学生時代お決まりの〝噂の高額アルバイト〟といえば、「病院での死体洗い」と「バキュームーカーの掃除」と「新薬の人体実験」が、いまも昔も御三家。
病院での死体洗いは○○部のなんとか先輩がしたことあるらしいとか、ホニャララの友達経由で紹介しているらしいとか、噂が立つのに、実際のところ、その友達とかなんとか先輩には誰も会ったことがなくて、真偽の程は確かめようがなかった。
まるで都市伝説みたいな現象だ。
一説によると戦後間もない頃には実際に存在していたアルバイトらしいけれど、現在では過去の栄光だけが生き残って、実態については誰も知らない仕事らしい。
村上龍の短編小説でも、病院での死体洗いのアルバイトはモチーフとして描かれていて、70年代初頭の頃にすでに眉に唾をつける仕事であったようだからなおさらだ。
2つ目のバキュームカーについては、23区内では需要すらなさそうな始末だった。
なにせ下水道の水洗率が100%なわけだから、当然といえば当然な結果だった。
排泄物のきわどい加減から発生したアルバイトなのだろうか。
このアルバイトもいまだに経験したという諸氏に出会ったことがない。
3つ目の新薬の人体実験も、高額アルバイトの噂としては定番になるアルバイトで、僕自身もないと信じていたけれど、実はこのアルバイトは存在する。
もちろんアルバイトニュースなどで大々的に広告媒体を通じて募集しているわけではなく、口コミで募集しているバイトだ。
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僕の場合はこうである。
ある日の午後、大学1年の夏休み前の経済学概論の授業中、先日の合コンで飲みすぎたせいで、僕がうつぶせになって居眠りをしていたら、後ろの席の同じ学科の生徒が肩を叩いてきた。
「ねぇ、ねぇ、ちょっと起きてる?ko君ってバイトしてたっけ?シンヤクのバイトがあるんだけどさ、やんない?」
当時、長髪だった僕は就業できるアルバイトの業種が非常に限られていて、ほとんど日雇いのアルバイトしかしていなかった。
僕は同級生の声で夢の中から呼び戻された。
眠い瞼をこすって、いましがた同級生から言われたことを反芻した。
「信也君のバイト?誰それ」
信也というハウスDJをしている同級生がいたので、そいつ絡みのアルバイトなのかと思ったのだ。
ただ、大学1年当時では、まだ仲良くなかったので、訝しく思った。
「ち、違うよ。新薬だって。新薬。クスリの人体実験のバイトだよ。なーんもしないで寝ているだけで10万ぐらい貰えるよ。漫画読み放題。ゲームし放題。ねぇ、一緒にやろうよ」
同級生が満面の笑みで僕を誘った。彼の笑顔が天使に見えた。
「ちょっと、それ詳しく教えてよ」
こうして僕の新薬実験のアルバイトは始まった。
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実際には新薬の実験には幾つかの条件があった。
まずは身内に薬剤会社とか医者とか〝医〟に関する職業の者がいないこと、そして新薬のアルバイトについては誰にも口外しないこと。
投薬の影響で身体に異常があっても責任は被験者にあることを了承すること、最後に被験者の身体能力が健康であること。
要するに暗黙のうちに問題を起こさないように実験を行いたいというのが当局の狙いのようである。
厚生省だか何処かの認可を通すための最終的な実験であるために、サンプルとしての被験者の健康状態にもうるさかった。
僕は親族に医者が居るのと、身長の割には体重が少なすぎる(当時52キロ程度)というのが、不都合な条件だった。
同じ学科の斉藤君は、同じくらい体重が低すぎて、投薬が認められなかったくらいだ。
彼は登録するだけで貰える3千円を手にしてこの仕事から去った。
僕はしょぼしょぼの3千円組になるのは避けたかった。
泣く泣く体事にありつけないことも考えられたので、身体測定の日には鉄アレイをポケットに忍ばせることを考えた。
斉藤君から体重測定はズボンを穿いたままであると事前に情報を入手していたのだ。
そうすれば57キロくらいには変貌できる。準備はOKだ。
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翌日、学校の公衆電話から、山手線XXX駅にある登録センターに電話をした。
プルルルゥ・・・。
なぜだかしらないけれど異常に緊張した。
カチャリッ。
「あ、あの~。新薬のアルバイトをお願いしたいですが・・」僕がそう言うと、予想していたよりも明るいノリの声で─そう、それはまるで八百屋さんみたいだった─応対してきた。
出たのは若い男性の声だった。お堅いおっさんが出るもんだと思っていたので面食らった。
「はいはい、アルバイトですね。どうぞどうぞ。たくさんありますよ。いまならねぇ、そうそう、ジョウチュウがあるねぇ、ジョウチュウしちゃう?ジョウチュウはお金がいいよー、僕ちゃんもするかい」
ものすごく早い展開で久しぶりに僕ちゃんと言われた。
そして、この人の言うジョウチュウってのがさっぱり意味が分からなかったけれど、その高額そうなお金の香りにまんまと釣られた。
きっと、ジョウチュウというのは特権階級だけに許される所業なのだろう。
それとも僕の声を見込んでの勧誘か。恐らくは両方だ。僕は運がいい。
きっぱりくっきり僕は答えた。
「はい、僕ちゃんジョウチュウします」
「あら、ほんと?嬉しいねぇ。ジョウチュウは募集してもなかなか集まらないから有り難いよ。それじゃあ、場所は分かるかな」
人が集まらないという彼のセリフに激しく反応し、いささか不安になった。
「す、すみません、あの、その、ちょっとよく分からないんですけど、ジョウチュウってなんですか」
「あれ?知らなかったの?紹介してくれた友達から聞いてないかな。ジョウチュウって静脈注射のことだよ」
僕は丁寧にお断りをして、もっと軽めの仕事を紹介してもらい、登録センターの予約をした。
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登録センターは山手線のXXX駅から徒歩10分程度の閑静な住宅街のはずれにあった。
目立たない建物で、一見、何をしているビルなのかさっぱり掴めなかった。
仕込み作業が万全だった鉄アレイは効果を発揮し、僕は体重制限をクリアした。
静脈注射は勘弁だったので、軽い新薬ということで、痒み止めのパッチテストを紹介してもらった。
5日間くらいの軟禁で、腕に薬を塗ったパッチを貼って様子をみるというのが内容だ。
かぶれたりしないかを確かめるらしい。
所謂ジェネリック製品だったので、安心というのがその触れ込みだ。
内服液とかも辛そうだし、パッチテスト程度で助かった。
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実験は場所を移動し、丸の内線のXXX駅近くの病院で行なった。
病院の裏手にはプレハブ小屋があって、はい、ここで皆さんは寝泊りしますと、無愛想な看護婦が説明をし、当局は責任を持ちませんということが延々と書かれている承諾書にサインをさせられて、変なガウンを着せられた。
荷物は別の場所に預けられた。
プレハブ小屋には、同じような大学生が数人、それにプロデビューを目指しているという時代錯誤ないでたちのバンドマンが数人いた。
仕事内容は、ほんとうにまるでなかった。だらだらと喋ってゲームしたり全巻そろっている〝こち亀〟を片っ端から読んだりしてだらしなく笑っているだけだった。
他の連中も同じくらい脳が足りなそうな連中だったので、べつに友達になろうとも思わなかった。
そのほうが気が楽だし、一緒に参加した友達と寝転んでいるだけで十分だ。
ただ、日に2回ほどある血液を抜く注射が厄介なのと、出されるご飯の量が少なくて腹が減りすぎたのが難点だった。それでも後半になると、パッチを貼っているのすら忘れた。
結局、僕は5日間ボケーとしていただけで、10万近く手に入れることが出来た。
人間がダメになりそうな仕事のひとつを19歳で僕は経験したことになる。
なお、斉藤君は僕と同じ手段を使って、後日、再登録し、ジョウチュウの仕事をした。
血糖値を無理やり上げる実験だ。
彼は20万以上のお金を手にしたけれど、血糖値が正常に戻るのには実験終了してから1ヶ月以上もかかった。
「もう、ジョウチュウはやばいね」彼は目を細めて、そう述懐した。
これが噂の新薬実験である。