「電車男」に見られる特異性は、実は何もないというのが僕の行き着いた推論である。
状況とコミュニケーション手段に時代の変化があるだけだ。あとは何もない。
俗に「オタク」(これは、ほとんど死語だね)の青年と、そのアキバ系青年とは2光年ほど離れているとされているOLの恋愛物語。
なるほど、たしかにコミュニケーション能力が社会的に欠落気味している、同好の趣味を持つ者との間でしかコミュニケーションを取り難い青年としては奮闘の価値ある恋愛であろう。
ただ、僕が気になるのは、周囲の皆さまの判断能力で─周囲というのは、映画を、そしてメディアと取り囲む人々─、とどのつまり、オタクという外見的特徴のみが一人歩きして、社会的にも彼の内面資質(もちろん実際にはそれがどんなものかも知らないわけだが)は、ないがしろにされている気がする。
つまり、「オタクらしくない」という非アキバ的な行動を電車男が振舞う姿がキーポイントで、観る者(僕はあえてこれを観客と呼びたい)が断定しているオタク行動から「電車男」が逸した時だけ、ドラマが生まれているのだ。
観客のエゴイズムな視点からみたオタクとして逸している行動とは、酔っ払いを制するところから既に始まっていて、エルメスのようなOLとの恋愛に続き、その彼女とのデートであり、恋愛の成就である。
その外見的特徴と社会的分類のギャップだけで成立している。
この物語、恋愛心理の側面としては、ありふれている内容なのだ。
誰もが恋をしているのならば電車男のようにドキドキするだろう。
それが普通だ。
こんな浅くて薄い、物語と呼ぶには不満足なドラマが成功をする国って平和なのかもね。
うーん、なんだか分からなくなってきた。まぁ、いいか。
全面的に同意だねえ。
これが日本の文学だと思われてたらすごいアレだよね。
アジアで大きく上映されるらしいですよ。自分にとって、非常にどうでもいい話題の輪に取りこめられる無力感があるなぁ。こんなとき、ネパールやコスタリカあたりにでも行けば、情報難民になれるんだけど。うーむ。