2005年01月21日

フジさん

ゴアには奇人変人が雨後のタケノコのようにニョキニョキ居て、それこそ相手をしていると自分が奇人なのか、それとも相手が奇人なのか分からなくなるくらい突出した個性的キャラが多かった ─布だけを腰に巻いて裸足で昼の炎天下、どう考えても歩かないだろって道を、首から携帯アンプだけぶらさげて奇妙な歌をハミングする男をあなたは奇人ではないと言えるだろうか─ とあるイタリア人は「キミの肩には星がある。もちろん僕もだ。僕にはそれが特別に見えるんだ。よかったら僕の星を君に揚げよう」とぐいっと僕の肩を掴んで言ってきたし(もちろんだけれど最初から星なんてものは何処にも無い、あるわけないじゃないか)、オランダから来たという男は部屋に居るあいだ、壁掛け時計を穴が空くほど見ていると思ったら「ねぇ、もしかして時が止まってない?」と本気で相談してきた。

何事にも限度がある、というのがひとつの定説だったら、
ゴアで出遭った連中はまぎれもなくピカイチの限度オーバーな人々だった。

旅人たちはそんな彼らを楽園に現われた予想もしない不確定要素のように扱い、彼らに話し掛けられたり、彼らに話し掛けられてしまった人達を見ると少なからずとも複雑な顔をした。

それは、もしかした何かの拍子で、ちょっとした運命の匙加減であっちがわに行っちゃうんじゃないかという懸念、というか可能性もあるんだぞっていうことだろうか。

ある時ある晩、マル特クラスの担当が「やぁ、君、ずいぶんと派手になったじゃないか。今日から君もこの連中の仲間入りだよ、ハハハ」と言ってこないなんて保証は何一つないんだ。

だから特定の人達から見れば、彼らは物哀しくも恐ろしく映った。

日本人のフジさんもその中の一人で、僕が最初にゴアを訪れた時、すでに奇人変人組の仲間だった。

いや、もしかしたら幾分マトモなのかも知れないし、彼の性格的傾向がどのような状態なのかは誰にも分からないけれども、彼がその奇人シリーズに名を挙げるにはこれまでにない要素があった。

パスポートが無い、金がない、妻もない、家庭もない、日本ってなに?ということだ。

かつて吉幾三は「テレビもねぇ!ラジオもねぇ!クルマもそれほど走ってねぇ!」とたぐい希なるラップ調の演歌を歌ったけれど、フジさんはもっとなんもねぇ人だった。

11月~5月以外のシーズンオフの間、彼がどこで何をしているのか誰も知らない。一説に因れば、彼は6月から10月まではプリーにある日本人相手のゲストハウスで働いているって話だった。

けどこの説もどうなのだろうか。

6月以降に日本人がインドを訪れる機会なんてそうそうないし、いるとしても6月以降のツワモノ達は現金を落していくような輩じゃないからだ。

1ルピーよりも安く、それが旅人達の合い言葉だ。

そういうわけで、彼はシーズンオフの期間はプリーにあるゲストハウスで客寄せみたいな仕事をしながらどうにかして食いつないでいるのじゃないだろうか、というのが彼が話題に出た時の一通りの予想だった。

さて、ゴアの黄金的なシーズンが訪れると、彼は、くんくんと鼻を嗅ぎ、どこにでもいがちな旅人の如く振る舞い、そしてカモそうな日本人を見つけると蚊帳に忍び込むやぶ蚊のように近付き、あたりまえのように煙草や現金をたかった。

そのタカリ方はタカリ歴十数年といった具合で、筋金入りのタカリ具合だ。

つまり〝お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの〟という思考回路と行動表現で存分に発揮された。

フジさんといえどもその容貌は、日本人だから同胞の者がそのようにインド人と思わざるを得ない行動に出ることに旅人達が面を食らうのは確かだった。

「なぁ、金貸してくれ」
'94年の2月、サウスアンジュナの〝マンゴシェイド〟で爽やかな一日を予感し、バナナシェイクを飲んでいる時だった。

突然とオレンジとアスパラグリーンで彩られている我々が座っているテーブルに現われた白いルンギーを巻いた男はそう言った。
それが日本語であることと、そして日本人である僕らに向けられた言葉であるということを認識するまでにしばし時間が必要だった。

「は?」

僕はやっとそれが自分達に向けられているんだと気が付き、ストローから口を離し、彼に眼を向けた。

「金貸して欲しいんだよ」
男はもう一度そう言った。

それは、俺には金を借りる権利があるんだ。お前ら日本人からな。なぜなら俺らは助け合うべきなのさ。だから金を借りるのは当然なんだよ。
おいおい、なんで二度も同じことを言わせるんだい?と失笑と苛立たしさが混じっている口調だった。

旅の空の下、何やかやとカラーに富んだ連中に出くわしたが、さすがに金をタカられたことは皆無だった。だから少し呆気に取られた。

でも僕も馬鹿じゃない。二十歳の若造とはいえ、金をタカられて貸すほどの間抜けでも無い。

「誰だい?あんた。俺はあんたのこと知らないな。知らない奴には金は貸せないよ、悪いけど」

僕は幾分我慢して言葉を選んでそう告げた。彼はさも心外だと言う表情でブツブツと声にならない台詞を呟き、テーブルに背を向けた。

それは無心して断られることに慣れている者だけが見せる卑屈な態度であり、そしてまた、自分の思うがままになれない者の蔑んだ態度でもあった。

つまりお前らじゃ話にならんってわけだ。

その瞬間、はなはだ堪えきれず僕は続けた。

「なぁ、あんた、どういう事情か知らないけど、モノや金を借りる時っていうのは借り方ってのがあるだろう。とてもじゃないが、たとえ余分なお金を持ち合わせていても、あんたには貸さないぜ。知らない人間に借りなくちゃいけないって時は頭を下げて頼み事をするのが筋合いだよ」

でも、彼は呪詛を繰り返すだけで、僕らのほうを振り返りもせずに店の外を出ていった。

〝マンゴシェイド〟の先にあるのは〝ジャーマンベイカリー〟だ。

この時間だったら少なからずとも朝食を食べている連中がいることだろう。恐らくそこに向かうに違いない。

彼が去った後、心ない薄ら寒い感情がふと訪れた。彼が残した呪詛で埋まろうとしている空気が感じ取られた。彼の風情は、つまるところ僕らが金を貸さないことが悪いことだというオーラを醸し出していた。

僕らは残酷者のサイドに立たされていた。

たしかにすぐに思ったのが、彼にはどうしても借りなくちゃ行けない理由があるのだろうかということだった。

それでも、あれはいくらなんでも酷いじゃないか。どんな頼み事をする時だってルールがある。彼がしたことはルールの違反にもなってない。ルール以前の問題だ。自分は間違ってない。そう思うことでなんとか嫌なその寒々しさを払拭することができた。

それから後日、彼がフジさんと呼ばれるゴアでは幾分知られた人物であると知った。そして彼がとっくの昔にパスポートも売り飛ばして日本に帰国できず、タカりながら日々を過ごしていることも。

*

僕が最後にゴアに行ったミレニアムの年。
バンブーフォレストのパーティで彼の姿をチラリと見た。やはり彼はチャイママのゴザで寝そべっている日本人に尊大に話し掛け、そしてその話し掛けられた日本人は困惑しているようだった。

フジさんは僕が予想していた以上に老け込んでいた。そして数年前よりも遥かに老獪な図太さを身に纏っているようだった。

2005年の今年、スマトラ沖で大津波があったこの年もまた彼は健在だった。僕の友人夫婦がバガトールのビーチで彼を目撃したからだ。

まだ彼は生きている。

10年以上インドで生活するというのは僕には想像も出来ない。
現金もパスポートもない状態で。そこには想像を超えた何かがある。

絵空事じゃないライフスタイルを歩くフジさんでもゴアは楽園なのだろうか。

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投稿者 ko : 2005年01月21日 21:27
コメント

1995年10月~12月アンジュナにいました
そこで僕の人格に影響を与えるできごとがたくさんありました。それは全ていい影響でたくさんの人と出会いました。その中にふじさんもいました。その時のふじさんはたかるとゆうより、ねだるとゆう感じで悪い印象は無くその時の日本人仲間で楽しく、とてもとても楽しく遊びました。今でもあの時のインドは二度と味わうことのできない純粋で過激で神秘めいた時でした。

Posted by: おおち at 2005年08月11日 07:49

1995年のアンジュナ、懐かしいですね。僕は学生だったので2月からインしていましたが、本当にかけがえのない日々でした。

おおちさんは95年以降もゴアに行かれましたか。もしかしたら何処かでお会いしているかもしれませんね。

Posted by: ko at 2005年08月11日 13:40
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