夕刻特有の、赤銅色に輝く空が島全体を包み始めると、黄昏の影を縫ってサーファー達はホンダのバイクにサーフボードを乗せてゲストハウスにいっせいに戻る。
きっと上空から眺めたら、海の馨りを身体全体に放つ彼らは母なる河に還ってきた鮭のように映るだろう。
我先に急がんとばかりに喧しくスロットを全開にし道をすり抜ける。ちょっとでも道が混雑すれば旅行者であろうとバリニーズであろうと、容赦なくクラクションを鳴らす。バリ島の交通渋滞は実にカオスだ。
一方通行が複雑に絡み、旅行者にはまずお手上げだ。それでいながら、歪んだ道路事情であるのになかなか均衡を保っている。
そんなやり取りを横目に、バリニーズがお祈りを捧げ、表通りに面したお店の入口にお香を添える。この島に不釣合いなクラブですら、入口では香が炊かれているので、彼らの信心にはほとほと頭が下がる思いである。
1999年12月、僕と友人Kはバリ島に滞在していた。
1999年のカウントダウンは、世界各国でパーティが開催され、バリ島でも大きなパーティがあると聞きつけたので島までやってきたのだ。
僕らの周りでは南アかゴアかパンガンという選択肢で行く先が異なったけれど、僕らは最終的にバリ島にした。
97年98年にゴアで一緒だったM君とスミニャックで合流し、12月30日には、JunとかHとかIもこっちに来るらしい。ベイホールで何度か見かけたカナダ人ともクタのクラブで再会した。
祭りの後にはレギャンというビーチ沿いのゲストハウスを引き払い、山あいに位置するウブドという村に宿を移動してチルするつもりだ。
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クタビーチに続く繁華街を歩いていると、ニューデリーほどではないにしろ物乞いやら売人やら物売りが耳元で囁いてくる。アジアならではの光景であり、鬱陶しくも心の中で「こうでなくちゃな」と呟く場面である。
彼らの何人かは巧みに日本語を操り、「両替ドウデスカ」とか「キノコ食ベタイデショ」など怪しい単語を並べて旅行者の足を止める。
もちろん無視を決め込むしかない。僕とKは物売りの勧誘を振り払ってベモと呼ばれる三輪タクシーに跨りタナロット岬に向かった。
噂が本当であれば、岬で今夜ケチャダンスが見られるはずなのである。
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今夜タナロット岬に行くよと、僕は隣のコテージに滞在しているオーストラリア人カップルに告げた。彼らも関心を示しているようで、岬で待ち合わせしようということになった。
大抵のオーストラリア人がそうであるように、彼らは日本人には好意的である。毎晩12時を過ぎると雄たけびを放って延々と交尾をし続けるカップルではあったけれど、それを除けば僕らに親切な二人だった。
ある晩、テラスにある籐椅子に座り蝋燭に灯りを燈して人気の居ないプールを眺めながらKが呟いた。
「ありゃセックスというよりはプロレスだよな」
僕は呑んでいたビンタンの瓶を転がしそうになり、ゲラゲラ笑った。
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複雑な裏道を曲がり抜けると、そこは岬だった。夕闇があたりを包み、昼の太陽の余熱がそこかしこで放射している。意外にも岬には幾人かの旅行者が既に到着していて、オーストラリア人カップルもその中に含まれていた。僕らは合流し見晴らしのよさそうな場所に腰をすえた。
いよいよ茶褐色のバリニーズが酩酊した様子顕れ始めた。
我々部外者を一瞥もせずに黙々と列を成してゆく。腰みの以外は身を纏っていない。
「チャッ、チャッ。ケチャケチャケチャケチャ・・・・」
蛙が憑依したかのような動作で身体を揺らす。
僕はあっという間に心を奪われ、半ば陶酔した様子でカメラを手にした。鳥肌が止まない。
フイルムを交換し、またシャッターを切りまくった。Kが掛け声に同調して足でリズムを刻み始めた。
ふと足元に視線を移すと、日本には棲息していない小豆の粒ほどの巨大な赤蟻が米粒を運んでいた。何処から運んでいるんだろう? あたりを見回しても米粒らしき食物を見つけられなかった。
蟻の一群は地面から流れ出す血液のように生々しく残酷に感じた。
「ケチャケチャケチャ・・・・」
トランスが果てしなく続く。
オーストラリア人カップルの女が、その蟻の流れに気つき、指で一匹摘んだ。蟻が抵抗して彼女の指を噛む。その一部始終を僕は眺めていた。
オーストラリア人の女は小さく「痛い」と呟き、完全に欲情した表情で蟻の首を千切って、薄笑いを浮かべた。他の蟻はそんな様子に気づくことなく、一心に米粒を運び続けていた。
カメラを持った僕の手は汗でべっとりと湿り、からからに渇いた喉の奥で唾液が音を鳴らした。