先日、深夜番組を観ていたら、「現代社会の物語性の喪失」という、やや重たい内容を放送していた。
インターネットが日常的なツールになったのが一因で若い世代を筆頭に読書離れや本離れが進んでいるという問題提起は、もはや人の心を動かさないぐらいに馴染み深いので、その番組でも取り扱ってはいなかった。その代わりに、読書離れや本離れという行動様式そのもの以上に、それらの活字に付随している<物語性>自体が若者達から失われているという展開だった。
背表紙を開いて文字を追うことで、扉を叩くことができる小説の世界。そこには物語が十分に用意されているけれど、悲しいかな、現代の活字離れは活字そのものを読む習慣ばかりではなく、その世界の入口すらも喪失しているのという。
なるほど、物語性か。大変興味深い部分である。
SNSで友人達の日記をつらつらと閲覧していると、彼らに関する情報を日記から取得しただけで、さも会ってしまったような満足感を得てしまう危険性があるんじゃないかと、今年の4月頃、何処かに掲載したことがある。僕個人が感じている危険性に過ぎないので、誰もが抱える問題ではないだろうが、ネットではなく実社会で会うということに重きを置く人間としては、ネットを通じた代替の出会いに懸念を抱かざるを得ない。
社会人になると、東京以外の地方都市に住む友人が増えてくる。僕はその地方に出向く時、あるいは彼らが東京にやってくる時、出来る限りの時間を割いてじかに会うようにしている。これには理由があって、メールやネット、SNSで完結してはならないコミュニケーションがあると信じているし、僕自身、そういったコミュニケーションが単純に好きなのだ。
むろん、彼らの一部は東京にやって来ようが、最終的に電子メールのみで連絡を取り合うだけで、実際に会わないケースがあるけれど、まあ、時間だって限られているという事情があるので、どうすることもできない。
SNSは、そういった僕が好きなコミュニケーションを結果として奪っているんじゃないだろうかと思う場合があるのだ。
ブログやSNSや電子メール、目を見張るほど、ネット以前の時代に比べて、情報を発信する場も与えられたし、同時にそれら情報を得る場所も増えた。しかしそこには文字数に比べると物語性が欠如している。
最近僕が感じる、SNSで誰かの日記を読んだ後にやってくる独特の感情、もしかしたら知らずして物語を求めているのかもしれない。いうまでもなく日記には物語は存在しない。近頃、まるでシーソーゲームでバランスを取るように小説を読むようになってきているのは、情報社会をサバイブしようとしている本能の所以なのだろうか。