2005年09月04日

死体を喰らふ犬

※TOPページの写真について少なくとも説明しなくてはいけない気がした。何故その写真を撮ったかということではない。僕がその写真を撮ったことに付随するインドで何が起きたか、ということについてだ。


朝6時半に目がさめるものの、いまだに頭痛が激しくて、まるでこめかみにネジを打ち込まれているような気分だった。

前の晩にゴアで買ったズボンを燃やしてしまって火事になりかけたからかもしれない。

20時ぐらいから酩酊して、火の附いている蚊取り線香に脱いだままのズボンを被せてしまったのだ。

トータルリコールのような真っ赤な惑星に辿りついて、はしゃいているところを揺さぶられ、夢から目が覚めたのは12時を回るところだった。

パチパチと景気良く燃えているパンツは僕を一気に現実まで呼び戻した。

「ま、まずいぞ。火事だ。火事!」

「ねぇ、水よ、水!!凄い煙じゃないの、なんなの一体!?」

なんなのかだって?こちらが聞きたいぐらいだ。夢の中の真っ赤な大地はこの燃え盛る炎だったのだ。

こういう時、意外と効を成すのがマンガの情報だったりするわけで、なんかの作品のシーンにあった〝水を直接掛けるより、ビショビショに濡れた布で火を覆うと火事は消える〟という情報が僕の頭を過ぎった。

そして、まさにここインドはバラナシで役にたったわけだ。

人間、マンガと言えどもなにかしら役に立つものである。

僕は急いでバケツに汲んである水(これはシャワーで使う水だ。もちろんまともなシャワーがないからこそバケツが置いてある)に兎みたいに跳ねて近寄ると、つい先日買ったばかりのバティックに何の躊躇いもなしに水をドップリと浸けて燃え盛る炎をめがけて一気に被せた。

ジュゥ。

断末魔の最後の叫びみたいに視界から赤い色彩が消え去ると、布が燃えた独特の匂いと煙が勢いよく飛び散り、なんとか火は消し止めることができた。

「ハハハ…」
なぜだか笑い声が出てきてヘニャヘニャと腰が抜けた。

「危なかったよ、マジで」
それだけ言うとゲッソリと疲れが出た。

危うくインドのガンジス河のほとりで、消し炭みたいに黒焦げになって発見された挙句、ゲストハウスを全焼させてしまうところだったのだ。

完全に火が消えたのを確認すると、玄関の扉をこっそりと開けて、お香を焚いて近隣のバックパッカーやゲストハウスのインド人を実際にケムに巻く為に準備をした。

ボヤを起こした事実に対するカモフラージュである。

それから僕らはとりあえず片付けを明日に回すことだけを決めて、原因も結果もそれにまつわる煩わしい言い争いを全部避けて眠りに就いた。


*
*

ベナレスの朝は早い。

現地での読みはVaranashi(バラナシ)。

悠々としたガンジス河のあるインドのヒンズー教の聖地だ。

現世の行いで来世が決定されるとするこの宗教では、ガンジス河で沐浴することにより現世の罪が洗い流されて、来世に繋がる・・・と信じられている。

聖地と聞くと厳粛で緊張のある風景を想像しがちだが、そんな考えは沐浴場(ガート)に到着して1秒で粉々に吹き飛ばされることになるだろう。

物売り、何を言っているんだかサッパリ分からない拡声器で怒鳴り散らされるヒンズー語(全世界の憤りを背負った不運な斑模様の鳥がギャオスギャオスと叫んでいるようなシロモノ)、ボートに乗らないかと耳打ちするインド人、輪になって野糞をしているインド人(平均して4人、多いときになると8人ぐらいの大所帯)、糞尿を撒き散らす牛の集団、迷子になった羊や山羊、河で洗濯する人、飯を焚く人、歯磨きする人、石鹸で身体を洗う人…。

それがガンジス河だ。

なるほど、人間の渾然とした生から死の総てのドラマがここで繰り広げられるわけだ、と多かれ少なかれ旅人は気付くことになる。

それでも朝6時から7時くらいの時間のガンジス河は ─こういう表現は変だけれども─ 営業時間前のパブのような雰囲気で静かで気持ちがいいものである。

人の数もそんなに多くはないし、いくらなんでもインド人だって、寝てる人だっているのだから。

何人かの早起きの連中が歯を磨いたりシャンプーをしたりしているだけである。

ヴィシュヌゲストハウスのテラスからはこの悠久のガンジスを眺めることができた。

レストランもあるので食事をすることだって出来る。

僕はケロシンコンロで湯を沸かして自分でチャイを作ってボンヤリと何も考えずに朝からガンジス河を見詰めるのが大好きなのである。

まだ霧に包まれているガンガーは僕の心を落ち着かせた。

手元にある文庫本(開高健のエッセイ。開高健のエッセイは海外で読むのに適した本の一つだ。僕が大好きなのは「地球はグラスのふちを回る」である。)をぺらぺらと捲って、眠たい眼をこすり、河と向き合う。

かけがいのない時間だ。

しばらくして7時も過ぎる頃になると、僕らは食事に出かける。

ゲストハウスの食堂で済ましてしまうこともあるけれど、たいていの場合は外まで出かけて食べるようにする。

ホンダのバイクにキィを差し込むと…っと、それはここじゃなかったゴアの話だ。

ゲストハウスの部屋に南京錠を掛けると、牛が道をふさいでいる石畳の裏路地を抜けてアリババレストランまで行く。

ベジフライドライスとコーラ。

決して美味しいとは言い難い味だ。

でも不味くても食べないと体調をおかしくするから仕方なしにポソポソの細長い米をコーラで流し込んで腹に詰める。

コーラなんて・・、と言う人はバラナシの衛生状態を知らない人だけが無責任に放てる言葉だ。

しっかりとビン詰めされたコーラが一番安全というのは常識にも近い。

いたるところで牛がぼたぼたと糞を垂らして、蝿が飛び交うこの街を訪れる機会があるようだったら覚えておいて損はない。

*
*

さて、その日は、ゲストハウスに戻らずにフレンズゲストハウスに泊まっているドイツ人カップルの部屋まで行った。

同じくそこのゲストハウスに泊まっているスペイン人のカップルとボートを借りてガンガーの向こう岸まで渡る約束をしていたのだ。

さすが世界に名高い几帳面なドイツ人、準備もすっかりと終えて何時でも出かけられる風に用意が整っている。

一方、スペイン人カップルはまだ眠たそうに布団に絡まって半分夢の中のようだった。

「やれやれ、この人たちまだ寝てるよ」

なんとなく日本人とドイツ人だけが分かり合えるような時間厳守の宿命を背負う人種同士、顔を互いに見合わせ、ガートで先に待っていると彼らに言い残して、ゲストハウスを背に向かった。

ガートに腰掛けてボート屋と交渉を終え、しばらく待っていると、絵葉書を買わないか、ドルをチェンジしないかと囁くインド人の後ろからスペイン人カップルが現れたので僕らは舟に乗り込んだ。

向かい側に行くには必ず昼間ではないと危険だ。

それと一人で行くのも危ない。

少なくともこうやって複数の人数でパーティを組んで行くのが最善である。

ゲストハウスの壁には何枚もの行方不明者のリストが貼られている。

夜中にガートを歩く旅人や河の向こう岸まで行こうと試みた者はみんな行方不明になっているのだ。

舟がガートから離れる。

しばらくすると ─舟が河の中央に達する頃になると─ 、この河の巨大さに気付くこととなる。

まるで海原のようである。事実、海豚や鰐だっているぐらいだし。

*
*

あと数十メートルで岸に辿り着くという距離だった。

それは明らかに異質な臭いだった。

誰彼もなくボートが岸に近づくにつれ、その「臭い」に気がついたことだと思う。

圧倒的な激臭が鼻についた。

それでも数分は誰もそのことについて指摘をしなかった。

最初に話したのはステファンだった。

「クソっ、なんだこの臭いは?鼻どころか目に染みるじゃねぇか。」

僕もたまらなく彼に続けた「ゴミじゃないぜ、これは」
みんなが一斉に布や袖で鼻を塞ぐ。

ボートを漕いでいるインド人だけが何事もなかったように詰まらない顔をして仕事に従事している。

到着したその岸は、不思議な場所だった。荒涼とした何も無い土地。

地平線の果てのような場所。たしかにここでは何が起きようとも不思議じゃないようだ。人を一人消すぐらいなんて簡単なことのように思えた。

地面を見たことのないカマドウマにそっくりな蟲がワサワサと跳ねている。白骨化した骨があたりに散らばっている。

「凄・・・。」僕らは完璧に絶句した。

臭いが充満する理由も無い荒涼地帯にも関わらず一層に強くなってくる。

どうやって渡ってきたのか、野良犬がたくさん居る。酷く虚ろな眼で涎を垂らして人間を伺っている。

その先に溶けた犬の死体。犬の死体を生きている犬がガツガツと食べている。

そして…、さらに先にあるのは人間の死体だった。

包帯でぐるぐる巻きにされた足のない人間の死体。その死体を犬が食べていた。

ゴリゴリと不吉な音を立てて、内臓を食べている。可笑しなことだけれど動物が屍骸の内臓から食べるというのは本当だった。

蝿が何千匹と飛び回っている。死臭で息が詰まりそうになる。

まさに言葉を失うとはこのことだ。

僕はその光景を表現する手段をもってない。

これからももてない予感がその時感じた。

埋め尽くされない底の深い溝が死体と僕の間に横たわっていた。

不慮の死を遂げた者や子供はガンジス河に流されると耳にしていたし、浮いている死体はよく見かけた。

でもあまりにもリアルティに欠けたその映像は何かマネキンのような余裕すらもあったのだ。

けど今回は違う。

腐敗してるし犬が死体を喰らっているのだ。

犬が人間を食べる!? ジョークなんかじゃない。

いままさにゴリゴリと音を立てて目の前の2匹は食事を愉しんでいる最中なのである。

邪魔でもしたらお前らも食べるからなと、まるで敵対するように我々を見詰める野犬は、僕らの知っている〝犬〟じゃなかった。

それは何かの拍子で間違えて生まれてしまった悪魔の申し子みたいな表情をした動物だった。

結局僕は躊躇しつつも何枚かシャッターを切った。

写真に残したらバチが当たるとか怨念が残るとかは不思議と考えなかった。

ただこれは撮らなくてはいけない出来事だと僕は感じた。

これから先僕はこの写真について説明することがあるかもしれない。

その時はそう感じた。

ドイツ人は「もの凄いグレイトなエナジーを感じる」といって死体の前でディープキスをしている。

スペイン人は死体のある水に浸かって何か叫んでる。

僕らはクラクラして秋の空に近い透き通った青空をただ眺めていた。

これが、98年4月10日の出来事である。

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投稿者 ko : 2005年09月04日 22:39 | トラックバック(0)
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