秋よりも春のほうが感慨深いというか、日本では春は別れと出会いの季節なので、わりとしんみりしちゃう人は少なくないと思う。
いつでもいい、とにかく思い出のある時期の当時聴いていた曲を聴くと、普段は考えないような昔をふと思い出したりとか、長い冬が終わったあとの日が長くなった春の暖かい黄砂の最中にセンチメンタルになったりとか。そういうのってないかな。
僕はというと、春といえば、高校に上がる前の中学3年生の三学期か、やはり高校を卒業する前の3年生の3学期を強く思い出す。どちらも大人になりきれていないけど一生懸命背伸びして突っ張った時代で、少年である自分とこれから大人になりつつあるんだと微妙な狭間にいる、なんだか恥ずかしい、でも、その青っぽいも悪くない。そんな時代。
僕の高校は私服だったので、学ランという制服は中学までだった。受験も終わった3学期、これから進学する高校はバラバラになるという小学校からの同級生や、高校もまた一緒になる友人と、これからの高校生活へ向けて希望と不安を入り混ぜながら帰宅途中の公園でよく遊んだ。
公園のベンチや手すりに座りながら時間も忘れ、語り合った。季節はやっぱりだんだんと暖かくなっていて春の訪れを感じることができた。僕らはいつまでも家にも帰らず、自分の長い影をボンヤリ見たりして行く末を語ったりした。
あの頃の僕らは15歳の自分達しか持つことの出来ない何かを手応えのように肌で感じていたと思える。それは14歳じゃ早すぎるし、16歳じゃ遅すぎる言葉に顕わせない脆い何かだった。
学校の廊下で日常的に繰り広げられていた取り止めも無いシーン、大学生と偽って学年で男女関係なしに週末みんなで集まった〝つぼ八〟なんかも記憶から蘇ってくる。
中学生にとって、お酒のある店で呑むというのは随分と祝祭的なイベントであり、とてもスリリングな出来事だ。
つぼ八の「ピンクシャワシャワ」で酔って、慣れない煙草に火を付けて夜を過ごす。そうすると不思議なもので、15歳ながらにしみじみと人生を感じたりした。
飲み会が終わると、クラスメイトの女の子とぎこちなく酔っ払って帰り道を歩いた。時間がいつもよりゆっくり経っているんだなぁと思った。
隣りを向くと、学校では見ることのない大人びた女の子が頬を赤らめ千鳥足状態で腕を組んできたりした。この子もそうだし、僕もそうだけど、自分達がだんだんと大人の階段を昇っているっていう時の流れを、春の風と共に感じた。
なんとも甘酸っぱい回想だね。
春の名作というと、安達哲の「ホワイトアルバム」。
全2巻の少年マガジンに掲載されたコミック。1988年に発売だから多少なり絵柄も古いかもしれない。
それでも"過ぎゆく移ろいの中にある心象〟を描いたら右に出る人は居ないんじゃないかな。
原作・映画に関わらず「スタンドバイミー」の最終場面にジーンとくる人、ガエル・ガルシア・ベルナル主演の「天国の口、終わりの楽園」のやはり最終場面にシンパシーを見た人は是非。
わー、フニクリフニクラ。ホワイトアルバムだ。
これとキラキラはもう、甘酸っぱいねえ。
最近、お天気お姉さんを見返したら、わりとおもろかった。最後のほうはナゲヤリ加減だけど、そこもまた良いね。
そしてさくらの唄伝説へと続くわけだわい。
また、安達で語りたいっすね、近所のくるくる寿司かなんかで、イカでも頬張りながら。
アーモンドポッキーもあるので、それを食べつつってのもありですな。
なんか春はいいです。さくら満開。