遥か彼方にこの地を訪れた宣教師ザビエルのミイラが安置されている町だ。町といっても舗装されていない道だらけで、ジャングルの奥に行くと水道が無く、蝋燭の灯で生活するような場所である。
私と私の友人、そして名前も知らない数多くの旅人たちが、その土地を目指し、そして幾度となく訪れた。それは私が20歳、つまり今から10年以上前の出来事であり、2000年のミレニアムまで続くこととなる。
印度亜大陸の宗教的な位置からも奇異な地であるここでは、そこかしこに西洋的な風習が見受けられ、特に逸脱しているのがアルコールの飲酒自体が認められていることだ。インド広しといえども、酒瓶が合法的に売られているのはここだけである。その為、インド人が飲酒を目的として観光目的で訪れることが多い。
私は94年を始めとして、2月のシーズンが来ると、そこを拠点として外国人と混じりヒッピー同然のひどく退廃的な生活を貪り過ごした。
その間、2回病院に運ばれ、3回家宅捜査を受けた。毎日フラフラになりながらいつまでも踊り狂い、サンサンと太陽の光を浴びながら素性も知らない連中と裸同然で生活していた時期だ。
私たちはそのようなライフスタイルに身を置くことを自ら求めていたのだろうし、またどのような結果が訪れようとも、その生き方以外を選ぶことはできなかった。
やがて、何人かの友人が死んで、何人かが行方不明になった。帰国した知り合いも病院から退院できないといった類の噂が、まるで天気の話でもするかのように当たり前に私たちの周りを渦巻くこととなった。
帰国して普通に社会生活をしている我々はほんのちょっとした何かの匙加減で少しだけ恵まれているだけだと思う。
そこがゴアと呼ばれる土地だ。
私が楽園と言えばそれはゴアのことを意味する。
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当時はまだチーズを売っている店は唯一サウスアンジュナのジェネラルストアの一軒のみだった。
左に行けば教会が見え、さらに先に進むととアンジュナのジャンクションがある、あのジェネラルストアだ。
夢と希望とプリングスとチーズが所狭しと置いてある店。
そのジェネラルストアから右側にバイクで5分ほど行くとローカル・インディアンが集まる椰子酒の酒場がある。
長いカウンターとプラスチックのテーブルが幾つかだけ並ぶそのバーは、ローカル達が誰彼と無くその日一日の仕事を終えると集まり、グラスを片手に夜を楽しんでいる。
酒場自体は見落とすというほどではないにしろ、暗黙の了解のもとにバックパッカー達が酒場に足を踏み入れる事はあまりない。
おおよそローカル達に煙たがられるし、実際のところバックパッカー達はこの酒場にそれほど興味を示さない。
もちろん私も知らなかった。
私がこの酒場を知るようになったのはカラングートに住むイギリス人が教えてくれたからだ。
たいていのインドで会うイギリス人が変わっているか気が触れて見えるように、この男もまた非常に風変わりな男だった。
年齢はたしか28歳で、今回の旅が何回目のインドか数えられなかった。ジェルミィというのがそいつの名前だ。
髪の長いロマンスグレイの瞳の彼女が常に傍らにいて、その子の名前がエレナだった。私は暇と持て余している時間に任せてよく彼らと遊んだ。
エレナの友人の─その子もまたイギリス人だったが─、フランシスもその家で私たちと一緒に時間を過ごした。
フランシスは漢方とか禅とか忍者とかそういったオリエンタルなもの全てに魅力を感じている22歳の女の子で、その東洋の神秘をインドで会った日本人、すなわち私にまるごと見出そうとしていた。
彼女のアプローチに応じたわけではないが、ごく当たり前のように私は彼女と寝る関係になった。それでも恋人になるまでは至らなかった。
彼女が求めている何かが私にあるように思えなかったからだし、彼女自身も付き合っている彼をロンドンに残したままだった。
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「もちろん一週間に一度は彼に電話をするわ、それでも、なんとなく私がいた筈のロンドンなのに、彼を含めて魅力を感じる事ができないの」
彼女はハンモックで寝ている私に馬乗りになって言った。
小柄で華奢なわりには胸が大きかったので、ハンモックが揺れるとその胸もまたユサユサ揺れた。
「わかるかもしれないな、そういうの」
「わかるかもしれないって、どっちが?」
「ん、君のその気持ちさ。インドは遠い。どこからもね。そういうことさ、きっと」
「フフフ、そうね。インドは遠いわ。目眩がするほど。日本からも?」
「そう、そうだよ。日本からもだ」
海岸沿いを走るバイクの音が聞こえてくる。
フランシスがスカートをめくる。
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よくジェルミィはイギリスからわざわざ持ち込んだ日本製の箸を僕に見せびらかしていた。そしてインドでまだカレーを食べたことがないんだとしきりに自慢していた。
「おい、コウ、聞いてるか。俺はまだこのインドに来て一回もあのクソッタレのカレーを食ったことがないんだぜ。凄いだろ。インドではカレーを食べない、それが俺のポリシーなんだよ」
そんなことを言いながら彼はその一軒家の部屋中の壁にクレヨンで絵を描きつづけていた。
動物や人やレインボーパレード、星とか月とか森羅万象がごっちゃまぜにカラフルに描いてある絵で見ているだけで眼が回った。
彼の性格が出ていると思った。絵を描いていることはどうやら管理人には内緒らしい。きっとここの家主がその事実を知るのはシーズンオフの頃だろう。そう想像するととても愉快な気持ちになった。
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ある晩、彼を訪れると庭で乾いた椰子の実を火にくべながら彼らは焚き火をしていた。
途中の雑貨屋で買ったパパイヤとレモンを出すと、彼らはとても喜んでくれた。
エレナが早速とキッチンに向かい、そして切ってくれた。
レモンはパパイヤの味を中和する。私がインドで学んだ生活の知恵の一つだ。
火の向こう側でジェルミィが見なれない飲み物を口にしているので、何を飲んでるんだと私は聞いた。すると彼は眼を丸くして「おいおい、なんだ、知らないのかよ」と何も説明もせずに私に回した。
「知らない」私はそう答えた。知らないな、どこにあるんだ、これ。
そういうわけでジェルミィは椰子酒とその酒場を教えてくれた。
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酒場ではローカル連中は特に私のことをいぶかしがるようなことはなかったが、かといって熱烈に迎え入れるわけでもなかった。
私は年齢の割には若く見られるので子供がこんなところに来てはいけないんだぞ的なセリフをしばし言われてからかわれた。
ちゃんとした年齢を告げると皆が一様に驚くか安心して、じゃあ呑んでいけよと言ってくれた。だから私はカウンターで岩塩がまぶしてあるピスタチオを齧りながらよく彼らと話した。
彼らは私が英語しか分からないと気が付くと、ヒンディ語やコンクーニ語ではなく英語で話してくれた。
日中は商売以外ではどこか距離のある彼らもこのカウンターでは世界のどこにでもいる夜のとばりを過ごす者と同じだった。
会話の途中で理解できないところもあったが、そんなことはどうでもよくて、彼らがする獲れた魚の話や、どこぞの奴が結婚したとかいった話は聞いているだけで心地よかった。
その椰子酒は味はともかくアルコール度だけはピカイチだったのでたいてい3杯程度飲むと私は店を後にした。
「ピスタチオ食べないのかい、ジャパニ」
「うん。良かったらどうぞ」
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酔いながら眺めると頭上にはオリオン座が拡がっていた。
椰子の木のあいだから夜風が吹く。遠くの方で今夜のパーティの音が聞こえてくる。今夜もきっと私たちは踊る事になるだろう。眠るのはもっとあとの話だ。
パーティライフ。けれど、いつまでこんなことが続くんだい?
おぼつかない足取りの私に昨日一緒にメシを食ったイタリア人が話し掛けてくる。こいつの名前はなんだっけ。
「ヘイッ、コウ。調子はどうだい。パーティには行くんだろ」
「ああ、行くよ。行くに決まっているだろ。夜はこれからだもんな」
私はホンダのバイクのキィをポケットから探す。明日の予定は特にない。母国を離れてから数ヶ月経つ。日本では何が起きているのだろうか。ひどく昔の事のように思える。
さて、私は何処へ行けばよいのだろう。