当初は10日ぐらいの期間だけ滞在し、その後は北上するつもりだったのが、結局ずるずると40日以上の滞在となり、僕の学生時代のうちの5番目ぐらいに酷い退廃的な日々を過ごすこととなった。
40日のあいだに、僕の体重は47キロに落ちて、意識不明で病院に数回運ばれて、家宅捜査を2回受けて、年上の知り合いが3人自殺して、1人は精神病院に運ばれた。
滞在した場所はサウスアンンジュナと呼ばれるビーチから少し離れた森の中で、道路も舗装されていないエリアに位置する家に住んだ。
井戸水と蝋燭で生活し、椰子の木と椰子の木の間をバイクで潜り抜けないと辿り着けない場所だ。
日本で囀っているのを聞いた覚えのない音色をハミングする野鳥の声で囲まれた家は、2階建てで、夜になると闇に包まれて、オーナーはルーシーというインド人だった。
ルーシーは熱心なクリスチャンだったから、行動ひとつとっても自愛に満ち溢れていて、いま思い起こしても、まさに聖女に相応しい女性だった。
摂氏35度以上のあるのに「寒い」と錯乱して訴える僕を数え切れないくらい介抱してくれた。
で、僕が住んでいたのはルーシー宅の2階なのだが、これが腰の高さぐらいまでしか塀がないので、半分ベランダみたいな家だった。
「時々、猿が遊びに来ちゃうから大事なものは鍵を掛けてちょうだいね」とルーシーは事あることに僕に言った。
それに、ルーシー宅では、時々出没する猿だけではなく、犬と猫と豚がいた。
犬は何匹かいて、全部ジョビと呼ばれていて、隙を見て家に入ろうとする犬を「ジョビアウト!」と怒ってルーシーは追い出していた。
猫はプッシーという雑種の猫だった。
豚は何て呼ばれていたのか知らない。
このあたりでは、豚はトイレの裏にいるもので、つまりはトイレといっても穴があるだけで、そこで用を足すと、外にボチャンとなって、そのボチャンとなったアレを豚が食べる仕組みになっている。
この豚については面白い話が幾つもあるのだけれど、話すたびに寒い空気が漂うので、最近は控えている。
でも、ちょこっとだけ。
どんな様子か想像してほしい。。
用を足そうという時に、ズボンを脱いでケツをだす。穴からブツを急かしている豚の鼻息は、最新式トイレの温風装置の比なんてもんではない。小汚い穴倉から覗く大きな黒い豚の鼻。ブヒョウ、ブヒョウと鼻息が当たる。周りでは蝿がたくさん飛んでいる。ビチャビチャと下のほうで豚が啜る音。なんともいえない感触。
さて、こんな風に動物と人間がごっちゃになっているゴアの住まいには、やはり恐ろしいぐらい害虫がいた。
ルーシーに追い出されるジョビは、いつも2階に隠れて我が家でゴロゴロしていたし、プッシーもニャアニャア鳴いて2階で涼んでいた。
そういうわけだから2階の部屋は、この動物達が運ぶ蚤だらけで、潰しても潰してもわらわらと沸いてくる始末だった。
手も足も蚤に刺されて毎日を過ごした。あまりにも痒くて気が狂いそうになったので、バイクで街にある薬局を訊ねた。
「家に蚤がたくさん発生してしまって、退治ができないので、薬をもらえませんか。あとそれと、痒み止めの薬も」
インドの薬局は薬事基準が日本と異なるから、日本で売られていないような薬品がたくさん置いてある。
薬局のおじさんは、いかにも薬品を取り扱うという風情の顎鬚を生やしていて、フムと言うと、ピンク色の液体入っている瓶と、粗雑な紙で仕上がっている箱に入った粉末を出した。
ピンク色の液体は痒み止めだという。
タイにも似たような薬品があったので、なんとなく使い方がわかった。
蓋を開けて匂いを嗅ぐとツンと酸味の帯びた匂いがした。
「朝晩にこれを塗りなさい」とおじさんは言った。
「で、これで蚤を退治しなさい。これはDDTだ」と言った。
DDT?いまDDTって言ったよね。
僕は一緒に薬局を訪れた連中に言った。
DDTは、たしか社会の教科書で読んだことがある。
戦後間もない頃に、頭に虱がたかった学童にマスクをして白衣を着た医者が粉を吹き付けているモノクロ写真だ。たしか僕の記憶によれば日本では禁止されていたはずだ。
「DDTって使ってもいいんですか?」
僕がそう尋ねるとおじさんは質問の意味が分からないという仕草でYesとインド風に頭を揺すって答えた。
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最近、僕はDDTについてWebで調べた。
DDTは安価に合成できて少量で殺虫作用を持つ薬品で、蚊や虱といった黄熱病、チフス、マラリア等の病原体を感染させる昆虫を殺虫するのに効果を発揮すると書いてあった。
発癌性が疑われたのだが、最近の研究では発癌性そのものに否定があるらしい。それがDDTだ。
当時、インドに居た時はインターネットもあるわけではないので、DDTをまるで呼び戻された悪夢を見るような目つきで見てしまった。
小麦粉と片栗粉の中間みたいな白い無臭の粉で、床にバラバラとばら撒くだけで、
このDDTは想像を凌駕する効果を発揮した。
床に撒いて放置すること1時間。
たったの1時間で、大量の蚤と見た事のない昆虫の死骸が地面に山盛りになった。
そしてしばらく僕らは、咳が止まらない独特の薄気味悪い症状に見舞われ続けた。