突然だけど、2000年のミレニアム、僕はインドネシアのバリに居た。
1999年の12月30日にクタビーチの道路で友人と一緒に無免許運転していたバイクが道の真ん中で転倒して、その後部座席に乗っていた僕は10mほど吹き飛び、頭をぶつけた。
すぐに救急で病院に運ばれた。
腰から下が打撲傷と擦り傷で嘔吐を頻繁に繰り返していたから心配もあったけど、翌日はせっかくのカウントダウンパーティだったから、強力な鎮痛剤の処方をお願いして、なんとか自分の借りているロスメンに戻れるようにしてもらった。
「危険な薬だから量だけは間違えないように」
医者はたしかにそう言った。
僕はまだ頭がぼんやりしていたけれど「ええ」とか「はい」とか適当に頷いた。
帰りぎわ、薬局で一番キツい消毒剤を忘れずに購入することにした。
どうしてかというと、日本ではあまり心配することがないがアジアでは水道水自体に雑菌が入り混じっている環境であるから、シャワーとかでも菌に感染してしまい化膿したりするからだ。
何人ものの旅人がバイクで怪我をしたり、火傷をしたうえ水からの雑菌で傷が悪化し、ボロボロになってしまった姿をみた。
だから僕も身体を洗う時はことさら気を遣うよう心掛けた。
消毒剤は黄色い液体で蓋を空けるとクレゾール臭く、おまけに想像を絶する痛みを伴ったが、ボロボロになるのはゴメンだったから我慢して傷に塗った。
それから翌日、まさにミレニアムパーティという雰囲気の中、僕と友人は昼過ぎに会場に向かい金も払わず入場し(確かUS250ドルとかじゃなかったけ)、蒼い空が見渡せるメインフロアで寝転びながら、その一瞬一瞬を肌で刻みながら夜が更けるのを待った。
夜、クタビーチ全体をテクノミュージックが包み込む中、痛みに堪えられず医者から貰った鎮痛剤を腰バッグから取り出して、飲むついでにインドネシアのビンタンビールと地元の椰子酒であるアラックを呑んだ。
「これだったら痛くもならないし踊れるだろう」
そんな風に考えた。
考えた後は....、考えた後は、どうもそれからの記憶が全く欠落している。
何処で何をしていたのか4年経った今でも思い出す事が出来ない。
いまだから言える事だが、僕は医者から貰った鎮痛剤を3回分飲用していたのだ。もちろんわざと。
それだけ飲めば痛くなることはないだろうと踏んでいた。
その後、アルコールが回りどうやら急性健忘症になったらしい。
誰かと話をしてはいたのだけれど、それが現実なのか、それとも自分が創り出した夢物語なのか、まるで区別がつかないで今に至る。
おまけに傷口が腫れて、鎮痛剤なのに痛みなんて取れず膝から少し化膿していた。
明け方、会場の隅っこでひっくり返っている僕を友人が見つけ出すと、そのままボロ雑巾のような姿でなんとかタクシーに乗り込み、レギャンのロスメンに戻った。
宿に戻ると、今度は気温が30度前後もあるにも関わらず、真冬の街路樹に突っ立っているみたいに震えが止まらなかった。
自分の体温がどんどん下がっているのが分かった。意識が朦朧としてさすがにこりゃヤバいなみたいな状態に陥ったので、宿の親父に頼み医者を呼んでもらう事にした。
医者は10分もしないうちにすぐにやってきて、その間僕はあるだけの毛布を被りガタガタ震えていた。2000年1月1日 バリ 気温30度。
その医者が女医であったことは少々僕を驚かした。女性が社会に進出することに対して含んだ気持ちなど微塵も無いが、日本や欧米に比べて医者など特定の地位に就いている女性は圧倒的に少ないからだ。
医者は僕に「どんな薬を飲んだか」と聞いてきた。
僕はベッドの枕元にある処方箋を、しなしなと指差して「この薬を3回分まとめて飲んだ」と言った。
その女医は表情も崩さずに何の感情も示さずに、その鎮痛剤を見つめると僕に「もしかして酒を飲んだか?」と今度は厳しい目付きで聞いてきた。
酒だ、俺は酒について訊かれている。Did you drink alcohol last night?
「イエス」
僕はなんて答えるべきか迷ったけれど、嘘をついても善いことがなさそうなので正直に答えた。
「イエス、昨日の晩、ミレニアムパーティでビンタンビールとアラックをしこたま飲みました」
女医は慈悲深いマリア様みたいに、
─うん、彼女は本当に後光が射すマリア様のように見えたのだ─
「そう。この薬はお酒と一緒に飲むと非常に危険なのよ。それに...。
それに、あなたが飲んだ量は明らかに間違いよ。通常じゃ考えられない量を飲んでいるわ。量を間違えるとこの薬はとっても危険なの。分かる?」
彼女は溜息交じりにそう言った。
僕は両瞼を瞑り誰かに弁解するかのように「分かります。けどまさかこんな酷い目に合うとは思ってもいませんでした」と答えた。
先生、僕はいま何が起きているのかも分からないのですよ。
医者は持ったジェラルミンケースから注射器を取り出すと「今からこれをあなたの脊髄に打つから仰向けになりなさい」と言った。
彼女は僕の被っている毛布をはがして、シャツをめくった。
これは弛緩剤で催眠効果がある応急手当よ...。
そんなことを言ってはいたが、僕の耳には全く届かず、キンキンに尖った注射器は僕の心臓を極限まで高まらせるのに十分なオーラを持っていた。
これからどうなるんだろうかと不安になった。
「あなたはこの注射を打った後、10分もしないうちに眠るわ。それからあなたの御友達にミネラルウォーターをたくさん用意するように言ってね。たぶん3日間眠りっぱなしになるだろうけれども、その間水だけはちゃんと飲まないといけないから。」
僕は心配そうに見守ってくれている友人にその旨を伝えた。
悪いんだけど、前の雑貨屋で水をたくさん買ってきて欲しいんだ。
どうやらこれから俺は眠りつづけるらしい、と。
伝えきるのを見計らうと背中に熱い電流が走った。
医者が注射を打ったのだ。
自分でも背骨になんか流れているのが感じられた。
「じっとしてなさいね。寝れば治るわ」
それから僕はまどろみの中に溶け込んでいった。
5年前の昨日の出来事だ。
昏睡中僕は何かを口走ったみたいだけど、
自分がどんな事を喋ったのか何一つ覚えていない。
友人は後日「まるで夢遊病者みたいだったよ」とバツが悪そうに呟いた。