2005年08月22日

敵性言語を禁止セヨ!

欧州リーグで活躍している日本代表のサッカー選手が、イングランドのボルトンへのレンタル移籍が決まったということで、記者会見を開いた。

そのサッカー選手は終始、会見中は通訳を通さず、自分の英語がまだ不十分である点について記者団に断わりをしてからそれでも英語で会見をした。

たどたどしい部分もあるが、コミュニケーションとして言語の在り方の重要性を確認することができた。

少なくとも一国の首相ともあろうが、いまだに通訳を通さなければ、諸外国のトップとまともな会話ができないという、コミュニケーション不在の政治家とは全然違った。

出席した日本メディアからの質問も英語に限られ、記者会見では日本人同士が英語でやりとりだったという。

「今後も日本語は使わないのか」との質問に「自分たちがどこにいるかを考えなければいけない」と応じた。

これに対し、日本のメディアはまるで鬼の首を掴まえたかの如く、日本人に向けて英語でコミュニケーションを図ろうとした一人のサッカー選手を痛烈に批判を起こそうとしているけれど、実に馬鹿馬鹿しいことだ。

日本人同士が英語でコミュニケーションを図ることが馬鹿馬鹿しいのではない。

これだけ世界が近い状況の中で、いまなお認識の甘い日本のメディアが馬鹿馬鹿しく、そして危機感が欠落している点が馬鹿馬鹿しいのだ。

サッカー選手でなくても、ビジネスにおいて教育において、日本ではない限り、たとえ英語が母国語話者でなくともその場のコミュニケーションとして英語を話すのは一般的だ。

英語という語学が優れているからではない。他者との理解を補完するために英語という語学は利便という特性を持ち、汎用的である。

こういうことを書くと外国に魂を売った売国奴じゃないかと、おかしな論理のパティオリズムを展開する輩がいるけれど、まるでお門違いである。

語学というのは生活手段であり、ツールである。

日本にいて日本人同士が英語でコミュニケーションを図る必要があるとは僕は思わないが、少なくとも不特定多数の人間に理解がある語学を、こと海外において、そして不特定の国籍の人物がいる場合(つまり複数の母語話者が存在する場合)は、多くの者が理解しうる言語を話すべきだ。

そこにはナショナリズムが介在するべきではないのだ。

それでも日本語を無理矢理通そうとする者に、僕にはかつて「敵性言語を禁止セヨ!」と〝ジャズ〟を〝敵性音楽〟として禁止し愚策を講じた旧軍を投影することができる。

今回の会見での出来事は非常に当たり前であり、一連の会見の英語の部分を取り上げたのは日本のメディアばかりだった。

「今後も日本語は使わないのか」とは実に愚かしい、閉鎖された文化を持つ者だけができる質問である。

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投稿者 ko : 2005年08月22日 19:07 | トラックバック(0)
コメント

同感!
「郷に入れば郷に従え」です!!
不特定多数の国籍の人がいる中では、
万人がわかる言葉で話すべきだし、
一部の人しかわからない言葉を使うと
それを理解できない人がどれだけ
気分が悪いか?って事ですよね!

Posted by: K子 at 2005年08月23日 22:56

そうなんだよね。不特定多数の者が居る場合は、最大公約数的な言語を用いるべきですよ。

日本人しかいないところで日本人が英語で会見したらアホだろうけど、少なくとも今回はごく当たり前ですよ、きっと。

もちろん日本語の方がラクなのは本人も百も承知な筈。でも、そこは・・・。 とやかく言われる彼ですが、そういう感覚というかポリシー、好きです。

Posted by: ko at 2005年08月24日 09:06
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