日系人が住んでいたり日本食レストランがあるエリアで、2ブロック離れるだけでスラム街だから、夜中に銃声が響くといったなかなか物騒な場所でもある。
それでも、街の中心には寺院もあり、火の見やぐらもあるので、物騒とはいいつつも壮観な景色で、日本に居るのとかわりのない街並みが続く。
90年代中頃には日本の大手スーパー「ヤオハン」も進出していたので、買い物にも不自由しない立地だった。
そのリトルトーキョーに「ダイマルホテル」という台湾人のお婆さんが経営する安宿があって、長期滞在者や日雇い労働者、ハリウッドで夢を見る役者希望など、さまざまな日本人が寝ぐらにして生活していた。
宿自体は大した建物ではなくて、長い階段を上ると小さなカウンタースペースがあって、小さく区切られた部屋とボロボロで光沢を失ったリノリウムの床が空寒い雰囲気を醸し出している、そんな感じの安宿だ。
宿は一泊20ドル前後。
赤井英和がアメリカに武者修行した際に、ここを常宿にしたのでも有名で、色紙が置いてあったりする。
僕はアメリカにまでわざわざ来たんだから、もっと違うところに宿を借りたかったのだが、一緒に旅をしていた友人が、旅先での想像しうる限りのさまざまな不安等を打ち明けてきたので、渋々リトルトーキョーに向かい、ここにしばらく滞在していた。
「ダイマルホテル」に滞在して恩恵が受けられる一番の利点は、日本食が食べられる、これに尽きた。
以前アメリカを旅行していた時に、散々食事で苦しんだので、食事に恵まれたのは、本当に助かった。
朝からパンを食べて、夜にはジャガイモを炒めたのと分厚いステーキ。
こんなのは文化的な人間が食べる代物じゃないぐらいの考えだったので、3つ軒先が離れた日本食レストランで食べられる〝焼き魚定食〟なんてのは、涙が出るぐらい有り難かったのだ。
でも旅の本質は異文化に触れることにあるというのが僕の考えでもだったので、旨い旨いと言いつつも、なるべく早くリトルトーキョーを離れたかった。
だって、〝焼き魚定食〟だったら、日本で食べたほうが旨いし、わざわざ飛行機を乗り継いでロサンゼルスで食べなくてもいい。
だから、リトルトーキョーで日本食を口にするたびに、うんうん、美味しい!、はっ、でもこれで満足したダメだ、みたいな厄介な心情の狭間に自分ひとりで勝手に苦しんでしまった。
ヴェニスビーチに移動した後に、サンフランシスコに行くというプランを非常に待ちわびた日々であった。
事実、リトルトーキョーでは何もすることがなかったのだ。
裏とか表の境界線のない国には、逆輸入したアダルトビデオがたくさん売られていたから、ノー・モザイクな映像にちょっとは興味を持ったというのは嘘じゃないけど、おっぱいがユサユサ揺れるアダルトビデオ観てアメリカで時間を潰したくない。
もっと有益なことをしたいのだ。
古着屋も日本人プライスだし、見る価値がなかった。
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仕方なしにボンヤリと「ダイマルホテル」のカウンタースペースで、日ながチェリーコークを飲んでいたら、ある日の午後、台湾人のオーナーが何やら言ってきた。
その頃は、からっきし英語の会話がダメだったので、四苦八苦ヒアリングしてみると「アンタ、暇そうだから、裏の駐車場の草刈りやってよ」とのことだった。
俺が暇そう?余計なお世話だっつうのと思いつつも、本気でやることがなかったので、「ああ、いいよ」と、快諾した。
「ちゃんと刈ってくれたら、ご飯ご馳走してあげる」というご褒美に思い切りそそられたからである。
そんなわけで、手渡された緑色のプラスチックのバケツとやたらと重たい桑を担いで、外に出た。
気温は摂氏34度くらいあったけど、土方や解体現場でアルバイトをして旅行費を稼いだぐらいのコウ選手にしてみれば、チロっと生えた雑草を刈るのなんて朝飯前の月形半平太だ。
口笛吹いてのんきに桑をかざしたら、あっという間に終わった。
巨大な牛が横たわったみたいなゴミ箱に雑草をぶちまけると、勢いよく階段を駆け上がり、「終わったぞ、ババァ、飯出来たか?」と怒鳴りつけた、というのは嘘で、「あのーすみません、終わりました」と、しどろもどろに拙い英語で告げた。
台湾人のお婆さんは、「アイヤー、もう済んじゃったかい」とビックリしていた。
中国人が本当に「アイヤー」と言うのを今日まで知らなかったのだから、その言葉を耳にしただけでも、ロスにまで来て草を刈る意味があったというものだ。
旅というのは何が起きるのか分からない。
水シャワーを浴びて短パンに着替えた。
充実した気分で、足取り軽く、清清した顔をして戻ると、なにやら香ばしいチーズの香りが漂った。
目の前のテーブルに、グツグツに焦げたチーズの乗っかったマカロニ。
簡単な食事が数多くあるアメリカ料理の中で、ナンバーワンに人気のある「マカロニチーズ」だ。
茹でたマカロニにチーズを絡めてオーブンで焦がしたシンプルな食事で、「この野郎、手ぇ抜きやがったな」という気持ちがチラッと霞めたけど、強欲っぷりでは4ブロックぐらい先まで、その名を轟かせているオーナーだったわけだから、きっと貴重なもてなしだったのだろう。しかも汗を掻いた後だったので、塩気が程よく、あっという間に平らげた。
モチモチしたマカロニに香り豊かなチーズが湯気を立てて巻かれている。
カリカリに焦げたチーズの周辺に少しタバスコを垂らしたり、ケチャップを掛けて食べた。
一気に食べた僕を見て、お婆さんは満足そうに微笑んで、「みんなには内緒だよ」と口に指を当てて、冷蔵庫からよく冷えたバドワイザーを持ってきた。
リトルトーキョーもそう悪くない、そんな風に思ったロサンゼルスの夏の午後だった。