ブログについて語ろう。
なぜTBがないのかといえばトラックバックの機能が必要ないから。
なくてもダイジョウブ、でもその機能が付いていたって、問題じゃない。
でも、便利は新たな不便利を引き起こすかもしれないから、なんだかんだで、つけない。それは個人の問題だから、或る無いの差はあっても良し悪しの差はない。
つけたい奴がつけて、つけたくない奴がつけなければいいだけだ。
もし、ブログなんだから付けろよと云う奴が居たら、そいつの頭めがけて豆腐でも投げつけてやればいい。
そんな奴は豆腐の角に頭をぶつけただけで死んでしまうだろう。
でも必要ってなんだろう?ブログは必要なのか?
たぶんこれもなくてもダイジョウブだ。
mixiだってなくてもダイジョウブだ。ドメインも、携帯も。
ウチに何台かあるパソコンやカメラや聴きもしない収集しているサイケのCDも。
そう考えると、僕はなんだか要らないものばかり集めているような気がする。
ところで、僕はいったい何を書こうとしているのだろうか。少なくともこの文章に終着がない。
あるとすれば、世界の片鱗にしがみついている堕天使の独白だ。
そして悲しいことに駄天使に救済は与えられない。彼の翼は灰色に穢れていて、彷徨う運命にある。
*
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時々、都会を離れて月数万円で田舎暮らしをする家族の番組を観ることがある。
彼らは実にシンプルな生活をしている。悲しみや幸せが直截的に呼応する世界に住んでいるように僕には映る。
日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩くような生活なのだろうか。
似ているのかどうかはしらないが、恐らくその生活に近いだろう人たちをネパールの山中で見たことが或る。
ネパールの人々は未知の世界に対する探究心があった。
僕らは都市生活の伝道者であり、情報提供者であった。
彼らが僕の腕に装着されているG-Shockを見る眼には、何か一筋の灯りがあったし、それは実に素直な反応だった。
G-Shockは、あるひとつの象徴だ。
象徴が具現化して僕の腕に巻きついたと考えてもいい。
その先に何を見るかはその者の状況によって異なる。
彼らは村に数本しかないコカコーラを、まるで神秘の泉から溢れた液体のように取り扱ったし、僕の腕に装着してある時計を宝島の宝箱を眺めるように見た。
僕にはそのような気持ちがない。
コカコーラなんてのは、そこいらにある空気みたいなものだ。刺激すら感応しない。
幾ばくかのコインを投げる。ガチャン。
コカコーラが一本出てくる。
そのコカコーラを飲んでいる僕の眼はきっと乾いた死んだような眼なのだろう。
コカコーラに憧れたい。いつしかからそんな風なことを思うようになった。
それができる奴はきっと何処で生活しても問題ない気がする。
飛騨の山奥でも六本木ヒルズの最上階でも変わることがないのかもしれない。
でも自分はダメだ。自分は弱い。
シンプルを求めるにはシンプルな場所に到達しないと出来ないことを知っている。
なにがしろの強みがあるとすれば、僕には、自分が弱いことを知っているというささやかな事実だ。
ほほぅ、携帯はいらないかも?と...
( ´,_ゝ`)フーン
あれ、こっそり勤務フロアに携帯を持ち込もうなんて企てていた人がいましたが、誰でしたっけ??
携帯が手元に無くても2,3日気が付かない私こそ携帯無くても平気かもしれません。
その間誰からもメールも電話も無かったりするし。・゚・(ノд`)・゚・。
会社のルールは、つまりアレっすよ。
阿呆な規則を破るための挑戦で、特に持ち込んだから何するわけじゃないので。
なんつうか〝持ち込めた〟という事実に意味があるというか。。。。
ケータイなんて無くてもダイジョウブじゃない? うん、たぶんヘイキ。
起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半の精神を司りたいと思ふ日々です。
無理なんだけどさwww
>無理なんだけどさwww
諦めが早いですね
マッハのように諦めるのが都会的なのです。
え!携帯持込不可になったのあそこ。
とんでもねえなぁ・・・
あ、携帯はいらないよね、デカくカテゴライズすると、肉体もいらない。
「肉体は魂を運ぶ乗り物である」って誰かが言ってた気がするけど、俺としてはマンガでよくある「力だけ自慢のやつに肩車される小さい知能派」みたいなアレが一番イイと思います。
ごめん、やっぱいるわ、肉体。
そうそう、あそこの魚工場、ついにケータイ禁止なのよね。魚意外は搬入しちゃダメなんだってさ。
だから俺ら毎日ずーっと魚だけいじってるんの。
たまには肉も担当させろって話だよねぇ。