンヤリ見たりして行く末を語ったりした。

あの頃の僕らは15歳の自分達しか持つことの出来ない何かを手応えのように肌で感じていたと思える。それは14歳じゃ早すぎるし、16歳じゃ遅すぎる言葉に顕わせない脆い何かだった。

学校の廊下で日常的に繰り広げられていた取り止めも無いシーン、大学生と偽って学年で男女関係なしに週末みんなで集まった〝つぼ八〟なんかも記憶から蘇ってくる。

中学生にとって、お酒のある店で呑むというのは随分と祝祭的なイベントであり、とてもスリリングな出来事だ。

つぼ八の「ピンクシャワシャワ」で酔って、慣れない煙草に火を付けて夜を過ごす。そうすると不思議なもので、15歳ながらにしみじみと人生を感じたりした。

飲み会が終わると、クラスメイトの女の子とぎこちなく酔っ払って帰り道を歩いた。時間がいつもよりゆっくり経っているんだなぁと思った。

隣りを向くと、学校では見ることのない大人びた女の子が頬を赤らめ千鳥足状態で腕を組んできたりした。この子もそうだし、僕もそうだけど、自分達がだんだんと大人の階段を昇っているっていう時の流れを、春の風と共に感じた。

なんとも甘酸っぱい回想だね。

春の名作というと、安達哲の「ホワイトアルバム」。

全2巻の少年マガジンに掲載されたコミック。1988年に発売だから多少なり絵柄も古いかもしれない。

それでも"過ぎゆく移ろいの中にある心象〟を描いたら右に出る人は居ないんじゃないかな。

原作・映画に関わらず「スタンドバイミー」の最終場面にジーンとくる人、ガエル・ガルシア・ベルナル主演の「天国の口、終わりの楽園」のやはり最終場面にシンパシーを見た人は是非。


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2005年02月09日

─最近の俺マイ読書─

・山本 昌代 「デンデラ野」

「デンデラ野」

「豚神祀り」「デンデラ野」「春のたより」の短編3部作で綴られる作品。日本の何処にでもありそうな団地で繰り広げられる嫁と姑と核家族を如実に描いた「デンデラ野」。

デンデラ野とは俗に言う姥捨て山のこと。嫁と嫁の長男である自分の三男とその息子に挟まれつつ、自分の老後の行く末にぼんやりと不安を抱きつつも、毎日を過ごす扶養家族のおばあちゃん。おばあちゃんが敢えて家族の集まる居間に布団を敷いて寝るシーンはリアルな現実だ。

今の日本の誰もが直面するような問題と日常を絡めつつ、物語の全編に漂う哀愁がたまらない。文章に荒々しさがあって読みづらい箇所も目に付くとしても、構成がしっかりしているのでさほど苦にならない。 from TK野氏。

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2005年02月04日

─最近の俺マイショッピング─

・吉田修一「パレード」
・森博嗣「スカイクロラ」
・COYOTE「星野道夫」

「パレード」

〝いま〟の時代を顕わす固有名詞を作品にさりげなくちらつかせ、その固有名詞にまで作者の息吹を注ぐことができるのは果たしてこの作家以外にいるだろうか。〝笑っていいとも〟、こんな言葉だって、吉田修一のマジックに掛かれば、変幻自在を起こして力を持つ。
世田谷の千歳烏山のマンションで奇妙な共同生活する若者達5人の物語を、章ごとにそれぞれの視点から描いたこの作品。怖いほどドライな都会の人間関係。ある時、ひょんなことからもう一人増えた共同生活者が登場することによって話が一変し、急展開を迎える。

第5章を読むことによって吉田修一が見た人間模様が浮き彫りになっている。はっきりいって怖い。一文ごとに彼の言葉に対するストイックさが汲み取れる。

第15回山本周五郎賞受賞作。

「スカイクロラ

森博嗣に代表するようなミステリー作家をいままで読むことがなかったので、よい機会と思い、購入。Deltazulu氏お勧めの作家でもある。

遺伝子改良によって生まれた「子供」たちは決して「大人」になることがない。彼らは戦争の戦士として活躍し、感情がなく(というよりは理解できなく)、やはり改良されていない人達から比べれば特殊な存在だ。主人公のユーヒチは優秀なパイロット。戦闘機に跨り、ただ死ぬキッカケを待ちながら今日も敵を倒す。やがてユーヒチは草薙という、やはりキルドレである成長しない子供と出遭い。。。
実際に工学博士という彼が噤む文章は理路整然とした気持ちのよい文章。理系的文系スタイルとでも言おうか、物語のある説明書を(失礼)読むようにスラスラと読める。それはきっと作者のそのような職業的経緯から生まれる意識なんだろうと思う。エッセイも多く出している。。

「COYOTE」

96年、不慮の事故で無くなった星野道夫の特集「星野道夫の冒険 ぼくはこのような本を読んで旅に出かけた」 ズバリ星野道夫の残した蔵書のリストが載っている。

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2004年11月10日

─最近の俺マイショッピング─

アーカイブテンプレート修正 >ココロより多謝 ありぱん、デボラ

─最近の俺マイショッピング─
・米原万里「旅行者の朝食」
・リリーフランキー「女子の生きざま」
・大槻ケンジ「グミ・チョコレート・パイン」グミ編、チョコレート編

「旅行者の朝食」

ロシア通訳として常にトップで活躍している著者が、旅先や幼少の頃に訪れた様々な外国の小話を豊富な知識とウィットな文章で綴る。自身もよくおっしゃっているように食に対して並みならぬ興味をお持ちで、それだけに読んでいると思わずお腹がギュルギュル鳴りそうなエピソードばかり。愉しい想像と共に遊べる一冊。
東海林さだおの丸かじりシリーズ(*)を外国で読むほど辛いものがないと言ったあたりは膝をピシャリと叩きたくなるぐらい頷ける。

*東海林さだおの丸かじりシリーズ
読めば読むほど腹ぺコになると言われて名高い。食べ物の描写が巧く、絶対に本を閉じた後何か口にしちゃう効力がある。
だいたいとして日本食のエピソードは旅先の外国なんぞでうっかり読むとリアルすぎて気が狂う。
僕は実際にバリのウブドゥにある古本屋でこのシリーズの「キャベツの丸かじり」をうっかり読み、死ぬほど荻窪のラーメンが食べたくなって、にっちもさっちもいかず悶えたという痛い想い出がある。

「女子の生きざま」

いまだイラストレーターという位置づけなのかどうか不明だけれど、リズムの良い選び抜かれた文章で人気上昇のエッセイスト。
雑誌En-taxiで小説も掲載しており、その「東京タワー」はまたいつもと違う著者のピュアな面が見れて、泣ける作品。
福岡出身の彼の半自伝的なこの小説は遠賀とか小倉とかも舞台になっている。

表題の「女子の生きざま」は女の子と女性のはざまの"女子"という時代をどのように過ごすかがテーマ。過ごし間違えるとトホホな人生を送ることになりますよと著者は書くけれど、靴をごしごし洗えだのといささかトンチンカンなトピックが展開。でも読んでいくうちにそのトンチンカンながらにもちゃんと理由があったりして、納得しちゃうあたりが人気の所以というか天性というか。女の子は読むとムカつくかも。

「グミ・チョコレート・パイン」グミ編、チョコレート編

筋肉少女隊のボーカリストの半自伝的作品。チョコレート編から10年経った後にようやくパイン編が出版されてようやく完結した。待ち焦がれた読者も多いのでは。
ひょんなことから高校じゃまるで冴えない、けれども本当は豊富なロックの知識を持っている登場人物達がやがてバンドを組み、狭い高校から抜け出そうという青春小説。

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