一人暮らしをするので引越し先を探していた時の話だ。
中央線沿線にある幾つかの不動産屋の扉を叩き、間取り図をかれこれ三百近く見た結果、事態は思うように進まないだろうという先行き不安な未来だけが明確に分かった。
安いけれど狭い、広いけれど高い、手ごろだけど遠い、近いけれど既に入居済み。とにかくそんな結末ばかりなのだ。
「やれやれ、これじゃあ、家を見つけられる前に老け込んじゃうかもしれないですね」
その当時放映していたコマーシャルを思い浮かべて、僕はやや自嘲的に笑った。
不動産屋は手馴れた様子で─きっとそういう路頭に迷うような客が毎年現れては消えるのだろう─「もちろん、全てのご希望通りにご提供できるとは限りませんが、物件との出会いというのは、人と人との出会いと同じように、何かの縁であったりタイミングであったりします。こういう言い方は比喩ではありますが」と実直に説明してくれた。
僕はたったいま急行列車が発車してしまったせいでホームに取り残されることになった乗客のような気持ちになり、ますます暗くなった。
「タイミングですか・・。簡単なようでなかなか難しいですよね」
不動産屋は感じの良い笑みを浮かべた。そういうのに慣れているのだ。
「たしかにおっしゃるとおりです。しかし、時にはタイミングも数字に置き換えるのでしたら比率がグッと向上することもあります。恣意的ではない経験則によってですね」
僕は不動産屋の次の言葉を待って訊ねてみた。
「どんなやり方なんですか」
「単純ですよ。中央線ではなく私鉄沿線にしたがって不動産を探すのです」
そういうわけで、僕はまた新たな不動産屋を探す旅に出た。
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某私鉄とJRが乗り入れをしている駅のバスロータリーにマクドナルドがあり、その2階で大手の不動産屋が営業していた。
仲介料が家賃の2ヶ月程度分発生してしまうので、その手の不動産屋は意識的に避けていたのだけれども、この際背に腹は変えられない。
僕は派手な広告で数多の見取り図が張られている扉を開けた。
輝かしい不動産屋は、何もかもがシステマチックに効率よく運営されていて、極力無駄を省いて最短の方法で顧客に<恐らく望みに近いだろう不動産>を提示していていた。
検索を専門とする部署があり、内覧のみを受け持つ部署があり、そしてそれらを適切に指示し、我々と不動産の仲介をする窓口係の営業がいた。
希望の間取りはどれぐらいなのか、許容できる駅からの距離、家賃、角部屋、トイレ風呂別、ペットの有無など何項目にも渡りアンケートに答えると、窓口係の担当は迅速に検索部門に回した。
5分も経たないうちに分厚いファイルが僕の前に出された。
「ここにアンケートでお答えいただいた条件に合致する物件が140程度あります。どの物件も内覧が可能です。今日空いている物件ですので、明日には埋まっているということもありますが、全てが埋まることは決してございませんし、明日になりましたら、また新規物件も追加させていただきます。まずはゆっくりとご覧ください」
自信に満ちた頼もしい受け答えだった。
そして出された珈琲を啜りながら約1時間物件を確認し、週末に内覧の約束をした。
内覧の前日、僕は友人のAに電話をして、いよいよ一人暮らしをしようと思うんだと伝え、もし週末空いているようだったら内覧する物件を一緒に見てくれないか、と頼んだ。
彼女は小さい頃からの同級生で久しく会っていなかったけれど、ひょんなきっかけが理由で遊ぶようになった友人である。
彼女がかつて僕に一人暮らしに関して感情的に話したことがあったのだ。
普段はクールを装っている彼女なだけに、意外な側面を垣間見たような気がした。
「もし貴方が憶えていたら一人暮らしをする時の内覧に必ず私を誘ってね。きっと役に立てるわ。約束するわ。だからお願いだから物件を見るときに今私が言ったことを思い出してね」
思い出した僕は、携帯電話で彼女の番号を呼び出し、連絡を取ったのだ。
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不動産屋のファイルにあったのは、某私鉄路線の物件だった。急行列車は止まらないけれど新宿まで10分程度だし、駅の周辺は十分に栄えている。
駅から徒歩で3分という近さも魅力的であった。
そして、そのアパートに到着すると、予想以上に新築物件だったのに驚いた。
角部屋で3Kで7万円。50平米もあるしこれは相当の掘り出し物だ。洋間の奥には6畳の和室がある。出窓が2つあり、気持ちよい太陽の光が惜しみなく注いでいる。
出窓から顔を出すと鮮烈な空気が僕の顔をくすぐった。
近所に商店街があるし買い物にも便利である。それでいてひっそりと閑静なアパートだ。築5年と家賃と間取り、どれをとっても申し分ない。僕を乗せた急行列車の車輪が気持ちよさそうに滑り始めた光景を想像した。
不動産屋が僕の心を汲み取ったように「正直、ここまでの物件となりますと、手頃というよりは、お買い得としか言いようがありません。たぶんすぐに埋まってしまうでしょう」と物件について付け加えた。
きっと、そうなのだろう、と思った。そして、僕がこの物件にしようと決めたときだった。
彼女が不動産屋にいきなり質問した。
「この部屋に住んでいた以前の住人は、もしかして髪の長い色白の細い女性ではありませんでしたか」
僕には質問の意図が分からなかったが、不動産屋はそうでもないようで突然酷く狼狽した。
「ど、どうして、それを・・・。」
何についてやり取りしているのか理解ができない。
少々訝しがって彼女に小声で尋ねた。
「なんなんだよ、いったい。髪の長い女だのって」
彼女は溜息をついて悲しそうに続けた。
「私、見えるのよ。そういうのって気にする人がいるからずっと黙っていたんだけれど。小さい頃から日常的にね。この部屋でその女の人亡くなっているわよ。ちょうどその畳のあたり。部屋の隅のところで仰向けになって死んだんだわ。真っ黒な髪の毛がほうきのように広がって目を見開いて天井を仰いでいる女の人がいまもそこに居るわよ」
彼女が指差した位置で腕組をしていた僕は思わず畳から足を離した。
「彼女、とても嫌な死に方をしているわよ。苦しめられてじわじわと朽ち果ててゆくような死に方よ。まだここで彷徨っているもの。全然成仏できていない。仰向けになって目だけがピクピク動いて誰かが来るのを待っているわ。私は部屋に入った瞬間に彼女と目が合ったから分かるのよ。何度も何度も私達のほうに目を向けて訴えているわ」
そして続けた。
「こんな能力だけれど、こういう機会に絶対に貴方の役に立てるのよ」
不動産屋は、すでにお札も貼ったしお払いもしたのでお伝えしませんでしたが、と説明したけれど、そんな説明はもはや僕の耳には入ってこなかった。
とりあえずこの部屋を借りることはないと思いますと伝え、改めてご連絡しますとだけ約束した。
その後に僕自身のアンケート用紙を破棄してもらえるよう担当に電話で伝えた。今回のことについて争いたくないし、僕のほうから何かを求めようとも思ってもいないけれど、僕の履歴についてだけは全部抹消するようにして欲しいと。電話に出た担当は新しい物件を進めることもなくあっさりと承諾した。
結局、僕は全然別の不動産屋が進めてくれた別の土地にある物件に住まいを決めた。もちろん彼女にも同行してもらってのことだ。
あのアパートは、いまどうなっているのだろう。
行ってみようとも思わないし、行ってみたいとも思わない。
でもたぶん僕が最初に感じたように家賃や間取りなど十分すぎる条件が揃っているから、借り手に困るようなことはないはずだ。お買い得と信じた誰かが借りたことは容易に想像できる。
幸か不幸か、僕には見えない何かが見える友人の特殊な力によって、僕はそのアパートを借りなかったに過ぎないのだ。