2005年01月12日

ピーピー島

ピピ島(どちらかというとKoh PhiPhiなのでピーピー島だろう)に辿りついたのは00年2月だった。

バンコクで一足先に帰国した友人と別れ、
さてこれからどうしようかなと、あぐねていた。

何をしてもオッケーだった。だって予定なんてないから。

ベトナムに行って、青空の下で爽やかに揺れるアオザイを眺めるのも、アンコールワットで衝撃を味わうのも、プノンペンで映画「キリングフィールド」の世界を確かめるのも、すべて悪くないアイデアだった。

南国の果実が甘酸っぱい匂いを溢すうだるような時刻、トッケーが鳴き騒ぐ夜、いつまでもそんなことを考えていたら計画だけが先回りして、薄い糖衣のように自分自身を計画表がしたたかに包みこんだ。

危険な兆候だ。

このままカオサン通りのゲストハウスの穴蔵に篭ってしまいそうになった。
カオサンから出られない旅人はごまんと居る。

某月某日。

いつもとおなじような、よく晴れた昼下がり、素足にサンダルを引っ掛けながら木陰の屋台で汁ソバを啜っていると、ボサボサ頭のカナダ人が話し掛けてきた。

おおかたのカナダ人がそうであるように、彼も人の良さそうな、悪く言えば少し間が抜けてしそうな雰囲気を持ち合わせていて、アジア人にも聞き取りやすい英語を話した。

「座っていい?」
「ああ、いいよ」
「よかったら火貸してくれないかな」
「ごめん、煙草吸わないんだ」
「そう」 Excuse me May I~、彼は隣りのテーブルのカップルに火を借りた。

いきなりだった。「ねぇ、〝ビーチ〟って知ってる?」
彼は慣れた口調で、焼き飯とビールを頼むと僕に向かって言った。

最初、彼が何を訊いているのかよく理解できなかった。
ビーチ?海にある砂浜だろ、そりゃ。そんなの知ってるさ。

「ハハハ、そうじゃないんだよ。まあ、それも〝ビーチ〟だけどさ。レオナルドデカプリオの映画。見てないって?そうかもしれないな。公開したばかりだからな。バックパッカーの主人公が旅人たちの楽園の島を目指すっていう映画で、ここが舞台なんだよ(彼は手を広げてにこやかに笑顔を見せた)。ピーピー島っていう実在の島で撮影したんだ。」

残念ながら僕はその映画を知らなかった。悪いね、初耳だよ。
僕が日本に居た頃にはまだ上映されていなかったな。

「で、その島行ったのかい?」
僕が質問すると、彼は待ってましたとばかりに目を輝かせた。

「あぁ、そりゃもう、ほんっとに最高の場所だったよ。何にもないっていう贅沢だな。いや、実際にはかけがえのないモノがあるわけだけど。文明的なモノは何にも無いのも同然だ。あたりは静かでココナッツがいっぱい。白い砂浜が続いてアクエリアスブルーの海があるんだ」

「へぇ、そりゃいいな」

「ああ、ぜひとも行くといいよ。桟橋から渡ると島の両端に幾つかバンガローがある。右手のほうがお勧めだ。目の前にビーチがあって、テラスのあるゲストハウス。そこでのんびりとハンモックに揺られてシンハを飲むのさ。風の音と波の音。ザッツオール。飽きたら海にドボン。遠浅だけれども、信じられないことに魚がたくさん寄ってくるんだ。まるで宝石をちりばめたみたいにね」

僕はそこまで聞いた時点で、よし行ってみようという気になった。
宝石をちりばめたような海を想像するのはとても愉快だった。

「そうそう」彼は思い出したように続けた。

「島のその桟橋のところに屋台が出ている。ツナのサンドウィッチの屋台が。パンを鉄板で焼いて、ツナも少し炒めてオニオンとトマトとグリーンレタスを挟んだサンドウィッチ。一度食べたらきっと病み付きになるから食べたほうがいいよ。椰子の木陰に座って食べるのがナンバワンだ」

翌日、僕はバックパックに荷物をまとめるとピーピー島に向かった。
カオサン通りのチープな旅行代理店で片道のチケットを手に入れて。
僕を島に導くきっかけになった名も知らない同じ旅の空にいるカナダ人に感謝を込めて。

バスはファランポン駅を深夜出発だった。急に島に行き出すという僕を心配して、ソイ・カウボーイの『NARCISSUS』で知り合った子が見送りに来てくれた。

「帰ってきたら連絡ちょうだいね」
「うん」

彼女は少し淋しそうだったけど軽く頬にキスしてくれた。そして僕は島に向かった。

*

昨日、僕は深夜のニュースを見ていた。
2005年1月11日。いや、12日になっていたかもしれない。

南の島を覆う津波の映像は胸を締め付けるのに十分だった。
ひとめ見てそれがどこなのか分かった。

ピーピー島だった。

僕が泊まっていたバンガローに向かう途中の土産物屋やオープンカフェが並ぶ島の通りの変わり果てた姿だった。

津波は、己をを抑え切れないように次々と、人や家を─その他全てを─飲み込んで行った。

それはまるで眠りを起こしてしまった機嫌の悪い大蛇にも見えた。

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投稿者 ko : 2005年01月12日 22:09
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