昨晩は雷が踏み切りの信号に直撃したので駅員が手旗信号で電車を捌いたという、バングラディッシュのダッカみたいな状態だったので、皆既月食どころか家に帰れるかどうかも分からない始末だった。
バケツをひっくり返したように土砂降りだったし。そんなわけで今朝はぼんやりとしたまんま電車に乗っていたら2駅ほど乗り過ごしてしまった。
いろいろと考えることがあったのである。
日本語は自分を指し示す一人称の代名詞はめちゃくちゃ多い。というかその気になれば幾らでも作れるという恐ろしい言語である。そしてこの一人称ほど、そのあとに続く文章は言葉の雰囲気をピカピカに輝かせたりヘニョヘニョに台無しにしたりするものだと、朝から考えていた。
「○○の愛人」。この○○にありとあらゆる一人称を挿入すると様変わりするのだ。
乾いたりジメジメしたり愛人関係でさえ変幻する。
なお、愛人はラマンと呼びたいところだが、そこはぐっと我慢をしたい。
■「私の愛人」
まあ、普通である。男女とも両方使えるだろう。一番エッチっぽいのもこれである。だが愛人の後に続ける言葉にだけは気をつけたい。「私の愛人。ポチ」ちょっとトルエンの量が多かったんじゃないかな?それ、犬だよ。そんな風に心配しそうである。
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■「ぼくの愛人」
<僕>という名称は<ぼく>や<ボク>と書くだけで、なんだかどうでもよさそうな曖昧性を帯びてきて、すべてがカジュアルになってしまうパワーがある。愛人って流行ってるんでしょ。ボクも最近気になるんだよね、みたいな。
まるで吉田栄作のような一人称である。「亡国のイージス」という寒い日本映画をトチ狂って1800円払って観た事があり、たぶん緊張するであろうシーンに吉田栄作が登場した瞬間、吹き出したことがある。
自衛隊の話なのに吉田栄作が被っているキャップな帽子がなんだかバブルな時代を髣髴させたのだ。タンクトップだったし。シリアス感が微塵とも見当たらない映画だった。そんな吉田栄作は「ボク」という一人称がなんとなくしっくりくるように思える。
なお、変形の「ボキ」はどうだろう?「ボキの愛人」・・・。見たこともない、そして会うことも無いだろう愛人だけれども、その愛人がものすごく不憫に思えてくるから不思議だ。そんな奴の愛人だけはやめておけ、と。
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■「オラの愛人」
説明不要。「オラの愛人」、これを発したのは孫悟空以外の何者でもない。ただそれだけだ。
悟空の愛人がブルマでも人造人間ナントカ号でも特にこだわらない。そんな設定の漫画はコミケに掃いて捨てるほどあるだろうから。闘うなり地球を救うなりとなかなか肉体関係に及んでいなそうな関係でもある。
「ママ、この<あいびと>ってどういう意味?」と子供に尋ねられて慌てふためいている昼下がりの(ジョージ高橋)主婦が2万人くらい居そうだ。
ただ、ここまで書いてふと思ったのが「ドラゴンボール」以前に「オラ」と言えば誰をイメージしていたのか、まるで思い出せない。そんな事を考えると、ちょっとだけ悔しい。
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■「あたいの愛人」
愛人側の家族に気遣いゼロ、秘密なにそれ?、オープンマインド・ドントウォーリーな関係。それが「あたいの愛人」だ。ジャマイカみたいである。もう少し愛人関係らしくひっそりしろよ。何処からか友人達の声が聞こえてきそう。
人生いろいろ見聞してきたけれど、実際に自分のことを「あたい」と呼んでいるようなハスッパ(←完璧な死語)に出会ったことがない。あと、「あたいの愛人」って、なんかベータビデオ版しかなかったアダルト系のタイトルにありそうだね。
と、ここまで考えたところで駅が過ぎているのに気がついた。