「ねえ、初恋の味ってどんな味?」と、ペン子は夕陽が沈む水平線を眺めて訊ねた。
隣には同じクラスのハン太が座っている。友達と旅行すると親に嘘ついて出掛けた一泊二日の伊豆の旅行。
とても遠くに来てしまった気がした。学校では知ることのないハン太の素顔がたくさん見れた。
ハン太は初恋ってなんだろう?と一瞬悩み、そして思った。
初恋の味はカルピスの味だよと。きっとそうなのだ。
「そうだなぁ、初恋の味はカルピスの味だよ」
ハン太はまっすぐにペン子の眼を見つめて答えた。うふふとペン子が笑い、ハン太の肩にもたれ掛けた。ゆったりとした恋人同士の時間が流れ、いい感じの雰囲気になった。
しばらくして、ハン太がわざとらしく大きな声を出して言った。
「あ、一番星だ!」
ペン子はドキッとした。一番星?私も見つけたいわ。
「何処に見えるの?」
ハン太は笑顔で答えた。
「空を見たってまだ見つからないさ。なぜなら君が僕にとっての一番星だ・か・ら・ね」
親指をグッと突き出す。
ペン子が頬を赤らめたのは決して夕陽のせいだけじゃなかった。
「もう、ハン太さんったら。いやん」
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こんな爪の先にまで毛虫が這いずり回って痒くなるようなシチュエーションにも登場し、恋のおたすけアイテムで初恋フレーバーといえば、やはり誰がなんと言おうと、それは〝カルピス〟である。
とにかく初恋の味といえばカルピスの味だ。
初恋がどれくらい甘酸っぱいのか知らずに、キャベツ畑で赤ちゃんが生まれていると信じていた時代、すでにイコールで結ばれていた。
コマーシャルでもそう言ってたし。
そして同様に夏といえばカルピスでもある。
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東海林さだおが多くのエッセイで書いているように、幼き頃、カルピスの希釈についてはさまざまな制限があった。
微妙な匙加減で1滴2滴を争い、決して濃いカルピスは飲めなかった。
原液に近いカルピスというのはコップ一杯に丸々注がれたヤクルトと並んで幻の飲み物だったのだ。
納屋にたくさん戴き物のカルピスの瓶があるというのに、〝薄め方〟に関してはスパルタン。
あるいは、あんまり濃い味で飲ませたらいけないという配慮もあったのかもしれない。
いずれにせよ、1人っ子じゃない僕は従姉妹や兄弟を合わせると9人いたので熾烈な争いがあった。
田んぼで遊んでいる瞬間に、従姉妹のお姉ちゃんに奪われたなけなしの一杯は痛恨の思い出である。
そして大人の階段を1段飛びで駆け上がって成長するにつれて、カルピスは遠のき、暫くの間、コーラやドクターペッパーやチェリオに浮気をした。
炭酸最強時代の到来だ。
カルピスはガキの飲むお子様ドリンクと考えて、ナイフみたいに尖がっては触るもの皆傷つけ、盗んだバイクで走り出した15の夜 オブ ガラスの十代。
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ところがカルピス自身は黙っていなかった。
我々が浮気をして、ウツツを抜かしている間も、己を磨いては鍛錬していた。
昔別れた女子にたまたま再会したらバージョンアップして可愛くなっているように、「私、すぐにいただけちゃいますわ。ウフ」と、自らネグリジェを纏って缶に入って現われた。
えーっ、あの頃のペン子じゃない!ハン太だったらきっとそう言うだろう。
それが〝カルピスウォーター〟だ。
この登場は本当に衝撃的だったといまでも思う。
自分達がする筈の手間がカットされたのだ。
かき混ぜ済みの納豆が販売されたら、きっと同じくらいビビるだろう。
それぐらいの驚きがあった。
しかも天然水だかアルカリ水だかの、なんだか分かんないけど〝水道水じゃない水〟で薄めてあるし。
おかげさまで街中でも手軽にカルピスが味わえるようになった。
先日まで家の中でしか飲んでいなかったプライベート臭が漂うドリンクが公に現われた驚きもあった。
家じゃないのに、あのカルピスが・・・である。夏の夕暮れに戸外で飲むカルピスは格別だ。
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ところで〝カルピスウォーター〟は発売されてから15年経つそうだ。
だとすると、今現在、盗んだバイクで走り出している若人は最初から缶に入っているカルピスを知っているということになる。
下手すれば薄めてないカルピスを知らない子もいるだろう。
そういう子を見かけたら瓶に入ったカルピスを見せて、<独自ルートで入手した工場でしか置いていない幻のカルピスの原液>ぐらいの嘘はついてみたい。
そして恐らくは、こういうのこそジェネレーションギャップというのだ。