2006年01月18日

コンセント

・田口ランディ「コンセント」

「コンセント」

まず初めに思ったのが、この作者は果たして男性なのだろうか、それとも女性なのだろうかという疑問だった。

もちろん、ランディという名前が性別を想起させなかったというのもあるけれど、それ以上に彼女のテクストからは、そういった性差を超えた世界観が築き上げられていた。

「コンセント」は引きこもりの兄が自室で衰弱死したことをきっかけに、妹である主人公ユキが〝死〟というひとつの絶対的な行為を抱えて、さまざまな社会的に破綻した人々と巡りあい、なぜ兄は生きるのをやめたのか、彼の死を探し、やがて意識の革命を体験するといった若干の精神論的な物語が含まれた純文学だ。

主人公が女性であるにも関わらず、その主人公から直截的に作者像を投影しない作品は珍しい。

女流というジェンダー的な表現を用いると、彼女は女流作家から程遠い位置にいる。

いや、これは至極個人的な話で話題も飛ぶが、僕は、中村うさぎや室井佑月に代表される作家があまり好きではないようだ。

彼女達の、男なんて要らないわ、でも男が好きなの、男に依存しちゃうというパターンに毎回辟易としてしまう。

単刀直入に表現すれば、彼女達は作品中に男性に対するエクスキューズが無い限り物語が描けないからだ。

彼女達の小説は所詮〝旦那、彼氏とではなくてたまには女の子同士で集まったのよ〟という喫茶店だか居酒屋のよもや話に過ぎない(ああ、こんなことを書くと、僕はまた貴重な女の子の友達を失うのだろう)。

山田詠美にしても残念ながらそうだ。彼女の小説のキーワードは〝黒人〟あるいは〝シスター〟であることは周知の事実で、主人公達の多くは、『私はシスターである』と自負している。

でも、果たしてそうなのだろうか?

ある一人の男性を理解することが、延長として彼の人種的特徴の理解に結びつくのは安易なプロットである気がする。

僕が彼女のテクスト(黒人に絡む一連のテクスト)から感じるのは、彼女はシスターであるのではなく、シスターになりたがっているだけだという裏返しの感情だからなのかもしれない。

それは非常に哀しい。黒人の歌い方を真似てヒットしているJ-POPの歌手と同じくらいに哀しい。

自分のことをブラザーだと信じているアジアのストリートの若者達と同じくらいに。

もちろん彼女の小説は素晴らしく、切ない気持ちになる作品が多いし、「ぼくは勉強ができない」という作品は珠玉の作品だ。それでも、黒人のテーマとなると色褪せてしまうのは、彼女が永遠にシスターになれないと予感させるからなのかもしれない。

しかし、そのような男性に対するエクスキューズを用いなく物語を構築する作家が台頭してきた。田口ランディの小説はモチーフとしての男性に依存していない。

これは新しいことだ。

さて、話は戻り、「コンセント」だが、発売当初から、質の高い文章力ということで話題になった作品であり、僕も友人よりその噂を耳にして、すぐに手にした。そして、ズイズイと田口ランディの紡ぎだす小説の世界に引きずり込まれて、一気に読んでしまった。

あとがきですら気が許せなくてハラハラした小説は本当に久しぶりだった。

あとがきにヤコペッティを持ってくるなんてどうかしているって思わないかい?

他人との共鳴、救済、孤独の中にあるシンパシー。深層心理学からシャーマンまで。

何度でも読み返すことのできる作品だ。

盗作疑惑から初版と重版で内容が差し変わっているので注意。

僕としては、初版の薄雹を包むような壊れそうな新鮮さを味わって欲しいと願う。

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投稿者 ko : 2006年01月18日 19:19 | トラックバック(0)
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