2006年09月27日

デッド オア アライブ

じつは本当はとっくに死んでいたんじゃ・・・と疑問を禁じえない役者さんがいる。

とうの昔にくたばっているはずなのに、何かの匙加減で、威風堂々と生きているタイプ。

森繁久彌のような不老長寿タイプではなく、その人から漂う〝スメル オブ デス〟が只ならず、うっかりと嗅いでしまっただけで黄泉の国が見えかけてしまうような人が、そんな疑問を持たれてしまう。

バックショットに必ず霊界が映っていて、俗世間の泥みたいな煩悩に200マイルほど乖離している役者。

役者ではないがミスター・スピリチュアルこと江原にはそういったのは感じられない。密に霊界ワールドとコンタクトを取るわりには、彼のあらゆる仕草が強い現世の執着心というか煩悩というふうに脂汗ごとく滲み出ているのが惜しいところだ。

霊界よりも六本木に精通していそうな俗っぽさを持ち合わせている。

その点、丹波哲郎はまるで現世にこだわりがあるように見えなかった(少なくともブラウン管越しには)。

いつだって準備OKだよって感じだ。というか本当はもう死んでいるんじゃ・・・とまで疑いまで掛けられるのが役得というより、彼そのものだった。

こういう疑問は丹波哲郎だけにしか起き得なかった。

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普通、霊界への直行便というのは人生において1回こっきりの搭乗で片道切符なのは、大統領だって首相だって、テロリストだって天*陛下だって変わらないのに、どうも丹波哲郎に限っては、この直行便に何度も搭乗できて、しかも往復チケットを大量に所有しているように思えなかったからだろうと察した。

霊界専用の搭乗ターミナルを所持してるような気配。

もちろん、これは丹波哲郎の映画「丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる」の影響が色濃いためである。

映画公開中、レンタルビデオで熱中に見た僕と幼馴染にとって、丹波哲郎は映画俳優というよりは霊界案内人だった。

つのだじろうのキャパを持ってすらこなせない。丹波哲郎彼一人が可能とするジャンルだった。

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ところで、丹波哲郎は僕にとって霊界案内人であるが、同時に屈指の俳優だった。

大人になってから観た「砂の器」、「007は二度死ぬ」、「日本沈没」は懐かしさというよりは、昔の日本にこんな映画あったのかよ、超スゲー!という気持ちが先行した(007は海外だけどね)。

全てに丹波哲郎が絡んでいる映画だ。

セリフというよりも身体全体を行使して体現する演技は身震いする。

僕らの合コン言葉に、誰それがいる合コンは賑やかで華やかになるという、合コンが〝立つ〟キャラがいるが、丹波哲郎はまさに映画に登場すると作品が〝立つ〟役者だった。

本当に心から冥福をお祈りする。

各ニュースサイトやらスポーツ新聞の「丹波哲郎、大霊界に行く」という見出しのベタさにあまりにも呆れ果てて、いざなにを書いてみようかと思い、ここまで書いてみた。

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さて話は変わるけど、僕は14年ほど前に信頼する友人とのひょんな会話で「そういえば、菅井きんが亡くなったね」といわれて、「あぁ、そうなんだ」といい、その後の何年間もずーっと信じてきていた。

で、5年ほど前のある日、ポポロン食いつつ、なにげなしにテレビを点けたら、生放送の番組が放映されていて、そのゲストの一人に菅井きんの姿があった。

もちろんその瞬間に無意味に食べていたポポロンが空中を舞い、心臓が止まりかけたのは言うまでもない。

まさに片道切符でうっかり搭乗するところだった。

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投稿者 ko : 2006年09月27日 19:19 | トラックバック(0)
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