昔はモラリストとかフィロソファーとかがいて、基本的な命題をじっと徹底的に、自分の頭で追求したんだ、そして自分の声で表現したんだね。
だから、その時代には、あの男は自然についてこう考えているとか、この男は悪魔の存在についてああいう仮説をたてているとか、町の人間がみな知っていたんだ。
しかし今日ではそういうことはない。
もう現代の人間どもは、いろんな基本的な命題については二十世紀の歴史のあいだにすべて考えつくされたと思っていて、自分で考えてみようとしないんだ。
そのかわりに百科事典をひとそろい書斎にかざっておいて安心している。
おれはそれが厭なんだ、本質的なことはみな、いちどおれの頭で考えて、おれ専属の答えを用意しておこうと思うんだ。
大江健三郎『日常生活の冒険』(小説家)