時代を背負いつつ回転していく宇宙には、大まかにわけて、三つのステイションがある。
一つは思想の駅、もう一つは感性の駅、もう一つは生活の駅です。
これらは、いつの時代もそれぞれの客を乗せたり降ろしたりしているわけですが、60年代は、思想ステイションの乗降客が多くてね。あのころ、『思想の科学』という雑誌があって私も熱心に読んでたけど、70年代に入ると、とたんにつまらなくなった。
「思想に科学なんてあるのかよ。思想にあるのは流行だけじゃないの」とか言ったりした。
それは、70年代は、感性ステイションの乗降客が多くなったんですよね。
禅なんか感性ステイションの助役だな。いろんなわかんないことがあって、山の洞穴で座禅し、諸国を旅し、滝にうたれ風雨にうたれ、風を食らい水辺に宿してなお悟れなかったある日、風鈴がチリンと鳴ったのを契機に大悟する、という。よくあるじゃないですか、こういうの。
感性は思想を凌駕するわけですが、生活によって凌駕される。で、生活は、また思想によって凌駕されるという三つどもえですね。
70年代の感性の時代を経て、80年代は生活の時代。
これは、そのうち、思想によって凌駕される運命にある、と。
嵐山光三郎(作家) 『「若者たちの神々Ⅳ」(筑紫哲也との対談集)』