天国の口、終りの楽園【2001年 メキシコ】
監督:
アルフォンソ・キュアロン(Alfonso Cuaron)
キャスト:
フリオ --ガエル・ガルシア・ベルナル(Gael Garcia Bernal)
テノッチ --ディエゴ・ルナ(Diego Luna)
ルイサ--マリベル・ヴェルドゥ(Maribel Verdu)
高校生のフリオとテノッチはエッチなことで頭がいっぱいの世界中のどこにでもいる高校生。
ガールフレンドと性を貪り、悪い友達をこっそりと煙草を吸ったりする毎日。
お互いのガールフレンドが旅行に行ってしまった彼らが次に目をつけたのは結婚式で出会ったルイサ。
ルイサを誘う口実として、2人はでっち上げた幻のビーチ「天国の口」に行こうと誘う。
そして3人は出かけることになるが、やがてルイサはそれぞれの高校生と関係を持つようになり…。
本作品は、最後のシーン、親友だったフリオとテノッチが夏の出来事とともにお互い疎遠になり、ばったりとカフェで会うその偶然のシーンまでの長い長い伏線なのだ。
あの年頃の若者だけが持つ、感性と感冒性の熱のように過ぎ去った友人との出来事を回想するために描かれていると僕は思う。
友情、裏切り、再会。がむしゃらでナイーブな世代。
そのために監督はルイサさえも失わなくてはならなく、過激な性描写を画面に映し出さなくてはならなかった。
R指定もさながらそのポルノチックなシーンに批判が多い。
でもね、高校生だもの、エネルギッシュでいいじゃないかと僕は思う。
「スタンドバイミー」でキングは〝あの頃のような友達にそれから会えなかった〟と夏を回想しているけれど、「スタンドバイミー」が〝最初からノスタルジック〟に包まれるのと異なり、「天国の~」は、冒頭からロードムービー色が強く、そして最後の手前までロードムービーとして仕上げている。
しかし、観客の視点を高校生の夏の腕白さかりなエロティシズムと放埓な振る舞いに絞りつつ、土壇場で一気に切ない気持ちにさせ、物語を昇華させているあたりがこの映画の見所であり、批判もさながら魅了のある映画として人気が集中しているゆえんであり、監督の凄いところなのだ。
そういった意味でこの映画に流れる総てのシーンが、カフェの再会のために必要な素材となりうる。
ガエル・ガルシア・ベルナルはいわずとしれたメキシコを代表する若手俳優の一人。
1978年生まれの甘いはにかむ笑顔の俳優は、いたる作品で引っ張りだこだ。
チェ・ゲバラの半生を描いた「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2003年)でゲバラ役を、「dot the i」(2003)でサスペンス物に、「バッド・エデュケーション」(2004年)でスリリングなゲイ役をこなしている。
監督のアルフォンソ・キュアロンは「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(2004)を手がけている。
ノスタルジック度★★★★★
伊豆高原駅のやまもプラザの1階にある「いちやま」。
店内に入ると、スピーカーから演歌が流れているカウンターで主人がテキパキと仕事をこなしている。
写真は鯵刺身定食。
懐かしい黄金色のすり金を使って、生ワサビをコシコシとおろす。
鯵専門店と名高いだけに、地元の鯵を惜しみなく提供している。
たっぷりと捌かれた鯵はプリプリとほんのり海の香りがして、何杯でもご飯が食べられる。
たっぷりとおろしたワサビを乗っけて召し上がれ。
他にも釜揚げシラス丼や八丈島で獲れた鯵の料理など、定食以外も豊富。
いちやま
静岡県伊東市八幡野1183伊豆高原駅 やまもプラザ内
釜あげシラス丼 --\1050
サバ塩焼膳 --\1050
鯵丼 --\1260
全室オーシャンビューの落ち着いたモダンレトロを基調とした、明治21年からの老舗の宿である「河津海苑」に隣接の食事処。
料理長が自ら仕入れる伊豆で獲れる新鮮な地元の魚介類が食べられる店である。
食事後は「河津海苑」の温泉に入浴することも可能。
写真はイカの塩辛。
少し濃い目の塩辛がイカのワタのコクとマッチングしている。ワタ次第で塩辛は出来が左右されると個人的に思う。ここのはじつにいい塩梅である。歯ごたえがコリコリで美味しい。
修善寺方面にある小さな蔵元「万大醸造」の辛口「あらばしり」と一緒に。
「あらばしり」は700円(4合 720ml)と廉価なのでお土産にも受けあい。
キュっと冷やして辛口を愉しもう。
こちらは金目鯛の煮付け。
夏の終わりから旬の魚。脂の乗った金目鯛に甘辛いたれで煮付けてあり、生姜といっしょに食べる。
こってりとした伊豆の地魚ならではの味。
ホクホクと肉厚の身をほぐして食べる。絶品。
写真は海苑定食。
お刺身と天ぷらの定食。茶碗蒸や小鉢などなど。
巨大な蟹の足の入った味噌汁は、それだけでダシがたっぷりと出ている。
散らした葱が海の風味と見事に調和。
鯵の天ぷらはそっと箸で持たないと崩れちゃうぐらい柔らかい。太陽を浴びたような眩しい衣から覗く白身から湯気が出る。
これはお刺身。
金目鯛は煮付けが一番だと思うけど、刺身も捨てがたい。
プリっとした歯ざわりの刺身。煮付けとも違うサッパリとした味でもあるから不思議だ。
地元の季節の魚を丁寧に料理する店として貴重なところである。
立ち寄りでフラっと入って温泉を愉しもう。
膳処海苑
静岡県賀茂郡河津町浜358
11:00~15:00、17:00~20:00(各LO10分前)
水曜定休
あわびおどり焼き定食 --\3780
海苑定食 --\2415
さしみ定食 --\2415
塩辛 --\420
ばい貝 --\630
金目鯛の煮付け --\1260
あらばしり(冷酒) --\735
9月11日の総選挙で、自民党に対抗するべく多くの新党が立ち上げられ(たとえば国民新党、たとえば新党日本)、郵政を民営化するかあるいは現状のまま残すか、その一点が注目されてしまいがちだが、非常にキケンがある。
単一の郵政法案だけが着目され、そのまま総選挙になだれ込むのではないだろうか。
今後の総選挙で4年の任期が決定されるわけだが、郵政民営化は【構造改革】の単なる一端でしかならない。
日本が内外に抱えている諸問題は数多くあり、新党の、あるいは自民党の、つまり郵政法案以外の〝声〟以外は残念ながら僕らには届かない。
僕はこんなことを書きながら、じつは選挙に投票したことがない不遜な者で、今後も選挙いかないだろうなとボンヤリと考えているわけだが、4年の任期を踏まえて投票をするべきだ(って僕がいうことじゃないね)。
五輪をすぐそばまで待ち構えて、人民元の切り上げを行なう中国に対してどう指針をとるのか、対米重視の政策をどのようにシフトチェンジするのか、団塊の世代が一斉退職する未曾有の時代をどう乗り越えるのか。自衛隊を中心とした憲法改正は?
郵政事業は小泉内閣が打ち出した【構造改革】の一つにすぎないことを、いま一度認識するべきだろう。
・高野文子 「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」(アフタヌーンKCデラックス)
「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」
この本自体は漫画だけれども「読書」の楽しみと図書館の大切さを教えてくれる作品を「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」と宮本輝の「星々の悲しみ」以外に僕は知らない。「星々の悲しみ」は受験生の持つ束縛に対する歯痒さと〝生きる〟意味と読書の素晴らしさを教えてくれた。
この「黄色い本―ジャック・チボーという名の友人」もまた「読書」がどれだけ素晴らしいことかを、僕らに教えてくれる。
漫画だからって読まない人は絶対損をする筈だ、請け負ってもいい。
物語の中心にいるのは、ロジェ・マルタン・デュ・ガール原作、山内義雄訳の若干と時代錯誤の本「チボー家の人々」に夢中になる高校3年生の美地子。
舞台が新潟の雪山なので作品中のセリフもすべて新潟弁で語れている。
裁縫が上手な彼女は家のミシンの手伝いもこなし、卒業後の行く末はメリヤス工場という評判のよいメーカーに就職するのを期待されている。
長い冬、卒業までの時間、彼女の心を捉えたのは図書館で借りた「チボー家の人々」のジャックだった。
「チボー家の人々」から人生で大切なことの多くを学ぶ彼女。
通学中も、深夜に家族が寝静まった後もひとときも本から目が離せない。でもそろそろ読書も終わりに近づいてきたのだ…。
いま思うと、僕はもしかしたらだらしなく読書をしているのかもしれない。
「チボー家の人々」のジャックと革命について語る実地子が羨ましくも思った。
全5巻を読み終えて、ジャックにさよならを告げ、革命とは離れてしまうが自分がメリヤス工場に就職するであろう旨を報告する実地子に憧れたりもした。
僕もたしかにそうやって読書に身を焦がした時代があったのだ。
あれはいつのことだったのだろう?
いつのまにかルーティングワークのような読書生活になってしまった。
ラスト数ページに書かれている春も訪れる頃、実地子がそっと図書館に本を返却する場面は忘れることが出来ない。
高野文子の虜になる。
最後に。
実地子が読書の終える頃、彼女の父親がポツリという一言。
「好きな本を一生持ってるのもいいもんだと俺(おら)は思うがな」
身に沁みるセリフである。
些細なことを書こうと思う。いや、思ったことがある。日常の過ぎ行くたわむれの日々の出来事が脳の奥底に埋もれてひっそりとしている。
普段は思い出すことはない事実。
僕のなけなしのプライドに賭けて誓うけど、忘れようとしたわけじゃない。ただ思い出すことがないってだけだ。いやな出来事でもなんでもない。
むしろ思い出すと甘酸っぱい気持ちで満たされる自分に驚くことだってある。
僕にもあるし、きっと君にも在ると思う。
その記憶の一片が何かのきっかけで蘇ると、僕は可能な限りその記憶に忠実なように何らかのカタチで残そうとする。
また思い出さなくてもいいように。その記憶が留まるように。
でも、無理だ。
あまりにも事実を再現する手段を僕は持たない。
記憶は言葉となり世界を駆け巡ろうとも僕にはその隔たりを埋めることができない。
イッツゲームアウト。
言葉は無力だ。だけど、無力なだけ僕らは懸命に何かを語ろうとする。
何かを伝えようとする。だから僕も試してみよう。トライ・トライ・トライ!!うまくゆくかもしれない。
*
*
僕が夏の終わりになぜか思い出すのは、中学2年か3年の取り止めもない授業中のヒトコマだ。
それは5時間目で季節は真冬である。
夏に思い出す季節がなぜ真冬のシーンなのか僕には分からない。
なんとなく浮き輪をつけている雪だるまのような回想だ。
*
*
それは静かな本当に静かなごく普通の午後の授業で、外は灰色の雲に覆われていてどんよりとしている。教室自体がシンとしている。
誰かがノートに記す音とストーブの水蒸気の音と時折聞こえる小さな咳の音。こほっこほっ。
教室の外を眺めると、学校に隣接している公園には誰もいない。
当たり前だ。気温なんて零下なんだもの。
15時だというのに車がヘッドライトを点けていてどこからともなく強い風が吹き、落ち葉を散らす。
いまにも雪が降り出しそうな感じ、夕方のような雰囲気でもある。
僕は一番後ろの窓側の席に座っていて、ぼんやりと外の景色を眺めている。みんなは真剣に授業に耳を傾けているのか、しっかりと前を向いている。
耳を澄ますと木枯らしが吹いているのが分かる。
枯れ葉がカラカラと乾いた音を立てて何処からともなく消えてゆく。
僕はなるだけ先生に気がつかれないように耳を外の世界に傾ける。
そして、それと同時に僕は普通の中学生なので女の子のことを考えたりもする。
女の子。
僕がこの当時の女の子で思い出すのは同じクラスに居たお下げの似合う女の子だ。
魔女みたいなお姉さんみたいな感じのする子で、授業中に目を合わせるのが大好きな女の子だった。
中学2年なのに随分と色気のある子。
理科室の授業がもっとも目を合わせてくる時間で、僕の名前はコで始まって、彼女の名前はヨで始まるからちょうどテーブルをひとつ挟んで向かいあわせるような感じになり、黒板を見ない限り僕らが見詰め合う環境は十分にあった。
なんとなしに彼女をみた瞬間から彼女は決して視線を外さないで僕を見詰めた。
そして僕も彼女を見詰めた。
彼女に見詰められるとジェットコースターに乗り合わせたようなドキドキとした疾走感いっぱいだった。
時速150キロの理科の時間。
いつしかそれが二人の暗黙の了解ともなり、僕らは理科の時間があるたびにただ見詰め合っていた。
一度、6月の終わり頃、教室まで2人きりで帰る機会があり、長い廊下を2人で歩いた。
心臓の音で廊下のガラスにひびが入るんじゃないかと心配したぐらいだ。
クラスの中で一番最初に着いた教室は電気が消されてて、誰もいなくて、僕らは授業の延長のように見詰め合って、まだ同級生が戻らないその時間、なんとなくキスをした。
別にどちらから誘ったわけでもない。ただ廊下側の壁に寄り沿う姿勢で唇を重ねただけだと思う。
ごく自然の行為だった。吸い寄せられる磁石のようだ。
それとも、もしかしたらその当時僕らが持つ性的な興味の情熱に巻かれたのかもしれない。
彼女は小さくバカと言って僕の肩に顎を乗せようとしたけれど、同級生が戻ってきたので僕らは焦って離れた。
それから僕らには進展は特になかった。
放課後の掃除の時間、箒を渡す時、わざと手が触れてドキリとしたぐらいだ。
元々付き合っていたわけではないから会うこともなかったし、ただ僕らは何事もなかったようにまた理科の時間になると見詰め合った。
その子のことを僕は外の冬景色を見て何処に辿り着くわけでもない状況で考えたりする。
不思議な気分だ。
僕はいま21世紀にいながらも20世紀のあの頃のことを想い出している。
冬を想うかぎり、あの頃はいつもシンとしていたような気がする。
そして回想の世界の僕はさらに戻った当時の夏の季節を想ったりしている。
あの子たちは何処に行ったんだろう?
うまく21世紀と付き合っているのだろうか。
僕みたいに時々20世紀に迷い込んでいなけりゃいいけれど。
でも、もしあの子たちも同じように迷い込んでいたら、僕らはまた時速150キロの理科の授業を一緒に受けることができるのかもしれない。
夏休みが始まる前の期待高まる眩しい午後の授業。
蝉の鳴く声と何処かのクラスがやっているプールの喚声。
僕にもあるし、きっと君にも在ると思う。
ウェイキングライフ【2001年 アメリカ】
監督:
リチャード・リンクレイター(Richard Linklater)
音楽:
トスカ・タンゴ・オーケストラ(Tosca Tango Orchestra)
キャスト:
主人公 --ワイリー・ウィギンズ(Wiley Wiggins)
ベッドの男 --イーサン・ホーク(Ethan Hawke)
ベッドの女 --ジュリー・デルピー(Julie Delpy)
2001年のサンダンス映画祭に出品後、注目を浴びた新感覚アニメ映画。
全編を通じてホンモノの映像をデジタルペインティングを施して、トリップ感覚を誘うサイケデリックムービー。
しかもそのペインティングを複数のクリエーター達が手がけているので、タッチが場面によって変化するので観る者を不思議な世界に誘う。
監督はリチャード・リンクレイター。
「恋人までの距離(ディスタンス)」(←!名作!→)、そしてその続編「ビフォア・サンセット」を手がけた1961年生まれの若き監督(あ、あと「スクール・オブ・ロック」とかも)。
「ウェイキングライフ」には「恋人までの距離(ディスタンス)」「ビフォア・サンセット」のイーサン・ホークとジュリー・デルピーが、〝あるシーン〟で出演している。ファンならぜひ観たいシーンである。
夢なのか現実なのか死後の世界なのか?
果たしてよく分からない世界に迷ってしまった主人公。
駅の電話から掛けて向かう筈だったのに、何かがおかしい。
夢から覚めても夢の世界がまだ続いているような奇妙な感覚。ある朝目覚めると、自分の傍に見知らぬ人が立っていて、なにか哲学めいた話をする。
道往く人たちが自分になにか存在意義に訴えるようなことを次々へと話し掛けてくる…。
輪廻転生を語られ、フィリップ・K・ディックが体験したという奇妙なシンクロ体験を語られ、愛とは何かと語られる。次から次へとそんな話ばかりだ。
夢の中に迷い込んだかもしれない疑いのある場合の対処法と見分け方を教えてくる男。夢の中だったら「電気のスイッチを消しても電気は消えない」と言う。そこで主人公が試しに電気のスイッチを消してみると…。
もしかしたら映画として位置付けると判断に困るかもしれない。なぜなら間違いなく「ウェイキングライフ」は体験する作品だからだ。
・・って、そんな説明はボーンシット。糞でも喰らえ、だ。観てないやつは観ろ。
寝てるやつは目を覚ませ。
Don't wanna miss a waking life...or not?
起きろ!度★★★★★
デリカテッセン【1991年 フランス】
監督:
ジャン=ピエール・ジュネ(Jean-Pierre Jeunet)
マルク・キャロ(Marc Caro)
キャスト:
ルイソン --ドミニク・ピノン(Dominique Pinon)
ジュリー --マリー・ロール・ドゥニャ(Marie Laure Dougnac)
主人 --ジャン・クロード・ドレフュス(Jean Claude Dreyfus)
マドモアゼル・プリュス --カリン・ヴィアール(Karin Viard)
Mr. タピオカ --ティッキー・オルガド(Ticky Holgado)
配達員 --チック・オルテガ(Chick Ortega)
「ロストチルドレン」「アメリ」の監督、ジャン=ピエール・ジュネ、マルク・キャロのデビュー作。
フランスのこの鬼才が手がけるこの映画は全編を通じて、まるで古い夢を見ているような、懐かしい御伽噺の世界に迷い込んだような、温かい独特のイメージばかり。
写真で言うなればアグファで撮影したロモのネガみたいだ。
ジュネの創作した不思議な不思議な〝映画だけに存在する〟世界に引きずり込まれることだろう。
現実とはかけ離れた場所に構築される世界。
そこは地底人が地上の人間を殺すと囁かれる近未来。
人々は「終末新聞」の情報で生活している。
その「終末新聞」の求人欄募集をみたルイソンは精肉屋の仕事を見つける。核戦争から15年経ったというのに、精肉店兼アパート「デリカテッセン」では食肉が絶えることはない。
なんと、恐ろしい方法で食肉を入手したいたのだ…。
アパートで主人とマドモアゼル・プリュスが交わる中、ベッドの軋む音がアパート内の住民に拡大して、住民のする作業(ペンキ塗り、毛糸を紡ぐ仕事、缶に穴をあける内職、布団たたき、バイオリン引き)と同調して画面がコロコロと変わるシーンは圧巻だ。
決してハリウッド映画にはないであろう笑いの感覚とフランス映画ならではの〝間〟に包まれる。
自然物(実在の山や川や空)の背景が一切現れないので、誰かの夢を覗いているような既視感に観る者は陥ることになる。
すべてが空想の出来事なんじゃないかと。
「ロストチルドレン」で開花するが、圧倒的な独特の世界を築き上げるのが非常に上手な監督である。
アンハッピーな題材(人間が食料にされる)でもあるのにグロくないそのユーモア感覚に、郷愁を覚えるほどのイメージで「ファンタジー」に仕立てた監督に脱帽する。
もともとはCF業界で活躍していたというのも頷ける。
最後の狂騒劇は目が離せない。ぜひ。
既視感迷い込み度★★★★★
欧州リーグで活躍している日本代表のサッカー選手が、イングランドのボルトンへのレンタル移籍が決まったということで、記者会見を開いた。
そのサッカー選手は終始、会見中は通訳を通さず、自分の英語がまだ不十分である点について記者団に断わりをしてからそれでも英語で会見をした。
たどたどしい部分もあるが、コミュニケーションとして言語の在り方の重要性を確認することができた。
少なくとも一国の首相ともあろうが、いまだに通訳を通さなければ、諸外国のトップとまともな会話ができないという、コミュニケーション不在の政治家とは全然違った。
出席した日本メディアからの質問も英語に限られ、記者会見では日本人同士が英語でやりとりだったという。
「今後も日本語は使わないのか」との質問に「自分たちがどこにいるかを考えなければいけない」と応じた。
これに対し、日本のメディアはまるで鬼の首を掴まえたかの如く、日本人に向けて英語でコミュニケーションを図ろうとした一人のサッカー選手を痛烈に批判を起こそうとしているけれど、実に馬鹿馬鹿しいことだ。
日本人同士が英語でコミュニケーションを図ることが馬鹿馬鹿しいのではない。
これだけ世界が近い状況の中で、いまなお認識の甘い日本のメディアが馬鹿馬鹿しく、そして危機感が欠落している点が馬鹿馬鹿しいのだ。
サッカー選手でなくても、ビジネスにおいて教育において、日本ではない限り、たとえ英語が母国語話者でなくともその場のコミュニケーションとして英語を話すのは一般的だ。
英語という語学が優れているからではない。他者との理解を補完するために英語という語学は利便という特性を持ち、汎用的である。
こういうことを書くと外国に魂を売った売国奴じゃないかと、おかしな論理のパティオリズムを展開する輩がいるけれど、まるでお門違いである。
語学というのは生活手段であり、ツールである。
日本にいて日本人同士が英語でコミュニケーションを図る必要があるとは僕は思わないが、少なくとも不特定多数の人間に理解がある語学を、こと海外において、そして不特定の国籍の人物がいる場合(つまり複数の母語話者が存在する場合)は、多くの者が理解しうる言語を話すべきだ。
そこにはナショナリズムが介在するべきではないのだ。
それでも日本語を無理矢理通そうとする者に、僕にはかつて「敵性言語を禁止セヨ!」と〝ジャズ〟を〝敵性音楽〟として禁止し愚策を講じた旧軍を投影することができる。
今回の会見での出来事は非常に当たり前であり、一連の会見の英語の部分を取り上げたのは日本のメディアばかりだった。
「今後も日本語は使わないのか」とは実に愚かしい、閉鎖された文化を持つ者だけができる質問である。
新橋駅の銀座口から徒歩5分ほどにある「黄金乃舌」。
クリントン前大統領が訪れたり、財界の著名人がよく通う店。
ストイックなあまりに全国から狂想的に旨い魚の食材を集めて、最高の料理人が手がけた料理の数々は値段が高くあるにもかかわらず、常に人気を保っている。
店に入ると、まず通されるのが築地市場のような厨房。
氷に乗せられた岩牡蠣やカンパチ、その日の新鮮な魚を確認することができる。
1階がカウンター。2階は仕切りのある個室。店の名前に合わせるようにゴージャスな金ぴかの内装。
空間デザインは橋本夕紀夫(HP)。
で、写真は今晩の大蔵省ケンカネコ氏。
今宵は、とあることから大金を手にした彼の奢り。
うふふ、ごっちですっ。
さてまずはお通しと能登産の岩牡蠣(時価。この日は1個1500円)。
自家製のおろしポン酢を垂らし、レモンをキュット絞り食べる。旨い。海の滋養がたっぷりと含まれた岩牡蠣・・・。もうとろけちゃいそうだ。
これはウニ(2000円)。今日は殻つきウニはもう終了。
刷毛でタレをつけて…とのことだったけど、そんなの漬けてられませんっ。そのまま食べる。白目になってしまう。口の中でとろける旨さ。昇天。ため息がこぼれる。生うに最強。
こちらは噂の原口さんが作るという明太子(1200円)。
国産の特上のタラコを独自の極上の天然昆布出汁で漬け込んでいる。
それを惜しみなく炙ったのがこれ。
麦とは思えない焼酎、マヤンの呟きに合う。
ピリッとした辛味が味わい深い。白いご飯に乗っけて食べたくなるのをぐっと我慢。
こんな大きくて肉厚の蛤、見たことなーいと黄色い嬌声をあげてしまった。季節のお椀。
黄金コース(1万円)の始まり。
続いてお刺身。平目などを食べる。
鹿児島産の醤油でどうぞとの料理人の言葉ではあったが、甘い醤油なのでこちらでと辛口で食べる。プリプリしていて目が細くなる。
これはカンパチの焼き物。
脂がしっかりと乗っている身をほぐして特製おろし醤油に漬けて食べる。言
葉にならない。もう美味しさのあまり無言。これはまじでヤバイ旨さ。
焼き物の続きはフォアグラの茶碗蒸。
フォアグラの上に乗っているのがトリフュ。
茶碗蒸のなかには穴子の煮たのが入っている。
フォアグラのこってりとした旨みが茶碗蒸と相性がいい。
穴子がホクホクとしている。これも最強の絶品。
リーフサラダ。
土栽培ではなく水栽培で育てた野菜の数々。
土に養分を取られないから野菜の美味しさを存分に引き出せる、らしい。
苦味のあるリーフが箸やすめでナイス。
アワビステーキ。
なんていえばいいのかな、天国です。こりこりぷりぷりのアワビにソースがかかった一品。
セレブってこんなの食べているのかね。贅沢すぎるよ。噛めば噛むほどもうジューシーで海の香りが素晴らしくて・・・。付け合わせのサツマイモも甘みが清々しい。皮ごとペロリ。
そして握り寿司。
もうこのあたりになるとお腹もいっぱいなんだけど、絶品なのでどんどん食べられる。
専用の醤油でパクリ。トロ最高。
甘味はさっぱりとスイカと桃のコンポート。
桃の甘さが控えめだけどねっとりとして抜群。
他にも和牛の串焼きと焼き岩牡蠣なども・・・。
岩牡蠣の焼き物とかって、もう噛んだ瞬間溶けちゃうよ。どうしてくれよう。バンザーイしそうだ。
もう感嘆ばかりの食事だね。これ。
会計は4万6千円。ごちそうさまです、マジで。
吟味 黄金乃舌
港区新橋1-5-6 銀座第三誠和ビル1・2F
月~土17:00~27:00
日・祝17:00~24:00
黄金コース --\10000
(先付、季節のお椀、本日の焼き物、フォアグラの茶碗蒸、リーフサラダ、アワビステーキ、握り、甘味)
活け伊勢海老の炭火ウニソース焼き --\7000
烏賊飯(いかめし)--\4800
能登産岩牡蠣 --\時価(\1500ほど)
明太子炙 --\1200
エビス生ビール --\900
甲州シュールリー --\900
マヤンの呟き --\700
メニューは、普通(\600)か大盛(\650)のどちらかのみ。
ライス(\150)、玉子(\50)もある。アルコールは無し。
久留米ラーメンと名をうっているように、九州らしい無骨な雰囲気の店だ。
豚骨9割に対して鶏ガラ1割のスープは、臭みがなくさっぱりとしている。
スープの濃度は少々薄めかもしれないけれど、なかなかである。
にんにくの効いた白濁のスープはとろりとしていて香りもあるので在京の九州人にもお勧め。
蓮華で何度も啜ってしまうような病み付き加減。
とんこつの〝濃度〟だけをつい追ってしまいがちなご時世に、この素朴な豚骨スープは貴重だ。
丁寧にアクを取らないとダメになってしまうと言うのも頷ける。
具は、もやしと紅生姜ときくらげに青葱が散らしてある。茹でたチャーシューがシンプル。ここは麺が柔らかすぎる感があるので、ヤワ麺が嫌いな人は必ず「麺を固めに」とお願いするのを忘れずに。
南風
新宿区富久町5-10
17:00~翌03:00
日祝定休
ラーメン(普通)--\600
ラーメン(大盛)--\650
玉子 --\50
ライス --\150
長野県、信州戸倉に昭和風情のまるでタイムスリップしたかと思うぐらいの温泉街がある。
その名も「戸倉上山田温泉」。
風光明媚な緑深い山々を抜けて現われるこの街はまるで「千と千尋の神隠し」の世界のようで、山にあるお寺は夜となるとビカビカにライトで装飾されて輝きつづけている。
そしてその足元には大きな温泉マークが装飾されていて、見る者を圧倒させる。
このあたりには色々と伝説があって、例えば「姨捨山(おばすてやま)」の話もあり、実際に姨捨山がある。
60歳以上の老人を問答無用に山に捨てなくてはいけないという御触れに従った若者が、自分の母のように思う叔母を捨て切ることができずに、叔母を置いてきてしまった山に戻り、叔母を背負って戻ると、暗くて道が分からない。
すると捨てられると分かっているというのに叔母が「お前が道に迷わないように小枝を折って目印にしておいたから、それを見ながら降りなさい」という涙の物語。
あと温泉の伝説といえば「小石(恋し)の湯伝説」がある。
歴史のある街でもあり、昔ながらの歓楽街でもあるのが上山田の魅力。
温泉街を歩いていると、射的屋さんのおかみさんが綺麗な着物を着こなしてパタパタと団扇で煽いでいたり、道の外れでキャッチのお兄さんがトウモロコシを齧っていたり、ちょっと裏に外れるとひっそりと置屋があったり、信州ロック座で妖光な大人のショーをしていたりと。
正明館の温泉は旅館では珍しい日帰りの湯を提供している。
ここの温泉は混じりっけなしの100%の源泉で、非常に貴重なのだ。
というのも上山田温泉において、さまざまな源泉があり、多くの宿はその源泉のブレンドをして提供しているのだけれど、唯一、この宿ともう一つの宿(名前不明)だけは源泉を直に使用しているのである。
プンプンと匂う硫黄が語らずともそれを証明している。
硫黄泉は、角質を軟化させたり、毛細血管を拡張させる作用で血液の循環を良くする。
効能は、やけどや皮膚病、神経痛、リウマチ、肩こり、腰痛、脚気、気管支炎、成人病、不妊症、貧血、痔、外傷など。
飲用もできて解毒作用もある。
事実、湯に浸かるとすぐに肌がスベスベになるのを感じることができた。
なんというか石けんの滑りがまるで違うのだ。
露天こそはないが、旅館の女将さんの暖かいもてなしもある。
すっかり湯から上がってきたところで準備される氷の浮いた冷たいお茶。
「これもよかったらあがってください」とはにかんだ笑顔の着物姿で出される青々としたきゅうりの糠漬けとかりんとうやお菓子。
東京から来る価値はある。
上山田温泉「小石の湯」(正明館旅館)
長野県千曲市上山田温泉1丁目59-1
日帰り温泉 --\1050
長野県の上山田温泉街の一角にある蕎麦処「まいづる」。
昼もさながら、深夜まで営業しているので、信州ロック座や眩しく輝いているネオンのハシゴをして遅くに帰り、一杯蕎麦でも食べていくかなんていう、お腹が空いたときでも安心の店である。
この地域は醜法の煽りもあり千曲市と命名されてこそいるが、もともとは「更科日記」に由来があるほどのゆかりの土地で、まさに「更科そば」で有名な土地だ。
当然の如く蕎麦が旨い。
そして上山田の善光寺とくれば、唐辛子が超辛いということで有名でもある。
まいづるの店内はどちらかといえば気がきいているというよりは雑然とした立ち食い蕎麦屋の如くの風情、それでも連日と深夜族から地元の連中で活気さかんなのは、その丁寧な作りからである。
化学調味料を一切使わずに仕上げた蕎麦つゆは、ほんのりと甘みもある味で、まるでしつこくない。善光寺の唐辛子をパッパと振り掛けて食べると鮮烈な辛みが口の中に広がる。手もみの蕎麦も香り高く歯ごたえが素晴らしい。
まいづる
長野県千曲市上山田温泉1丁目70-8
11:30~13:30
22:30~翌01:30
死霊のはらわた【1983年 アメリカ】
監督:
サム・ライミ(Sam Raimi)
キャスト:
アッシュ --ブルース・キャンベル(Bruce Campbell)
「スパイダーマン」で大ヒットを飾った監督の衝撃的なデビュー作。ホラー映画(むしろスプラッタ映画か)を一躍メジャーにした金字塔的作品。
公開当初に映画館で観た子供達のブッチ切りのトラウマ映画。
サム・ライミはこの作品からすでにその手腕と頭角を表わし、資金が無くともアイデアと映画に対する眼がありさえすれば、まっとう作品が作れることをメディアに示した。
そして、既存のホラー映画を打ち破って、人々の恐怖心を煽る映画を作り上げた。
脚本自体は凡庸でツッコミどころは満載ではあるが、ホラー(スプラッタ)の肝心の決め手は、どれだけ鳥肌を立たせるか、どれだけ眠れない夜を観客に送らせることができるか、総てがこの点に集約される。
その視点からいけば、おそらくこの作品は〝鳥肌立たせちゃったよアカデミー賞〟を受賞するに違いない。
主人公のアッシュは友人達と休暇を兼ねて森の奥底の別荘に向かう。
そこにあったのは〝死者の本〟と死者を復活させる邪悪な声が封じ込まれたテープレコーダー。再生ボタンを押すと流れてくる不気味な言葉「…カンダ・・・アマントス・・・カンダ・・・」。
落ち着かない雰囲気になるアッシュ達ではあるが、気にもとめなく休暇を楽しむ。しかしすでに蘇った死霊はアッシュの妹に憑依していた・・・。
アッシュ達が訪れる貸別荘自体が鬱蒼とした〝いかにもいわくありがちな〟雰囲気で、ベタな設定だし、なんで死霊がテープレコーダーに封じ込まれているのか不明(ピッコロ大魔王みたいだ・・。)で、真剣に脚本を追求するとキリがない。
でもね、死霊が憑依したあとの惨劇は、もう必須。目が離せません。
記念すべきトラウマ第一号は、リンダとシェリルが和気あいあいとトランプの札当てゲームに興じているシーン。
夏休みの別荘でトランプをして過ごすのは万国共通。
ところがどっこい、こちとらホラー映画。
大貧民をやって就寝するほど都合良くはない。
なんと、シェリルが次々と見えることの無いトランプの札を当ててゆく。緊張高まるカメラワーク。恐怖の始まり。
そして突然「ゴギャウォーン!」という怪音とともに白目になるシェリル。
この時点で3回はチビれることでしょう。涙がでそうになります。怖すぎて。それからというものトランプそのものがトラウマの対象に。
それと「死霊のはらわた」で必ず語らなくてはいけないのが、地下室。
憑依されたメンバーをどんどんと地下室に閉じ込めるアッシュ。もちろんアンデッドな彼らが飛び出してこないように鉄の鎖で地下室の扉をガッチリとガード。ところが、所詮、鎖で巻いているだけなのか、地下室からガチャリガチャリとゾンビ(友人達)がこじ開けようとして、灰色くなりかけた腐敗している手で、床の入り口から覗いている。
悶えます。もう地下室になんか足を伸ばすことはできません。
小学3年か5年の頃に観たけれど、この映画のせいで、数十年近く脳ミソの具合が・・・。
コーエン兄弟のジョエル・コーエンが編集に携わっているのも有名。
トラウマ貢献度★★★★★
新宿御苑と新宿三丁目の真ん中あたりのサンフランシスコレインボー的な趣味の方々の聖地、新宿二丁目近くにあるタイ屋台レストラン。
赤青黄色の原色のネオンがチカチカしていてタイの国旗と国王の写真が並んでいるカウンターからは日夜タイポップスが鳴り響いている。
テーブルは、バンコックだったらカオサンやヤワラーにありそうなテーブル席の雰囲気で、周りからは新宿で働いている在日タイ人の声が聞こえてくる。
新宿御苑の森が近いせいなのか、鬱蒼とした静けさに聞こえてくるタイポップスとパクチーやナンプラーの香りは、なんだか本当にランブトリーSt.に迷い込んだんじゃないかしらと錯覚するぐらいだ。ダミ声のゲイ男性の会話もご愛嬌。
レストランと言うよりは一杯引っ掛ける程度の店ではあるが、味もそこそこである。
イサーン(タイ東北部)地方出身のコックが作るソムタムには、たしかに敵わないかもしれない。でもね、ここのソムタムだってなかなかだよ。
青パパイヤとピーナッツや干し海老ですりつぶした辛いような酸っぱいようなこの料理はもはや定番。ソムタムにはカオニャオ(もち米)を付けて手で食べよう。
トート・マンプラーが手作りで美味しい。
トートはタイ語で〝揚げる〟、マンは〝芋〟、プラーは〝魚〟、つまりさつま揚げだ。手作りのさつま揚げで、ホクホクしていて魚のすり身が新鮮、下味がしっかりとつけられて絶妙の塩加減なので、暑い夏のビールと是非。
タイの生春巻き。ポピア ソット。
ボビアは〝春巻き〟だっけな(うろ覚え)、ソットは〝火が通ってない〟って意味。
生春巻きはベトナムが有名で、やはりあちらが本場。タイの生春巻きは手元にあるチリソースをたっぷりつけて食べよう。甘辛いチリがとってもヤムヤム。
こちらは野菜炒め。パッパック ルワム。
パッは〝炒める〟、パックは〝野菜〟、ルワムは〝混ぜる〟とか〝ごっちゃにする〟という意味。たくさん種類の野菜炒め。ナンプラーを垂らして、カオニャオを野菜炒めのスープに付けて食べる。野菜のシャキっとした歯ごたえが最高。いかにも東南アジアの味付けで、濃い目。決して辛くはないし、香辛料がきついわけでもない。しょっぱがらい味付けがナイス。
締めは、雑炊。カオトム ムア。
カオは〝米〟、トムが〝ゆでる、煮る〟、ムアは〝豚肉〟。豚肉入りのお粥。もっとトロトロに煮込んだ雑炊(いわゆるお粥)はタイ語でジョークという。
ここのレストランではカオトムクンがメニューにしかなかったけど、海老入り雑炊なんて食べれたものじゃないから(アレルギー出るし)、豚肉をチョイス。
パクチーがたっぷり入っていて、卵が落としてある雑炊に豚肉のつみれがたっぷり。もう最高である。
ナンプラーを少し垂らして、ズズっと口に運ぶ。
生姜や香菜がふくよかな香りをつけて鼻腔をくすぐるし、ダシの取れているスープなんて、もう、嗚呼。
この独特の雑炊は世界一なんじゃないだろうか。日本の雑炊より大好きである。
塩加減だって抜群で奥深い旨さだし、時にはにんにくチップが入っていて食欲を増進するし、タイ米は雑炊にぴったりでもたれないし、豚肉のつみれは臭みが全然なく、味が染み込んでいるんだもの。
個人的に日本のタイレストランで見かけることの無いカオトムなだけに一口匙ですすっただけで、もうタイの景色がフラッシュバック。
ちなみにトムヤムクンはトムが〝ゆでる〟、ヤムが〝酸っぱい〟、クンが〝海老〟だから海老のすっぱ辛いスープって意味。タイだとトムヤムは別に海老に限った料理ではなくて、鶏でもイカでもトムヤムにするのが普通。料理の終盤に差し掛かると、「これ、トムヤムにして」とテーブルにある余った食べ物をスープにする。
海老が嫌いな人は「マイサイクン」(海老抜き)と言おう。どこでも通じる。
リムタァーン
新宿区新宿3丁目1-32 新宿ビル3号館1階
17:00~翌2:00
木曜定休
生春巻 --\800
ソムタム --\850
軟骨唐揚 --\850
タイさつま揚げ --\850
野菜炒め --\800
シンハビア --\600
チャンビア --\600
魚系醤油ラーメンの殿堂、目黒「かづ屋」。
茶色の透き通ったスープは、サッパリしていて、全体に霧のように散る煮干しの風味が旨い。
魚臭さがないだけではなく、鶏でスープも取っているので、味に深みがあり、飽きがこない。
昔からある東京ラーメンのような味だ。
麺は手もみ系の縮れ麺。器に盛られている麺のボリュームが凄い量。
他店の1.5玉はあるんじゃないだろうか。縮れた麺がスープに絡まるのでズバズバと食べられる。
具材の焼き豚は最高。しっかりと脂が落してある焼き豚は歯ごたえがプリプリしていて美味しい。
有名なラーメン屋にあるような、ただ柔らかくて脂が多いだけの焼き豚ではなく、中華の焼き豚なので、しつこくない。焼き具合も完璧だ。
テーブルに置いてある揚げネギをトッピングで掛けて食べよう。ネギの香ばしさがスープをさらに引き立てる。
写真はセロリの漬物。
紹興酒と醤油で漬け込んだ漬物。セロリのシャキシャキした歯ごたえと青臭さが心憎い。おつまみにピッタシ。
支那ソバ かづ屋
東京都目黒区下目黒3-6-1
11:00~24:00、不定休
支那ソバ --\600
つけそば --\700
ワンタンメン --\850
餃子 --\500
青梅駅から徒歩2分程度、駅前のロータリー右にあるセブンイレブンの先。
ひっそりとした佇まいが、昭和のノスタルジックな風情の街であり、東京の山が見渡せる青梅に良く似合う。
創作カレーと珈琲が評判で、カレーは全てその日限りの限定。
「挽肉と半熟卵のカレー」は人気もあるので、すぐに売り切れちゃうとか。
写真は「鶏肉カレー」(辛口限定)
辛口というだけあって、ハっとした辛さが一気に口の中に広がる。
でもスパイスのせいか、その辛さの中にも清涼感があるような引きの良い辛さで、スゥーっと爽やかになるから不思議だ。
特に8月くらいの夏バテシーズンで食欲がなくてゲンナリしている時に食べたい。カレーのルーはあっさりとしたスープカレーに近い感じで、軽めに炊き上げられたご飯とピッタシ。
こちらは「チーズと茸のカレー」。
直火でルーをぐつぐつと煮込んだ「チーズと茸のカレー」は、チーズが絶妙のトロトロ感で、スープに溶けて芳烈なスパイスとチーズが実にかぐわしい。
アツアツのルーは、ご飯なしでも旨い。茸のシャクっとした食感が新鮮。
伽哩と喫茶 うい
東京都青梅市青梅131
10:30~20:00
(月火木は ~18:00)
水曜定休
豚肉のカレー --\880
鶏肉のカレー --\880
挽肉と半熟卵のカレー --\780
チーズと茸のカレー --\950
うい珈琲(有機栽培)--\500
ブラッドリーが亡くなったのは96年5月だった。
死因はドラッグのオーバードーズ。その前年にカート・コバーンが自らのこめかみに銃口を突きつけてこの世からおさらばしてわずか1年を経過したかしないかの出来事だった。
新聞の片隅に載せられたカート・コバーンの記事には、どんな種類の感傷もなかった。ただ一人のミュージシャンが自殺しただけの内容だった。それはあまりにも切ない記事でもあった。
なぜなら当時、ニルヴァーナは僕らに多大な影響を与えたからだ。
僕はその記事を切り取って黙って学校に向かった。泣くことは許されなかったけれど、その日はひどくぼんやりとした現実離れした一日で、ニルヴァーナを崇拝している涼介は「チクショウ」と呟いた。
94年4月は僕の大学入学の年であり、ロックの終焉を感じた年でもあった。
そして96年5月、パンク、スカ、レゲエを融合した音楽を打ち出したサブライムのブラッドリーが突然死んだ。とても衝撃的な死だった。
96年は個人的にもドタバタとした年で、身の回りでたくさんの新しい出来事が起きて、たくさんの人が突然と死んだ。知り合ってわずか数ヶ月で悲報を耳にすることがあったので、あらゆる事実に死の香りが附着していた。
その年の前後から僕はロックミュージックを意識的に聴くことはなくなってきた。彼ら2人が亡くなってから〝のめり込みかた〟が熱烈ではなくなってきたし、トランス(当時はゴアトランスと呼ばれていた)音楽に心を奪われていたからだ。
*
*
96年7月から8月にかけて僕はアメリカの西海岸に行った。自分の中に存在するサブライムの在りかたを確認したかったというのは大げさだけれども、少なくとも外れてはない。
サブライムの音楽の向こう側には常に燦燦とした眩しい太陽があり、ビーチがあり、美味しいビールと気持ちの良いハイウエイがある。ロックへの情熱が失せても西海岸のベニスビーチやロングビーチに憧れを持ったのはサブライムの音楽があったからだ。ロングビーチでサブライムを聴いてみたい。それだけの影響力を彼らは持っていた。
ハンティントンやL.Aのいたるところのレコード店に彼らのアルバム「Sublime」は置いてあった。
レコード店の店員は僕がそのアルバムを持つと必ず「R.I.P Brad(ブラッドに捧げて)」と僕の肩をポンと叩いた。
やっぱしそのたびに悲しい気持ちになったけど、彼らが本当に西海岸のロックキッズに愛されていて、そして惜しまれている瞬間を感じることができた。
96年7月の終わり、ベニスビーチの入り口にあるゲストハウスにしばらくいた頃、僕がラジカセでフルボリュームにして「Sublime」を聴いてビールを飲んでいたら、イギリスから来た女の子が僕の部屋をノックして「私も一緒に聞いていい?」と僕に尋ねた。
少々面食らったけれど、サブライム好きに悪い奴はいないというのが僕の当時からの信条でもあるので、冷蔵庫に行ってよく冷えたバドを渡して乾杯をした。
彼女もブラッドの訃報から自分のなかで何かを失い、そしてこの西海岸まで来たという。西海岸には悪ノリにも近い陽気な側面があるけれど、センチメンタルな気持ちを想起させる場所でもある。
パームツリーに映る夕暮れは感傷的になるのに充分な存在だ。
なんにせよ、こういう出会いによくある物語がやっぱし僕らにもあって、結局僕らはサブライムをきっかけとして親密な関係にもなった。
彼らの音楽を聴いていると、アメリカも悪くないなと思うし、ロックもまんざらじゃないなと思う。
でも残念なことにブラッドリーはすでに亡くなっていて、サブライムは事実上、リーダーを失い空中分解し、エリック・ウィルソンとフロイト・"バド"・ゴウの二人は「ロング・ビーチ・ダブ・オールスターズ」を結成して、否応がなしに時は経過している。
40 Oz to Freedom(Sublime : Skunk Records)
ザ・ビーチ【1999年 アメリカ】
監督:
ダニー・ボイル(Danny Boyle)
原作:
アレックス・ガーランド(Alex Garland)
キャスト:
リチャード --レオナルド・ディカプリオ(Leonardo DiCaprio)
ダフィ --ロバート・カーライル(Robert Carlyle)
フランソワーズ --ヴィルジニー・ルドワイヤン(Virginie Ledoyen)
エティエンヌ --ギョーム・カネ(Guillaume Canet)
サル --ティルダ・スウィントン(Tilda Swinton)
「トレインスポッティング」で一気に知名度を上げたダニー・ボイルがアレックス・ガーランドの同名の小説を映画化。
アジアを旅するバックパッカー達は、こんな噂を耳にした。タイの何処かの秘島で選りすぐりのバックパッカー達が楽園のような生活をしていると。
それはやがて都市伝説に近い幻の島のような存在になる。
リチャードは初めて訪れたバンコックのカオサンロードの安宿で、酷く泥酔している隣の部屋の男が叫んでいるのを突然と耳にする、「ファッキン、ビッチ」。
次の朝、リチャードが朝食から戻ると、一枚の地図が扉に挟んであった。楽園までの地図。隣の男は、死んでいる。
そうか、「ビッチ」ではなく「ファッキン ビーチ」…。
いったい何が起きたのだろう、キケンな香りが漂う。でも、実際の旅の生活はどうだ?トレッキング、安宿旅行、川くだり、どれもこれも冒険からは程遠い、誰もがもうすでに開拓した道じゃないか。もっと刺激を求めて・・。なら行ってみよう。そうして同じく宿に泊まっていたフランス人カップルとともに幻の島へと向かう。
そしてそこに見た世界は本当に楽園だったのだが…。
原作が飛びぬけていると往々にして非難を浴びやすい映画というのがある。
ましてやその映画の主人公がハリウッド俳優が演じたらもう格好の餌食だ。
この映画がそう。この映画の批評をするのは簡単だけれど、20代のうちに〝かけがえの無い旅の日々〟をして、いまは現実社会で生活している人の心の琴線に触れた映画は他には僕は知らない。
そういった意味でこの映画は元旅人達のノスタルジックな感傷に浸ることのできる存在なのだ。
カオサンのD&Dホテルがちらりと見えているだけでグっとくるし、リチャードとフランソワーズが島のビーチに野宿しながら焚き火を焚いて満天の星を眺めるシーンもそうだし、秘島に到着した晩の、たくさんの旅人達が焚き火を囲みながら歓迎の気球を空高く舞い上げるシーンもそうだ。
もし貴方がふとした瞬間にアジアの空を想い出したり、胸が切なくなる時間があるようだったら、この映画を観るといい。きっとこの映画は貴方のその何かの部分を癒してくれる。そういう映画である。
特別バージョンのもう一つのラストシーンも非常に良い。旅の本質を捉えている。本ラストもね。社会復帰して、その現実の象徴であるような電子メール(まさにビーチにはないものだ)に届いた一通の添付ファイル。過ぎ去った日々の一枚。胸にくるよね。
アレックス・ガーランドの原作も秀逸だ。映画では描ききられていないダフィとリチャードの狂った会話や、ライス・ランも詳しく描かれている。
サル役のティルダ・スウィントンは「コンスタンティン」の天使ガブリエル役。飄々とした演技が特徴。
バックパッカー胸キュン度★★★★★
ディナーラッシュ【2001年 米】
監督:
ボブ・ジラルディ(Bob Giraldi)
キャスト:
ウード --エドアルド・バレリーニ(Edoardo Ballerini)
ダンカン --カーク・アセヴェド(Kirk Acevedo)
ルイス --ダニー・アイエロ(Danny Aiello)
フィッツジェラルド --マーク・マーゴリス(Mark Margolis)
ニコーレ --ヴィヴィアン・ウー(Vivian Wu)
マルティ --サマー・フェニックス(Summer Phoenix)
ショーン --ジェイミー・ハリス(Jamie Harris)
隠れた名作と呼ばれる映画がある。興行的にもパッとしなかったし、特に話題ものぼらなかったんだけど、映画好きなら目を通しているような、DVDで何度観ても面白いようなそんな作品。
商業的じゃないから、つまりマスメディア寄りじゃないので所謂〝単館系〟で片付けられちゃうが、そうじゃない映画もある。
それがこの「ディナーラッシュ」。
N.Yのマンハッタンはトライベッカにある実在のレストラン ─またこのレストランの人気ぶりが凄くて何ヶ月も予約待ちの状態なのだ─ を舞台にして繰り広げられる人間ドラマ。
イタリアンレストラン『ジジーノ』の物語である。
このレストランのオーナー、ルイスを演じているのが「ゴッドファーザー」などで有名なダニー・アイエロ。
ルイスは長年の知友であるエンリコを新鋭イタリアンギャングに殺される。
新鋭のギャングは利益の為なら何をしても構わないと考える輩だ。
それに逆らったエンリコが矛先となってしまった。
そして彼らが次に狙っているのがルイスのレストラン『ジジーノ』。
もうひとつ彼らが足がかりにしようとしているのが、副シェフのダンカンのギャンブル狂いだ。
ダンカンは闇ギャンブルがなかなかやめられなく、しかも運が悪いことに負け続けている、胴元は彼らギャングである。
でもルイスはダンカンの腕を見込んでいるのでクビにはできない。
ルイスの亡き妻のイタリアンに近い料理を出すダンカンは『ジジーノ』に欠かせない存在なのだ。
一方、ルイスの実の息子のウードは早く本オーナになりたくてもどかしい毎日を過ごしている。このレストランが人気が出たのはウードの創作イタリアンが辛口の料理評論家に気に入られたからなのだ。
そしてある晩がやってきた…。
『ジジーノ』の様子を見にきたギャング2人組。何故か予約が取れた古参の刑事とその妻の熟年夫婦。厄介な絵画オーナーを称するフィッツジェラルド。完全にツキから突き放されたダンカン。ウードを慕う辛口料理評論家の来客。
突然の停電。
そして最後の結末は…?。
「yes,shef!」 「no,shef!」 「I don’t know,shef」
ちなみにマルティ役のサマー・フェニックスはリバー・フェニックスの実の妹で、ショーンはリチャード・ハリスの実の息子である。そういうキャスティングも見所だ。あとダンカン役のカーク・アセヴェドは「バンド・オブ・ブラザーズ」のジョー・トイ役を演じている。
お洒落度★★★★★
エレファント【2003年 米】
監督:
ガス・ヴァン・サント(Gus Van Sant)
キャスト:
ジョン --ジョン・ロビンソン(John Robinson)
イーライ --イライアス・マッコネル(Elias McConnell)
マット・ディロン主演、あのウィリアム・バロウズも特別出演している「ドラッグストア・カウボーイ」を送り出したガス・ヴァン・サントが、アメリカのコロラド州コロンバイン高校の銃乱射事件をモチーフに、その日の一日を捉えた映画。
同事件の映画といえばドキュメンタリー映画の「ボーリング・フォー・コロンバイン」が有名だけれど、マイケル・ムーアがアメリカの銃社会に対して正面から疑問を投げかけて、観る者に訴えかけているとしたら、ガス・ヴァン・サントはアメリカがいま抱えている底知れぬ強大な恐怖や、人々が潜在的に抱えている暴力性の不条理をこの事件を通じて伝えようとしているのではないだろうか。
いつもとかわらない、どこにでもある毎日と同じ一日であったはずのコロンバイン高校。
犯人の少年2人を含めて何人かの生徒達をカメラワークで追いながら、同じ時間のシーンを、違う生徒の視点よりそれぞれ映画の中に執拗に散らばめることで、その日の学校で何が起きたのか観客自身も知ることとなり、いつのまにかその生徒と同じ視点で学校に存在している気がする。
この映画に、何故この事件が起きたのかというメッセージは無い。
でもどんな日に起きたのかは僕らは知ることができる。それは本当に〝普通の一日〟に起きたのだ。我々が朝起きて、朝食を食べて、学校か会社に向かう一日と同じように。
僕らはこの事件の〝結末〟を既に知っている。
彼らが狂気の果てにどんな行動に出るのか、学校で何が起きるのか、そして、その悲劇的なラストがどのように迎えられるのか、避けられない未来を待っている自分に気付かされる。
やはり傍観者なのか。
それだけに生徒たちの姿が余計に辛い。
ポートレイトを撮り続ける写真部のイーライの廊下を歩くシーンに、ガス・ヴァン・サントらしさが滲み出ていると思う。
ゆっくりとしたカメラワークと音が練られるようにシュワシュワと耳に届くような届かないような場面。
全体的に色の少ない映画のなかで、、ジョンの透き通るような金髪とそして彼の着ている黄色のTシャツが、この物語の冷たさと救いが求められない苛立ちを表現しているのではないだろうか。
切ない度★★★★★
スモーク【1995年 米】
監督:
ウェイン・ワン(Wayne Wang)
脚本:
ポール・オースター(Paul Auster)
原作:
ポール・オースター(Paul Auster)
キャスト:
オーギー・レン --ハーヴェイ・カイテル(Harvey Keitel)
ポール・ベンジャミン --ウィリアム・ハート(William Hurt)
ラシード --ハロルド・ペリノー・ジュニア(Harold Perrineau Jr.)
サイラス・コール --フォレスト・ウィッテカー(Forest Whitaker)
ポール・オースターの短編物語(どちらかといったらショート・ショートに近いかね)である「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」を映画にしたのがこの「スモーク」。
ブルックリンにある煙草屋のたわいもない毎日の物語を、煙草屋の主人オーギー、妻の事故がキッカケでスランプになった作家ポール、ひょんなことからポールの家に居候してオーギーの店でアルバイトを始めることとなる黒人少年ラシードがそれぞれ物語を展開していく物語。
オーギーは毎日の趣味として煙草屋の前の道を〝決まった時間〟、〝決まった構図〟で写真を撮ることとを趣味としている。
その写真の中に常連であるポールは亡き妻の姿を見つけた…。ポールとオーギーはそれから単なる常連ともいいがたい関係となっていく。
一方、ポールのところで居候していたラシードが突如行方不明になる。2人が探して見つけ出したラシードの新たなアルバイト先は今にも潰れそうな車の修理工場だった。なぜラシードはここで働こうとしたのだろうか。
いろんな物語が詰まっているけれど、息苦しくないし、むしろ季節の変わり目の切ない気持ちになるような珠玉の物語ばかり。
オーギーの煙草屋は雑誌とちょっとした雑貨とスナックと煙草を売るだけの店だけど、いろんな人が集まってそこで会話をしながらテレビを見ながら楽しんでいる。アメリカの抱える問題っていろいろあるだろうし、それは手ごわい、なかなか片付かない側面がある、それでもブルックリンの街角にある人情味溢れるオーギーの店を見ると、やっぱりいいなって思うってしまう。
ハーヴェイ・カイテルの煙草をくゆらせる姿は実に美味しそうだ。煙草を吸えないのが非常に残念なシーンである。思わず吸ってみようかしらって思うぐらいだもの。
喫煙者の皆さんでしたらすかさず手元にあるパッケージに手が伸びちゃうのじゃないかしら。
そして最後のシーンである主題の「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」をオーギーがポールに話すシーンはほんっとクールだ。是非観てほしい。そしてそのクリスマスの夜のオーギーの回想シーンもジーンとくる。
「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」は柴田元幸訳が有名で、この作品は村上春樹訳でも読むことができる。文春新書から出ている「翻訳夜話」で、2人がそれぞれ翻訳して載せているので、原文にご興味がある人は是非。
P・オースターの翻訳者としての柴田元幸の訳はやっぱり秋の初めに羽織る着心地のよいネルシャツのようにしっくりと合う。村上春樹訳もまんざらでもない。もっとも本人が「翻訳夜話」で告白しているように映画「スモーク」を観た後に翻訳しているだけにハーヴェイ・カイテルの姿がどうしてもオーギーに被ってしまう。それはそれで僕は良いと思うけど。
ちなみに「スモーク2」とされる「ブルー・イン・ザ・フェイス」は個人的に超駄作なのでお勧めはしない。
情緒溢れる度★★★★★
青山のYellowの帰り、六本木isn'tやGASPANICの帰りのソウルフードといえば、ここ。
クラブ帰りで呑み過ぎでおまけに煙草臭いし、喉はガラガラだし腹は減っているけれど、胃が受け付けてくれない。かおたんラーメンはそういう時に食べるラーメンである。良くも悪くもシラフで食べるものじゃないんだ。
店はずばり掘っ建て小屋。六本木ヒルズが近いというのに時代錯誤の建物。バラックってやつだ。それでも全盛期は並ばないと食べれなかった。
写真はラーメン650円。
ラーメンは台湾風の醤油味。鶏のダシと中華系の香菜などでじっくりと煮込まれた茶色く透き通ったスープは優しい風味。呑んだ後だからこそ旨い。ここの名物である揚げタマネギがほんのり苦くてアクセントとしてバッチシ。麺はコシのある少し固めの麺。叉焼も脂が落されていてもたれない。うっすらと醤油で漬け込まれた叉焼は正統的な中華の味だ。
醤油味のスープが淡白であるからこそしっかりと絡み付くように計算されているのか。
六本木で呑んで踊って遊んだ帰りにはぜひ。
かおたんラーメン
東京都港区南青山2-34-30
12:00~翌4:45
塩ラーメン--\650
ラーメン--\650
みそラーメン--\850
ギョーザ--\550