世の中には、目に見えないカタチで巡りあわせというのが実は結構あったりして、例えば、付き合う男付き合う男がロクでもないギャンブル野郎だとか、引っ越すたびに隣人が13号なサイコな人々で困惑しちゃう女子とか、出かけるたびに雨が降る気の毒な人とか、とにかく気づく気づかないの次元を超えて、必ず○○がこうだとXXXだという巡りあいが存在して、我々はその巡りあいを避けて通れずに生きているようである。
数千年前のインドの聖人は、この事実を何とか解明しようと、来る日も来る日も菩大樹の下でウンウンと唸り、ついぞ「これこそがカルマじゃ」と叫んだそうだけれど、そこまで悩まなくてもミクロからマクロまで、生きているとさまざまなレベルでカルマを感じることがある。
僕の場合は、学校である。
泣き虫先生が花園目指したり、B組の金っ八ぁさんがミカン箱から腐り掛けのミカンを取り出して、それを食べたりする、あのスクールってやつである。
『ふんっ何さ。アタイは学校なんて行かなかったんだから』という不良はどっかの材木場にでも投げ捨てておくとして、とりあえず一般市民の僕は、保育園、小学校、中学校、高校、大学と進んだわけだけど、なんとまぁ、世が世なのかね、この中で現存するのが保育園と大学だけだ。
あとは綺麗サッパリ無くなった。母校を訪れようにも姿カタチもない状態。
跡地は、老人ホームとか目的不明な文教施設にサマ変わり。
しかも昨今の少子化を危ぶむと保育園もいつ何時虚空に消えてもまったく不思議ではない。
寂しいバック・トゥ・ザ・マイスクール・ララバイ。
けどまぁ、いわゆる第2学区(新宿、渋谷、目黒、世田谷)では、この現象はけっこう珍しくもなく、特に新宿、渋谷だと、俺もないんだよねぇなんて背中寂しく吐露する輩も絶えないのが小さな救いでもあったりする。
ちなみにいまだに首都高の暴走が止められない某友人のA君は、保育園とか幼稚園には行かず、大学にも進まなかったので、すべての母校が消えたそうだ。
同窓会の通知もここ数年途絶えているとか。
こういうのは、さすがに切ない。
2校残っている僕はまだ大丈夫だ。
自分の心の中でコレだけは消えないと信じている筈のモノが無くなるというのはけっこう衝撃的だ。
例えばN.Yにあるワールド・トレード・センター。
9月11日にあのタワーが消えた時のNY市民に与えた影響は深いという。
無くなるはずの無いモノが無くなる、そういう時はしかも意外とアッサリと無くなるのだ。
こういうこともあるんだと心に留めておきたい。